視界に入れるたびに風船の様に膨らむ感情は、彼を思い慕っていると自覚するには十分だった。風に靡く銀髪が、海の様な深い青の瞳が。千鉱に熱を落とした。それはとても穏やかで寂しい熱だった。
「俺は多分、ハクリの事が好きなんだろう」
まるで何ら特別でない他愛のない事の様に呟いた言葉に。遠くを見つめていた伯理は目を見開いた。降り始めの一滴の雨が水面に落ちて、波紋が広がる様に。二人の間に気まずさがじんわりと滲んで、伯理は静かに呼吸をして口を閉じた。何か言おうとした様な気もしたけれど、戸惑うまま口をギュッと結んで頬を掻いた。
「まあ、チヒロが冗談とか言う訳ないか」
「驚かせてすまない」
あっさりとした謝罪に伯理はまた驚いて。反対に千鉱はいつもと変わらぬ涼しい顔で歩いて行く人を目で追いかけた。俺の方に目を向けてはくれないのかとほんの少しだけ寂しい思いをして、伯理は千鉱を見る。
「えっと、それで、その…チヒロは、どうしたいの?」
「ああ、こんな事を伝えてどうしたいだとか、そんな意図はないんだ」
ただ他意もなく、不意に口から溢れ出た言葉だった。桜並木を見て『桜だ』と指差す様な、千鉱の中での見たもの、感じた事をただ言葉にしただけで、伯理に対してのものではない。とは言え、渦中の伯理は他人事になど出来なくてガシガシと頭を掻く。
「…意図はないと、言われましても。チヒロは付き合いたくないの?俺と」
「ああ、別に。望んでない。…俺は、そう言う事にうつつを抜かしていられるほど器用じゃないんだ」
「俺の気持ちはどうなんの?度外視?」
「ハクリの気持ち?何故だ?まさか俺の事が好きなのか?」
そうは言ったけれど、本当のところはあまりよく分からなくて。好ましくは思うけれど、肉欲的なあれそれに繋がっているかと言えばうんとは言えない。
「まあ、だからと言う訳ではないが」
「うん」
「一回だけキスしてもらってもいいか?」
「…うん?俺が?」
驚いた顔で自分を指差せば。別に俺でもいいけどと返答。いや、そういう事ではなくてと首を振る伯理に、千鉱は瞬きをした。
「別に俺からでもいいが」
「あっ、そこに拘りはないのか」
「どちらでもいい。されたい派か?」
「…いや、別にどちらでもないけど」
そういう事で悩んでいる訳でも渋っている訳でもなく。唐突なキスのお願いにただただ困惑していた。
「してどうすんの?」
恋人の接触に意味を求めるのはナンセンスである事は伯理とて分かっている。それでも恋人同士ではない間柄である以上、何を求めて、何を意味した行為なのか、伯理には分かりかねた。
「いつ死んでもいいように」
「え」
「こんだけ人を斬ってたら、そのうち俺も斬り殺されるような気がするから」
「…あ」
「それだけ」
そう言う千鉱は目も逸らさずに、疑いもなく言い切った。そんな事を言うのなら、俺だって家を裏切って全部壊してしまったと言うのに。命だって中途半端にしか賭けられていないし、千鉱の役には到底立てていなくて。色々なところで罰やら何やら、色々な目に合いそうな始末だが。言葉に詰まる伯理を千鉱は気にせず、一歩距離を詰める。
「明日死んでもいい様な思いがしたい。どうせ報われないからな、こんなもの」
「俺は断ってないのにそうやって言い切るのか」
伯理の声を無視して、肩に触れる。彼の引き止める様な声が千鉱には少し煩わしい。いずれどんな形であれこの世を去るのだから、死ぬ前の餞ぐらい良いだろうと目を伏せる。
「嫌なら殴ればいい」
「殴ったところでチヒロなら無理矢理強行出来るだろ」
「しないぞ、そう言うのは好きじゃない」
だろうなと思う。彼はそんな事をする様な人間じゃない。他人に強要はしない。よく分かっている。そんな訳ないだろとも言えなくて、吃った。
「こんな事したって何の意味もないし、六文銭の代わりになるとも思わないけど、少しだけ幸せなまま、終われるから」
祟られそうだと自嘲して、僅かに俯く。それから小さく息を吐いて、伯理と距離を取った。
「ごめん、なんか馬鹿らしくなってしまった」
千鉱はもう良いやと手を離して踵を返した。アホみたいだと呟いて、そそくさとその場を去ろうとする。その寂しそうな背中に伯理は居ても立ってもいられずに、思わず千鉱を追い駆けるべく足を踏み出して。脱力した彼の手を掴んだ。力一杯勢い良く手を引いた伯理に、非常に驚いた様な顔で体勢を崩した千鉱に彼は唇を合わせた。
たったの一瞬、重なってすぐさま離れて。そのまま二人で体勢を崩して床に崩れ落ちた。背中を打つ伯理と膝を強く打ち付けた千鉱は、それぞれ痛みに悶えて唸る。
「ご、ごめんチヒロ!勢い余って」
「…いや」
念願のキスは出来たのに。どこか浮かない顔の千鉱を覗き込む。伯理は目を伏せる彼に手を伸ばし、伯理の横に突かれた腕を掴む。
「どうだった?」
背中はまだまだ痛んで仕方ない。身体を痛めて得た何かは特段なかったが。不思議と嫌悪はない。これでチヒロも幸せになれたのだろうかと、目の前の彼を伺うばかりだ。
千鉱は身体を起こす。片手で顔を覆い隠して、溜息を吐いた。
「…よくない」
指の間から見える千鉱は顔が赤い。見た事のない表情に驚きで身を固くしていると、前髪に隠れた赤い瞳がこちらを向いた。
「ありがとう」
敬愛する侍の、まるで少女の様ないじらしさに伯理はグッと唾を飲み込んで。スマートな言葉の一つだって、ひり出す事は出来なかった。手を伸ばしたい衝動を、ただ必死に押さえ込んでいた。握り締めた拳は、何だか熱されたみたいにひどく熱かったようにも感じた。
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