「やっぱこの役割、私で良いの?常々思ってんだけどさ」
「どうしてだ?」
「親父さんに相談した方が良いんじゃね?だってあの人私の師匠だし、プロ中のプロだろ」
二人は雰囲気の良いバーのテーブル席で向かい合って。岩泉は手にしたカクテルを傾けながら首を傾げた。
定期的にトレーニングや身体についての相談に乗って欲しいと言われ。自分で良いのかと思いつつ、実践的な経験を曲がりなりにも詰めるのは願ったり叶ったりだと思って。岩泉はおずおずと頷いた。それ以来、彼女は牛島の相談に乗っている。
基本的には電話で、タイミングが合えば直接会って。食事でもしながら楽しくミーティングをする。そんな時間が岩泉にとっても心待ちの時間になっている事は、きっと牛島は知らない。待ち合わせ場所に少し早く着いて、駅のお手洗いの鏡で髪を整え、メイクの確認をする岩泉の存在など、彼はより知らない。
自分が楽しみに思っている事はさておき。自分が牛島の力になれているかどうかは自信が無かった。彼女はまだ修行の身なのである。牛島の父を師として教えを請うている立場なのだ。そんな自分がプロの選手相手に助力出来ているかは正直な所、全く自信がなく。彼の質問や相談に親身になって回答しつつも、ふと冒頭の疑問が口から溢れた。
「私まだ知識も技術も足りないぞ」
「それは分かっている。だが岩泉はよく勉強して頑張っているだろう?元々選手だった事もあって、プレイヤー視点でもものを見る事ができる。今でもあまり不足は感じない」
「回答するっていうか、一緒に考えるって感じになってるけど良いのか?話の最中にスマホ使って調べたりするし」
「それでいい。不用意に自分の勘だけで答えるよりしっかりと調べた方が信憑性がある。俺の意見も汲み取って一緒に考えてくれているのは、俺も嬉しく思う」
何が問題だと岩泉の顔をジッと見つめる。問題という訳ではないけどと言葉を詰まらせ、カクテルを一口煽った。
「こうやってフランクに実践の機会をくれるのはマジ本当にありがたいんだけどさ、その相手がプロ中のプロってなると緊張する」
「たっての機会だろう。活かせ」
「活かしてますよ、存分に。ありがたい事です」
どこか上から目線の偉そうな言い方でも、彼に他意のない事は岩泉も最近分かってきた。今回も他愛のない雑談か、彼なりの冗談か。非常にフランクな声音で返して、少し得意げに笑うから、それが何だか可愛らしくていつも釣られて笑ってしまう。偉そうに聞こえる返しに、まだちょっとだけムッとしてしまう時もあるけれど、的外れなドヤ顔が面白くてまあ良いかと許す。
そんな牛島もまた酒を一口煽る。アルコールがじんわりと脳に染み込んだ。ふわりとどこか定まらない様な気分に息を吐きながら、何か考える様に視線を横へ向けた。手に持ったグラスをテーブルへ置く。中に入った氷がガラリと音を立てて崩れた。
「…?牛島?」
黙り込んだ彼に岩泉は顔を向けて。どうかしたのかと首を傾げると。彼は『ああ』と生返事の様な声を返し、それからまた黙って。ほんの少し数分程度経って、やっと牛島は口を開いた。
「…俺は別に」
「おう」
「意味もなく岩泉を呼び出している訳ではない」
「え?あ、うん。カウンセリング目的?だろ?」
「勿論、お前の事は信頼しているから、相談したいというのもあるが、…それが主目的という訳でもない」
「えー?」
じゃあ何だよと回答を煽る彼女に、牛島はまた視線を逸らす。だが次は考える間もなく、すぐに岩泉を見た。静かな瞳は、ただ真っ直ぐと彼女を捉えている。
見つめられて、岩泉は少し狼狽えてしまった。何だか恥ずかしさを感じて、その視線から逃れる様に、誤魔化す様に酒を口にする。
「お前を呼び出す理由は、ただお前と話がしたいからだ。岩泉との時間が欲しいからだ」
「…ぁ、えっ、と」
「本当はたかだかそんな理由で、相談事なんて約束を取り付ける口実にしかすぎない」
岩泉は言葉を選ぶ。何を返すか、どう返すか考えあぐねた。だが『何言ってんだよう』と茶化すには空気が張り詰めているし、言葉には確かな温度がある。震えがある。彼は緊張している。
彼女とて諸々を察せられない程、鈍い訳ではない。子供でもない。アルコールとどこか甘ったるい香りの中、薄暗い店内で流れるジャズをバックに牛島は真剣に言葉を繋いだ。岩泉の中でその先の展開を予想して期待してしまって、思わず唾を飲み込む。そわそわして暴れ出してしまいそうな手をキュッと握った。
「近付くたびに、仲が良くなってゆくたびに、俺は岩泉の良さに気付いていく。何にでも真剣なところも、当たり前に努力が出来るところも、笑顔が可愛いところも」
「ぅん…」
「こんな感情の昂り方は、バレーでも感じた事はなかった」
それがバレー至上主義の牛島における、最大級の表現である事はまだまだ短い付き合いながら彼女も分かっていて。ひどく恥ずかしくて、それでも頷いて話を聞いてあげるのは彼女自身も答えを聞きたいと思っているからだ。
「その理由はひとえに」
「うぅ…」
そう言って、牛島は言葉を止めた。突然黙ってしまった彼に岩泉は『あれ?』と首を傾げて。彼からの言葉を受け止めるためにキュッと閉じていた目を開け、身構えていた身体の力を抜くと。牛島がその長い手を伸ばし、岩泉の手にそっと触れた。
「こちらを向いてくれ」
「え」
「こういう事は、ちゃんと目を見て言うべきだと思うんだ」
変なところで真面目と言うか、律儀と言うか。その生真面目さに呆れつつも、漢気のあるやつだなと感心する自分もいて。だがそれ以上に真っ直ぐ目を見られながら送られる言葉に、自分が耐えられる気がしなくて『聞くだけじゃダメなのかよ』と小さく呟く。
「その、…恥ずかしい、から、えっと…」
「結婚式の時だって沢山見つめ合うのだから、こういうのは今から慣れておくべきだろう」
「は!?」
結婚式という、現状からはあまりに飛躍した言葉に岩泉は思わず驚きの声を出して。まんまと顔を上げ、牛島の方を見た。彼女は割と単純だった。
そんな彼女と目が合って、牛島も一瞬恥ずかしそうに目を伏せる。それでもすぐに岩泉の手を握り直し、彼女を見つめた。
「…ぁ、え、っと…あの、牛島」
「…そう、警戒するな。…俺だって、柄にも合わず緊張しているんだ。試合に出る時の何倍も何倍も、沢山緊張している」
「あ、そ、そう、だよな…」
「心臓が今にもまろび出そうだ」
バレーの大きな試合の時でもした事のない様な顔を彼もしていた。どこか気恥ずかしそうに、困った様な表情で岩泉を見る。もうこんな状況で、心は窮地に立たされて何だか一周回って冷静になって来た岩泉は。コイツもこんな顔するんだと呑気に思った。学生の頃に見た彼は怪物で、同じ人間とは思えなかったのに。正面にいる牛島はあまりにも人間臭く、温かな血が通っている。
緊張の面持ちで目を伏せた牛島は静かに深呼吸をして。顔を上げた。視線は確かに交わった。
「岩泉の事が好きなんだ」
恥ずかしながら人生において生まれて初めての事で。正面切った言葉と、触れ合った手に心が揺らいでしまうけれど。自分の中で望む答えなんて彼女にはまだ分からないのが本心だった。
激しい拍動に内臓が溢れ落ちそうになりながらも。岩泉はただそれを伝える言葉を懸命に探した。明確な回答も気の利いた言葉も出す事は出来ず、言葉を受け止めるだけで精一杯だった。