「チヒロ」
名前を呼んだ。名前だけで可愛かった。
赤い目をこちらに向けて、ふっと目を緩めて。少し首を傾げて気持ち程度に微笑む、千鉱の優しい顔が好きだ。
「なに、ハクリ」
名前を呼ばれた。名前を呼ぶ声がいつだって可愛い。
鍛えていても腕も手も俺より小さくて細くて。そんな身体で重いものを背負っているのだと思うと、何だか放ってはおけなくて。その小さな背中に守られてばかりの俺が、そう言って何が出来るかと言えばまあ、十中八九何も出来やしないけど。力になりたいと思う事くらいはタダだろうって。そんな言い訳をしながら、俺は千鉱の手を握った。
「どうした?」
「好きだ」
千鉱は重たい瞼を持ち上げて、目を見開く。そりゃあ突然そんな事を言われたらびっくりするよな。
千鉱がこんな事にうつつを抜かす暇なんてないというのは、勿論よく分かっているけれど。人の命が蝋燭の様に簡単に消えてしまう世界で、何も伝えない方が俺は嫌だった。結局、彼女の意思度外視で自分勝手に話を進めている訳だけど、好意なんて他人のエゴでしかないのだから、何だって良いと思う。
千鉱は少し考える様な素振りを見せた後。少しだけ眉を下げた。困った様な顔にダメだったかと俺も目を伏せたタイミングで、口を開く。
「ハクリは変わった趣味をしてるんだな」
「え」
想定をしていない言葉に顔を上げる。千鉱は変わらない涼しい顔で、顎に手を当てていた。
「ふぅん」
「え、チヒロ?」
「すごいな、うん」
そう言ってそうかと頷いて。千鉱はその場を去ってしまった。その場に残された伯理としては、謎だらけである。
告白の返答にすごいと言うのはどう言う意味合いなのだろうか。きっと承諾ではないし、とはいえ拒否でもない。答えという答えを貰えないまま、放っておかれた伯理は、呆然とした様子で『え…?』と首を傾げた。
*
その日の夜。結局あれから一度も千鉱とは会えないまま、夜を迎え。そろそろ就寝かと欠伸を一つしたところに、柴が来た。彼は親しげに片手を上げて、伯理の隣に腰掛ける。
「なんやハクリくん、チヒロちゃんに告白したんやって」
「…えっ、え、何で知ってるんですか!?」
誤魔化すまでもなく、全てを肯定する素直な伯理にケラケラと喧しく笑った。柴はニヤニヤとタチの悪い笑顔で話の出所を伝える。
「チヒロちゃんが直々に。ハクリが私の事好きだってって」
「チヒロが!?」
「何やねん。何をそんなに驚いてんの。付き合うたんやろ、自分ら」
「はぇ!?付き合う!?」
ずっと大きな声を上げる伯理に何かがおかしいと気付いた柴は。告白に返事はちゃんともらったのかと確認をする。しかし伯理は首を横に振った。残念ながら彼の想いへの返答など、今の今まで受けていない。
「いや、俺、告白したらすごいなって言われて部屋出て行かれた」
「断られたって事?」
「いや、なんか断るにしては楽しそうな顔してた…」
「好きって言うて、その返事がすごいって何?」
「俺が聞きたいんですけど!」
二人して千鉱の言葉に首を捻る。すごいねってなんだよ。告白がすごいって。伯理は何の捻りもない、ただひたすらにまっすぐな言葉でわかりやすく好意を伝えただけなのに。
「…ああ、でもなんか言うてたかも」
「何をですか?冷静になってみたら告白めっちゃキモかったなって話ですか!?」
「めちゃくちゃ卑屈やん、何?」
「それとも自分より弱い男は嫌って話ですか!?」
「ハクリくんもまあまあ強いやろ」
能力に慣れていない感は否めないが。それでも漣家の術を二つも使い分ける彼の有用性というのは計り知れず。というかそもそも、そんな有用性や能力で千鉱は人を分別しない。
「すごいね、私なんかを好きになってくれる人なんてこの世にいるんだ」
「それチヒロの真似ですか?怒られますよ」
「多分めっちゃ嫌な顔されるやろな」
「つかチヒロの事好きな男なんて少なくとも俺がいるよ?」
「普通におるやろ、チヒロちゃんみたいなかっこいい女の子が好きな人なんてそこら辺に」
あの小さな女の子の背中で守られたら最後。まあ、多分全員あの子の事が好きになっちゃうよなというのは伯理の主観で。千鉱にかなり甘い柴の贔屓目の言葉に、疑問も持たずにそうだと同意する。
「まあ、あの子、同年代の異性の友達とか知り合いなんておらんかったもんな、告白なんて一度もされた事ないとは思うけど」
「にしてもなんか反応が腑に落ちないですよ、俺は」
すごいとは何なのだろうか。驚くにしても、喜ぶにしても、あのタイミングですごいとはならない様な気がして。彼女の反応に釈然としない伯理は首を傾げる。
「…これは多分やけど、もしかしたら六平のせいかもしれへんわ」
「…チヒロのお父さん?」
「せや。アイツ、よう言ってたわ。可愛げがないから嫁の貰い手なんて現れないんじゃねとか、刀打ってばかりじゃモテないなとか」
「絶対それだろ」
告白に対するすごいという反応も。先程柴が下手くそなモノマネをして言った『私なんか』と言う言葉も。その全部が父からの言葉に起因しているようにしか聞こえなくて。
伯理にも普通の家庭の父親というものは分からない。ただ自分の家も、千鉱の家も、父親が普通ではないという事だけは分かった。だから普通の父親が子供、特に娘に対してどういう風に接するべきかなんて正解は何一つ知らないけれど。その発言は娘に対してあまり良くないものではないかというのは、伯理でも薄らとわかる。
「多分言われすぎて自己肯定感下がっちゃってるんやろなぁ。昔からそういうとこあんねん、チヒロちゃん。私は可愛くないからって、よう言ってたわ」
「チヒロはめちゃくちゃかわいい」
「分かった分かった。そんで俺がそれ言うのやめろ言うたら、六平なんて言ったと思う?チヒロがどっかに嫁いでいっちまうのは寂しくて嫌だ。ずっと父さんの元にいてほしいって」
「あ、ちゃんと可愛がられてはいる」
「一人娘やからなぁ。心配なんやろな。息子やったらまた違ってくるんやろうけど、娘やからなぁ」
気持ちは分からなくはないと言いたげに頷く柴。別に結婚もしていないし、子供もいない柴に何が分かるのかと突っ込みたいところだが、伯理は空気を読んで黙る。
「でもまあ、そのせいでチヒロちゃんの自己肯定感がとんでもなく低くなってるのは変わらへんけどな」
「んー」
別に間違えていたとしても、他人の父親にお前のここが悪いなんて言うつもりはないし。千鉱とて、自分の父をそう揶揄されるのは本望ではないと思うので。深くは何も言わないとしても。千鉱が自分の事をそう卑下してしまうのは、伯理にとっても悲しい事だった。
「チヒロは本当に可愛いのにな」
「…具体的には?」
「まず声から好き」
「まず」
「それから」
「もうええわ」
おそらくこの調子では彼女の全身から心から、何から何まで残さず誉めるのだろう。早々に切り上げれば伯理が少しつまらなさそうな顔をした。
「…でも、そう言うのってさ、多分沢山言われてたらちゃんと自覚していってくれると思うんだよなぁ、俺」
「ほう」
「と、言うわけなので」
伯理は立ち上がる。伯理とて女性経験は皆無だし、千鉱に近付く事でどうなるかなんて分かりもしないけれど。それでも自分を認めないあの子にしてやれる事はしたいし、分かって欲しく思った。心の底から惚れた女の子にはずっと幸せで、満たされていて欲しい。
「チヒロと話してくる」
「…おう、ほんまか」
「話聞いてくれてアリガトーゴザイマス!柴さん!」
そう礼を述べて、伯理は忙しなく部屋を出ていく。残された柴は呆気に取られて、それから一人になったソファーに足を広げて大胆に座り込み。こんな世界でもキラキラと眩い若者の青春に、思わず眩しいなぁ!と叫んだのだった。寂しく煙草を吸う中年にとっては、その輝きは目潰しの様なものである。
パタパタと柴の元を駆け出して行った伯理は拠点を探し回って。やっと見つけた千鉱は椅子に座ってゆったりとお茶を飲んでいた。息を切らして現れた伯理に目を丸くし、立ち上がった彼女は彼に駆け寄る。
「ハクリ…?」
ゼェハァと喧しい彼に手を伸ばすと、膝に手を置いて呼吸を整えていた伯理はその手を掴む。そしてギュッと両手で優しく握りしめた。
「え」
「チヒロは!めちゃくちゃ可愛い!」
「えっと」
「外見も内面も!声も可愛い!」
「突然どうし」
「チヒロの落ち着いた綺麗な声が俺は大好きだ!」
千鉱に発言の機会も与えず、矢継ぎ早に捲し立てる。大きな声で叫ぶ内容に千鉱はどこか気まずそうに、照れ臭そうに困った顔をした。
「ハクリ」
「綺麗な赤い目がすごく可愛い!さくらんぼみたいで、めーっちゃいい!」
「あの」
「チヒロ肌白いから、めっちゃ目が目立つよな!なんか特別な存在感あってカッケー!」
「ちょっと」
「髪黒くてツヤツヤで風に靡くとヒラヒラキラキラすんの!ドキドキするんだ俺!髪の間から見えるチヒロのツンとした横顔も可愛くてめちゃくちゃ大好きだし!」
「ハクリ…!」
止まらない伯理の口を千鉱は手で塞いだ。封されて話せないハクリはモゴモゴとしながら千鉱を見ると、彼女は真っ赤な顔で伯理を見ていた。あまりに珍しいというか、おそらく初めて見た千鉱の照れた顔だった。
「急に、何…」
千鉱の照れた顔に伯理は思わず釘付けになる。あまりの可愛さに思わず『めっちゃかわい…』と呟けば、千鉱は眉間に皺を寄せて『それ何だよ』と言う。
「だって、チヒロは俺の言葉を真面目に取り合ってくれないし」
「そんな、つもりは…」
そんなつもりはないと言っても、彼のあの言葉に対しての反応を思い起こせば、そう捉えられても仕方ない様な事をしていた様に思えて。千鉱は反論が出来なかった。そんなつもりは自分にはないけれど、伯理にとってはそうだったのかもしれない。すまないと謝る彼女に伯理は首を振る。欲しいのは謝罪ではない。伯理は何も欲しくなかった。それよりも、どちらかといえば自分が与えたい。
「それがチヒロの自己肯定感の低さに繋がるなら、俺が自覚させてあげようと思って!」
「何を?」
「チヒロが、世界で一番可愛いって事!」
目を見開き、ポッと顔を赤くした。伯理を見れば非常に真剣な顔で千鉱を見ている。伯理がこんな顔をしていけしゃあしゃと冗談を言える人ではないと、千鉱も分かっているからこそ逃れようのない好意を直球でぶつけられて彼女は惑っていた。どうすればいいかなんて分からなかった。
「チヒロにはちゃんと分かってもらわなきゃだもんな!お前は最強で最高な、俺のお姫様だって事!」
「な、な、な、に、言って」
「だから、今は俺の言葉を受け取って。受け取るだけでいいんだ。答えは無理に出さなくていい。チヒロが言いたい事、まとまったら良ければ俺に話して」
握った掌を優しく撫でて。穏やかに笑って伯理を珍しく見開いた目で凝視して。それからひどく恥ずかしそうに頬も耳も赤らめながら、口を開いた。
「わ、私は、世間的には多分、別に可愛くないし、だって、…父さんも、そう言ってたから」
「仮に本当にそうだったとしても、俺には絶世の美女だし、日本が誇るべき大和撫子だぞ!」
「男っぽくて、身体の線も太い」
「そんなチヒロに!俺は救われた!ムキムキで何が悪い!?カッケーじゃん普通に!」
「は、ハクリより、筋肉がある」
「…俺にはァ!筋肉はなけれども!チヒロを可愛いとチヤホヤする口があるし!お前の手を繋ぐ手が!あります!」
ギュッと握り締めたその手を千鉱は戸惑った様に見つめて。それから伯理に視線をやった。困り顔の彼女に、伯理は念を押す様に声を上げる。
「俺の侍を!チヒロを!侍としても!お姫様としても!生涯愛する覚悟は十二分にある所存!です!」
「ぷ、プロポーズ…?」
「まあもうそれでもいいわ!」
伯理も全部吐露してもうどうでも良くなってきたのか、思いを何もかも口から吐き出していく。歯止めの効かない男に千鉱は眉を下げる。戸惑いと気恥ずかしさとで、上手く頭が回らず動揺しっぱなしの千鉱は。この場をどう切り抜けるべきなのか分からずに、最早思考は停止寸前であった。そんな彼女の手を握り直し、自分の胸の前で手を祈る様に組んだ。
「これから毎日!チヒロが分かってくれるまで俺はチヒロを可愛いとチヤホヤして、褒めちぎります!」
「え、あ、いや、あの、よく、分かっ」
「分かってないだろ!だからちゃんと、早めに自分の可愛さを自覚してどうぞっ!」
言うだけ言って、手を離し。サッと去っていく伯理。告白の返事など最早どうでも良かった。それは答えを聞けるならば聞きたいと言うスタンスは変わりないが、伯理にとっては彼女が可愛さを自覚する方が、好意への回答よりも重要度を上回った。
その場に残された千鉱はポツンと取り残された。ぼんやりと伯理の出て行った部屋の出入り口を見つめ、伯理に握り締められた手を空いた片方の手でギュッと握り込む。
「…ハクリの好きに対する返事、全然出来てないのに」
与えられた無償の愛の重さをダイレクトに感じる。じわじわと湧く恥ずかしさと嬉しさに千鉱は耐えきれずに、その場でしゃがみ込み。顔を手で覆ってしばらく動けなかったそう。
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