「何だかぼーっとしてるな」
そう言ったチヒロは椅子から背を離し、少しだけ腰を浮かせた。それから俺の額に手を置いて、目を伏せる。いや、まあ、確かにぼーっとしてたけど。箸とお椀を持ちながら少しだけ彼方を見ていたけれど。別に何か理由があってしていた訳ではないと言うか。
「熱はないか、よかった」
「え」
「なんだか顔が赤かったから、もしかしたらと思って。…ハクリには色々環境や状況の変化もあったし疲れが溜まっててもおかしくないだろ?」
「あ、ああ、いや、大丈夫だぜ!」
「ああ。そうみたいだな。勝手に触れてすまない」
いや、触れてくれてありがとうと言うか、寧ろ。チヒロの手は冷たくて気持ち良くて、細くて白くて可愛くて。
剣を握っていて、ヒナオさんと比べてもしっかりした硬い手だけど。俺と比べれば小さくて細くて柔らかいので。触ってもらってマジ役得だけど、ほら、俺が握ったらどうなるのだろうとか。握り潰しちゃったりしないかな。俺から触った事なんで一度だってないけど、夢みたいなもの。目標でもいい。
「無理するなよ、食べれるだけでいいからな」
「え!?チヒロの飯は何だって美味いから俺マジでこの皿のもの全部食えちゃうけど!」
「あー!ハクリ!ダメ!私も食べる!」
大皿に手を伸ばし、多めになしで摘んで口に運んで頬張れば。向かいに座っていたシャルが大声を上げて手をブンブンと振った。上げた袖が下がって手を隠してしまい、ヒナオにあーあと笑われる。
「シャル。食べる時はちゃんと腕を捲ろう」
「はーい」
「あはは、私がやってあげるね」
「ヒナオ!ありがとう!」
「…ハクリ」
「ん?」
「料理、褒めてくれてありがとう。ハクリがそう言ってくれて、嬉しい」
ほんの僅か。近くで見たから分かるチヒロの笑顔。少しだけ口角を緩めて目を細めた彼女の顔が本当に可愛くて仕方なくて。思わず凝視してしまって、チヒロがうん?って顔で首を傾げたから。俺は恥ずかしくなって、誤魔化すみたいにお米を頬張った。
お腹いっぱいになって、代わりに皿洗いを申し入れて。いいよと首を振るチヒロをキッチンから追い出して、俺はスポンジを取った。チヒロが使った調理道具も、皆で使った食器も、全部あわあわのスポンジで擦っていく。
「…やっぱ、かわいいなぁ、チヒロ」
基本は常時真顔でも、一緒にいれば思った以上に変わる表情とか。剣を振り回し、走り回る彼女も部屋着のロンTでいる時はとても小さくて華奢に見えるとこだとか。そう言うのがやっぱり可愛くて仕方なくて、こんな可愛い女の子と一緒に過ごしてるなんて、めっちゃ幸せじゃねと浮かれてしまう。
情けない事に俺はチヒロという侍に守られているばかりで、俺はまだ不足なく彼女の隣で戦えないし。きっと足を引っ張ってしまうし。逆にチヒロを危険な目に合わせてしまう可能性もあるけど。いつの日か、強くなってちゃんとチヒロの隣で戦って、俺も彼女を守れる様になりたいし。強いチヒロも特別に可愛いけど、俺にめっちゃ頼ってくれる最高に可愛いチヒロも見たい。まあ、それはそれとして。
「やっぱめっちゃ可愛いしな、チヒロ。何もしなくても可愛い。カッケー侍なのに可愛くて仕方ない」
可愛いと伝えて、蝶よ花よと愛でて。死ぬまでずっとそういう事をして、可愛い子と添い遂げたいなと望むのは、恋なんだから仕方ないし。そこからチヒロと結婚したらなんて妄想に走っていくのも仕方ないと思うんだ、俺。
「今日みたいにチヒロがご飯作って、俺がお皿洗って、その後は二人でゲームしたりして?それで風呂入って寝たり?うわー、なんか百パーセントの幸せすぎる」
風呂も一緒に入れたらいいな。でも、チヒロの裸見て普通に出て来れるかな。なんか全然興奮する気しか起きないし。いやでも風呂であったまってるだけで興奮しちゃったとか、チヒロも別に嬉しくないというか、多分めっちゃ嫌だろうし。じゃあお風呂はやめとこ。それは別々で、せめて一緒には寝たい。
「…って、チヒロと結婚どころか付き合ってないのにこんな妄想繰り広げてるのは、その時点でめっちゃ嫌か」
でもさあ、聞かれてないなら無問題じゃない?ノーカンでしょこんなの。俺以外誰もここにいないから、気が緩みまくって思わず独り言として口に出ちゃってるけど。それも最悪チヒロに聞かれなければいいし。あとシャルにもあんま聞いてほしくないかも。
「あー、チヒロかわいい。俺の侍。チヒロと万が一にも付き合えたら、俺今後の人生で宝くじなんて絶対当たんないんだろうなぁ」
それはきっと、俺の人生における全ての運を使い果たした結果だと思うし。多分何億分の一くらいの奇跡なんだろうなって。あー、大好きだな、かわいい侍。付き合えたらいいのにな、でも守られてばかりの情けない男なんて好きになる女の子絶対いないし。
ていうかそもそもチヒロがいれば一億円いらないよね。まあ、あったらその分チヒロ幸せに出来る訳だけど。俺はもうチヒロ大なり一億の心だよ。
「チヒロを、抱き締めてみたいな」
多分柔らかくてあったかくて小さくて可愛いだろうにし。そう言ってスポンジをグシャっと握れば。染み込んだ水と泡が染み出してシンクに落ちた。
「…ハクリは、それを望むのか?」
「ひえっ」
突然の声に本当に情けない声を上げた。まるで幽霊でも見たかの様な上擦った声に、チヒロもピクリと肩を揺らした。え、聞かれてましたか?今までの事。俺の独り言。どこから?もしかして全部とか。
「いつから…?」
「…私と、付き合えてたら」
意外と直近で少し安心した。結婚しての妄想のくだりは知られていないみたいだった。万事休す、という訳では全然ない。ただ致命傷を免れただけ。
少なくとも付き合いたい云々は聞いているのだから、好意は完全に丸わかりと思っておいた方がいいかもしれない。俺はもう心中大荒れだし、あんま上手く頭も回らない。どう言い訳しようか、言い訳できる段階でもなくない?という問答を繰り返した。
「…やはりハクリに丸投げするのが忍びなくて、来てしまった、すまない」
「あっ、いえ!チヒロは何も悪くないし、いや、寧ろ手伝いに来てくれてありがとな!本当優しいぜ!俺の侍は最高!」
誤魔化すみたいに捲し立ててみたけれど。冷静に考えて俺の侍発言もヤバくないかというところに行き着いた。所有物じゃないし、チヒロは。俺のものじゃないし、そりゃなって欲しいけど。
「…ハクリは、その、…とても聞き辛いのだが、やはり聞いてしまった手前、私もスルー出来ないというか」
そう前置きをするだけチヒロは優しい。あんな好き勝手に独り言で呟いているのを聞いたら、そりゃあ突っ込まざるを得ない。特に自分が深く関与する話題なのであれば、幾ら気遣いのできるチヒロとて、見て見ぬ振りなんか難しい。
「ハクリは私の事を可愛いと思って、いるのか」
「…〜っ思ってます!今も、可愛いって!思います!」
もうあれだけはっきり言って誤魔化すのも無駄な様に思うし。寧ろ誤魔化すのが申し訳ない様な気がするし。誤魔化したくも有耶無耶にしたくもなかった。これは自分の中では不変で紛れもない事実なのだ。
「そうか」
珍しい顔をした。目を泳がせて、視線を逸らして。チヒロにしてはかなり分かりやすく感情を表している。目に見えて動揺するチヒロの頬はほんのりと赤くて、メイクをして頬紅を塗っているというには、あまりにも赤々としていた。
「…可愛いなんて、言われた事ないから…」
「柴さんしょっちゅう言ってるけど」
「あの人は、違う区分だ。…ハクリとは違う」
確かにあの人の『チヒロちゃんかわええ』は親心と言うか。多分そう言う贔屓心が含まれている。確かに俺のとは違う感情で、違うニュアンスの言葉だ。舞台は同じではない。
「どう、すればいいのだろう。ありがとうは適切な言葉か?」
「お、俺に聞かれても」
俺は恋愛経験が少ないと言うか。いや、少ないは見栄すぎる。普通にゼロだし。こんな時の返答なんて知りもしない。
「あ、あの、可愛いなんて新鮮だ。言われた事ないから」
「あっ、え、…っあ、そ、そっか。えっと、嫌じゃなかった?」
「嫌、と言うか、何だかくすぐったい様な。…可愛いなんて自分とは無縁で、私も別に可愛くある事を望んでいる訳ではなかったが…言われれば案外嬉しいもの、だな」
とてもとても気まずくて、気持ち悪い目に晒してしまったチヒロに対して申し訳なさも覚えていて。嫌われたかなと思っていたら、チヒロは片手で唇をグニと潰して。恥ずかしそうに目を伏せていたから。いや、バリクソに可愛いじゃんと見惚れてしまった。
「…今の私も、可愛いと思うのか?」
「えっ!?」
「そんな顔してる。ハクリは、とても分かりやすいんだな」
指摘されると恥ずかしくて。チヒロもすぐに分かっちゃう様な、可愛いって思ってる顔ってどんなのだろうと気にはなるけど。これ見よがしに頬をグニグニして誤魔化せば、チヒロは『ふふ』と笑った。
「…私が身を置くのは、こんな世界だから、女に生まれた事を少しだけ悔いて、恥じていたんだ、私は」
剣技の世界は大抵男で。きっと男尊女卑的な思想も蔓延しているのかもしれない。チヒロは剣を振るう女として、男ではしない様な嫌な事があったのかもと思うと。俺は何だかとても冷静に、社会って残酷で不平等だよなって思う。
「でも、キミだけでも可愛いと言ってくれたら、何だか女の私が報われた様な気がした。キミの言う可愛いって、とても素敵な言葉だな」
そのキミの言うってニュアンスはどんな意図が込められているのか。単に『可愛い』という言葉を指し示すための言葉なのか、それとも『俺の口から出た可愛いだから』と言う意味合いなのか。どっちとも取れるせいで期待をしてしまう。いや、そんな事ないか。そんな訳ないよな。自意識がすぎる。
「いつか、私に女としての自信がついた時に、ちゃんとキミの手を取れたらいいなと思う。ありがとうハクリ」
そっかと頷いて。そそくさと洗い物をこなす。そんな俺の隣にチヒロは立って。洗った食器を拭いてはしまった。そんな作業を続けて、最後に残った食器の泡を流していると。不意に気付いた。
「…俺の手を取れたらいいな?」
その言葉は何なんだろう。どんな意図で俺に伝えたの?もしかして、それって。
チヒロの真意を聞くには俺は臆病すぎて。結局聞き返したりはしなかったけれど。この言葉は全然忘れられなくて。結局悩んで悩んで、悩んで考えてから時差でちょっと興奮して、真夜中まで完璧に目は冴えていた。
俺史上一番可愛い子からの期待出来るような言葉には簡単に釣られてしまう。だって思春期だし、めっちゃ好きだし、仕方ないだろ。恥ずかしいけども。