はじまりの気配

牛島若利の事は、これまでよく知らなかった。及川がやたらと敵対視する人。月バリの常連で、全国的に見ても評価される様な人。及川をすごく白鳥沢に誘ってくる人。これまで観客として同じ高校の男子バレー部の応援をしていた、女子高生岩泉の認識はその程度である。
及川がいやにライバル視していて、よく喧嘩をしている。といっても一方的に及川が噛み付いているだけだ。負け惜しみすぎて本当に情けない。とは言え幼馴染みの遠吠えを負犬のものにしてしまうのは、彼らが青葉城西を容赦無く叩きのめすからで。やはり彼らの友人として負けるのは彼らと同じく悔しく思ってしまうし、及川程では勿論ないけれど、白鳥沢もとい牛島を悔しくて恨めしく思ってしまっているところはあった。
そんな彼と岩泉が、まさか将来的に関わる様になるとは当時の彼女自身も思わなかっただろう。客席から母校の守りを叩き壊していくあの男が、まさか師であるあの伝説的な空井崇の息子だとは考えもしなかった。何せ名字が全く違っていたので。
師匠の手前、息子を無碍にも出来ず、牛島も自分のイメージよりも嫌なやつではない事が、交わした言葉ですぐに分かってしまって。そう邪険に、煩わしく扱う道理なんてないと思った岩泉は、そこから牛島とよく食事へ行く様になったのだった。
牛島は天然で、ノンデリな部分もあるけれど、岩泉にはあまり気にならない部分で。寧ろ人柄の面白さで思った以上に気に入ってしまったと岩泉も自覚をしている。色々な雑誌のインタビューなどで時折見せるユーモラスな部分は、案外彼の本性なのかもしれない。
本日も何度目かの食事で。お互いに時間が取れそうだからランチにでも行こうと牛島の方から誘いがあった。彼が人を誘う事もあるのだと岩泉は驚いたし、自分が彼に誘われる程近い存在になったのかと少し嬉しくも思う。いつも通り、適当にトップスとパンツを履いて外に出る。世の男が好むおしゃれさはないが、女性らしさはシルエットから現れている。かつてスポーツをしていて、今はスポーツマンを支える立場となっていても、トレーニングを欠かさない彼女の身体は引き締まっていて。出るとこは出るメリハリのついた身体は布一枚隔てたところでその魅力が半減などされていない。ここが日本であれば、おそらく男という男に見られ続けていたであろう。身体のラインが分かりやすくなっていても、アメリカならばそれが普通なので気にする必要もない。
待ち合わせ場所に着いた岩泉は一足先に待っていた牛島に声を掛ける。以前はジョギングにでも行くのかという服装で着ていた彼も、いつの間にか少しおしゃれになって。可愛らしい色使いのポロシャツのボタンを全て閉める真面目さは変わらず、非常に華やかな様相だった。
「牛島、悪い、遅れたか?」
「いや、まだ待ち合わせ時間ではない」
「お前本当、いつもどんくらい待ってんの?」
「十分前」
「ああ、意外と普通だった。良かった、一時間前とか言われなくて」
「一時間前に待たれたらお前も困るだろう」
「まあな」
ケラケラと笑い、楽しそうな岩泉に牛島も表情を緩める。それじゃあ行こうと歩き出した岩泉を、牛島はゆったりと追いかけた。それでも彼の大きな歩幅では、数歩で彼女に追いついてしまう。
「調子はどうだ?」
「悪くない。最近は足が軽く思う」
「お、いい事じゃん。運動が食事とか睡眠みたいに、お前の体や意識にとって当たり前になってきたんだな」
「ああ、良い傾向だろうか」
「アスリートとして最高だな」
牛島の大きな肩をポンと叩く。それから何故か牛島は叩かれた肩をジッと見つめた。そんな彼を見て岩泉は少し気まずそうに顔を見る。
「悪い。触られるの嫌だったか?ちょっと気軽すぎたな、すまない」
「…ああ、いや、違うんだ」
「違う?何が?」
「嫌ではない。少し驚いたんだ。…女性からそういうスキンシップはあまり慣れなくてな」
バレーボールファンの女性から手を伸ばされ、ベタベタと筋肉を触られる、牛島としても実は不快なスキンシップはある(勿論、客商売ではあるのでその不快感をひた隠しにして、彼なりに愛想を振りまいている。牛島も大人になった)。だがまるで天童ら友人達がするようなフランクなコミュニケーションを異性とした覚えは全くなく。彼にとっては初めてだったのかもしれない。爽やかでこそばゆい、親しみのこもった異性からの触れ合いに、牛島も少し困った様に眉を下げる。本当に困っているというよりは、おそらく嬉しさに近いのかもしれない。
「…うむ、なんて言い表せば良いか」
「…?おう。ゆっくりで良いから聞かせてくれ」
そうやって言葉を急かさずに待ってくれる。牛島が彼女に歩幅を合わせる様に、岩泉も彼にコミュニケーションを合わせてくれる。
ああ、そうだと合点がいく。きっとそういうところも含めて、岩泉の事を好ましく思うのだ。
「岩泉が俺と親しくしてくれている事が、ずっととても嬉しく思うんだ」
「あ、お、おう。ありがとう。私もお前と話すの案外楽しいよ」
「ああ、俺も楽しい。学生時代、あまり異性と話が弾む事はなかったから」
「だろうな」
岩泉はケラケラと笑って頷く。こんな体作りとバレーボールの事しか考えてないし、知らないバレー馬鹿と話の合うバレー馬鹿の女性など普通はいない。自分以外に存在しているかも岩泉には見当が付かない。きっとその変態的なバレーの熱量に負けて、憧れで近付いた女子達は皆蛙化して去っていったのだと言うのはあまりに想像に易い。それでも岩泉はそれが牛島の良いところだと思っている。その懸命さがあるからこそ、かつて忌々しさすら感じた男を、岩泉も好ましく思うのだ。
「ま、バレー以外が不器用なところは牛島の可愛いところだよな」
「…かわいい」
「私はお前の事結構良いと思ってる。私と話合うし、女慣れ全然してないとこも面白くて」
岩泉の言葉を聞いているのか聞いてないのか。何か考えている牛島はジッと黙って。それからふと口を開いた。彼の変わらぬマイペースは遺憾なく発揮され、彼女との会話の途中で割り込みが生じる。
「…やはり、可愛いのは岩泉の方だな」
「は?え、あ、い、いや、何言ってんだよお前〜!揶揄ってんのかぁ?」
「…?俺は至って真面目だが。可愛いだろう、女性的で、俺のつまらない話にも楽しそうに頷いてくれて」
「いや、牛島の話はつまらなくねぇけど…」
「だから俺は、岩泉の事を好ましく思うんだ」
短く『え』と声をあげて、岩泉は目を見開く。彼を見れば、あまりに真っ直ぐと純粋な視線で見つめ返され、先に目を逸らした。
「…〜っいや、その」
「どうかしたか?」
「…その、褒めてくれるのは非常に嬉しい限りなんだが」
「ああ」
「…可愛い、なんて言われ慣れてないから、言われても困るんだ」
頬がほんのりと赤くなって、とても恥ずかしそうに口を尖らせた。その表情があまりにもいじらしくて、とても女性的で、ひどく可愛く感じて。牛島は更に見つめてしまう。心に湧き上がるどこか温かく、何故かレモンを齧った様に甘酸っぱい感覚が迫り上がり、首を捻るも。経験値が足りなすぎる今の牛島ではその答えに辿り着けないまま、デリカシーなく口を開くのだ。
「やはり、お前は可愛いと思う」
「…オラ、牛島テメェ揶揄ってんじゃねぇよ。つか恋人でもない女にあんま気軽に可愛いとか言うもんじゃねぇぞ。そう言う言葉は大切な人のために取っておけ。お前だって恋人の一人や二人欲しいだろ?ならちゃんと特別を大切にして、その人だけにあげるやり方も覚えていかなきゃ」
「俺は本当に岩泉が一番可愛く思うのに」
「もう良いからさ」
今度はドンと強く肩を叩き、耳を真っ赤にしながら彼女はそっぽを向いた。本当に可愛いと思うんだよ。そう言う照れ屋なところとか。そう口を開こうかと思ったけれど、変わらない現状では、きっとまた岩泉がダメだと注意するのだろうと思って牛島は黙った。
パチパチと心の気で弾ける酸の感覚を喉の奥で飼ったまま、彼女に何故だか手を伸ばしたくなる気持ちをグッと抑え込んで、『今日の昼飯は』と下手くそに話題を変えてみる。それに彼女は吹き出して、『へたくそ』なんて笑いながら小突く。小突かれた肩は少しだけ痛かったのだけれど、まあ、岩泉が笑ってくれたから、良しとしよう。

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