外を出た時点でどんよりと重たい曇り空で。昨日散々聞いた天気予報でも言われていたのだし。予想なんて幾らだって出来たはずなのに、手ぶらで来てしまったのは伯理の怠慢である。
「あー…」
ポツポツとアスファルトにまだらなシミを作る程度だった雨は、そのうちに強くなった。
伯理はただ短く声を上げて、静かに空を見上げるだけだった。顔に振り返る雨水を拭うでもなく、ぼんやりと空を眺めて歩き始めた。急ぐ様子はなく、仕方ないなぁとでも言いたげな様子で帰路に着いた。
全身が強くなっていく雨に打たれて濡れていく。身に付けたシャツがぐちょぐちょに濡れて、肌にペタリと張り付いた。剥がそうと重たい布を摘んだ時、軽快な足音が伯理の前で止まった。
「ハクリ」
「…チヒロ!」
目の前には千鉱が立っている。少し眉を下げて、どこか心配そうな表情の千鉱は自分がさしている傘を伯理の方へ傾けた。既に濡れている彼を降る雨から守る様にしている。自分の服の裾が濡れて汚れても気にしない様子で伯理を見つめていた。
「チヒロ濡れちゃうよ」
「ハクリは濡れてる」
だから良いよ今更と笑えば、千鉱は少し寂しそうに口を閉じる。別にそんな顔をさせたい訳ではないんだと。伯理が慌てて『ありがとう』と礼を述べると、千鉱は気にするなと首を振る。
「そもそも天気予報知ってたのにちょっと出るだけって言って傘持ってかなかった俺が悪いもんね」
「いや、俺も一言声を掛ければ良かった。気が利かなかった」
「てかチヒロはわざわざ傘持って迎えに来てくれたんだ」
「ハクリが濡れてしまうと思って」
もう既に濡れている伯理を下から上へ見ながら、困った様に視線を落とす。もう手遅れだなと頬を掻く千鉱に『そうだな〜』と警戒に笑ったが、彼は浮かない顔で首を捻った。
「あそこに雨凌そうな屋根もあるのに平気で歩いて、大丈夫なのか?」
「慣れてるから、濡れるの」
「…慣れ?」
殴られるのに天気は関係なかった。自分から楽しそうに暴力をふっかけて来たくせに、兄はいつだって『お前のせいで濡れちまったじゃないか』と笑っていた。張り倒されてぬかるんだ地面に顔が埋まる。泥が口の中に入り込むけれど、それを吐き出す前に強い蹴りが腹に入って唾液を吐いた。
そう言う日々を過ごしていた。だから濡れるのも汚れるのも慣れている。加害性が無いなら伯理にとっては幾分もマシと言うか。気にも留めない安寧でしかないため、雨を避ける事はしなかった。
伯理が何も言わずとも、千鉱は何となく彼の言葉の意味合いを察してしまった。何か言おうとして少し口を開いたけれど、かける言葉が上手く見つからなくて、結局黙ってしまう。
ヘラヘラと平気そうに笑う伯理がひどく哀れに思えた。そう思う事は伯理にとって不名誉なのかもしれないし、嫌なのかもしれないけれど、それでもそう感じざるを得ない。可哀想な人だとそう思われている事を彼が知れば、きっとそうかなんて言って悲しげに笑うだけなのだろう。ただ千鉱にそう思われている事実を一人で静かに抱えて、飲み込んでしまう。そんな事はさせたくない。
勝手に気まずくなった千鉱はただ黙って傘を押し付けて、自分の手に持ったもう一本をさそうとした。それを伯理は何故だか止める。待ってと焦った様な声に千鉱は顔を上げた。
「折角なら、一緒に入って行きたい」
「…なぜ?」
「天理と二人で出かけた時、雨に降られて、その時に母さんがおっきな傘持って迎えに来てくれて、それがすごく嬉しかった」
「うん」
「だから一緒に入りたいなんて、…理由になってないな、ごめん」
差し出した傘をギュッと握り、黙って受け取った伯理の手から千鉱は黙って傘を取った。それから伯理の方へ少し傾けながら、行こうと首を傾げる。
「それがハクリにとって大切な思い出なら尊重する。お前がそれで嬉しく思うなら、そうしてやりたい」
「…傘持って来てくれた時点で、めっちゃ嬉しかったよ、あんな事言ったけど。俺の方に傘傾けてくれるチヒロ見て、すげー嬉しかった」
「…うん。ハクリがそう思ってくれてるなら、いい」
伯理は大股で距離を詰めて、千鉱の隣に立つ。湿った服で千鉱と肩が触れてしまい、反射的に謝るも。千鉱は柔らかな表情で気にしなくて良いと言った。
「戻ったら着替えれば良い」
「そっか」
「ハクリはまず風呂入れ」
「はい」
傘に打ちつける雨音が少しだけ弱まって来て、二人で空を見上げる。先程よりも緩やかに、ポツポツと降っていた。この調子ならすぐ止みそうだと千鉱は呟く。遠くの方では重たい雲の隙間からほんの少しだけ陽の光が見えた。
「通り雨かな」
「濡れ損だな、ハクリ」
揶揄うようにそう言えば、伯理も楽しそうに笑った。その顔に千鉱は密かに胸を撫で下ろす。
「でも、傘持ってチヒロが迎えに来てくれただけで、俺は雨が好きになっちゃったかな。いや、別に元々嫌いではないけども」
そう朗らかに笑う伯理に千鉱は短く言葉を返す。濡れる事に慣れるのは別に良い事ではない。本人から直接聞いた訳ではないけれど、おそらく彼にとっては恐ろしくて、息が詰まる様な思いをして来たのだろうし。それがこんな事一つでほんの少しでも上書き出来ているのならそれに越した事もない。
重たい雲の隙間から見える晴れ間は少しずつ広がっている。束の間、通り掛かっただけの雨雲は、すぐにも次の場所へと急いで行く。きっともう傘なんて必要ない程の弱い雨の中、二人は傘の中で身を寄せ合って歩いた。小さくて狭い布で切り離された空間で、伯理は晴れやかな顔で笑う。そんな彼に安堵した様に、千鉱は僅かに目を細めていた。
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