よいもさめざめと

テーブルに乱雑に置かれた空き缶を目にして。歩み寄った千鉱はそれを手に取った。
「…柴さん」
缶を振ればタプタプと僅かな音がした。飲み残したままゴミを放ってその場を去ったであろう犯人こと柴は、今は寝室で眠っている。随分と疲れたのだろうか。適当に見えて、というか適当だが日々の細かな部分はしっかりとやり切る人なので、こんな事は珍しい。仕方ないなぁと表情を緩めて、捨てようとした。
「え、チヒロ、ビール?」
「俺はビールじゃないし、飲まないし」
「酒は二十歳からだぜ?」
「飲まないって」
偶然通りかかった伯理が顔を覗かせ、近寄って来る。夜でも、頭が痛くなる様な曇天の下でも、明るい伯理の笑顔はやっぱり好きだけれど。揶揄われればそれなりにうざくは思うので、鬱陶しそうにかぶりを振った。
「柴さんの?」
「多分ね」
「ヒナオさんの可能性は?ヒナオさんって何歳?」
「ハクリ」
それ以上はいけないと一つ。女性に年齢を詮索するのは、時と人によっては大きな地雷にもなり得るので。名前を呼んで制せば、まあいいかと話題が戻る。
「酒って美味いのかな〜」
「飲む?」
「うーん」
悩ましい様子で考えあぐねるも、結局いいやと首を振る。こう見えてもかなり育ちのいい男なのだ。そんなやんちゃには、案外踏み込まずに止まる傾向にある。
「二十歳になったら一緒に飲もうな」
「…じゃあ、その時はハクリの二十歳を俺が待つ事になるな」
「お、飲酒も待って初体験一緒にする?」
「飲むよ俺は俺で」
あっさりと誘いを拒否され、伯理はいけずと唇を尖らせた。ビールってめっちゃ苦いんだってだとか。ワインって甘いのかなだとか。想像を働かせて、アルコールの味に心を寄せる伯理に千鉱も楽しそうに相槌を打つ。
突然、伯理はああ、そうだと声を上げて。酒酔いというのはどういう気分なのだろうと首を傾げた。
「さあ、飲んだ事ないから」
「楽しくなったり悲しくなったりするんだろ?」
「忙しいな」
「おっさん達が酒飲んで声デカくなるのってそういう事じゃねぇの?」
幼い頃、父と柴と薊が大騒ぎで宴を繰り広げ、離れで眠っていた千鉱が何度も夜中に起きてしまった、なんて事を彼は思い出し。ああ、あれかと合点が行く。男三人分の騒音で睡眠を妨げられたのは正直なところ、非常に迷惑極まりなかったところだが、今となってはそれも、千鉱にとっても良い思い出な様な気がして。きっと酒と言うのは悪いものではないのだろうと思う。
「ハクリは…弱そうだな、酒」
「え、俺強いと思うよ」
「なんで根拠も無しに…」
何の根拠もないのにどこからそんな自信が来ているのか。さも当たり前かの様に言い放つ彼に、千鉱も呆れた目を向ける。
「家族が強いから、俺も強いと思う」
「遺伝するのか?そういうの」
「知らん!」
「…そう」
「チヒロは…あんま変わらなさそう」
「俺もそう思う」
「でもそれじゃつまんなくねー?」
人の酔い様を面白いつまらないで測られても。こんな事、気にするまでもない他愛のない雑談なのに、何だか無性にムカついて。実際はそんな事は全くないのに、勝手に馬鹿にされてる様な気分になった千鉱は眉を顰めながら缶を傍に置く。トンと音を立てて置かれた缶に伯理が一瞬、視線を向けた時、千鉱は伯理と距離を詰めた。
「…ハクリ」
「へ」
彼の肩に凭れ掛かる様に腕を置き、その腕に頬を寄せる。突然の距離感に伯理も目を丸くして驚いた。
「え、なに、チヒロ」
「実は、少しだけ飲んでた」
「えっ」
「ちょっと酔ってるんだぜ、実は」
小さく開いた口からほぅと息を吐けば、伯理は大袈裟なほどに肩を震わせる。そんな伯理の反応だけで既にご満悦な千鉱だが、追撃の手を止める事はない。
「ふわふわするな、酒ってものは」
「いや、あの、えと…飲んじゃ、だめだろ…」
こんな状況でも常識や理性は正常な様で。真面目なツッコミをして、目を泳がせる。
「まるで熱があるみたいに熱くて、くらくらする」
「だ、だいじょぶか」
「…だめ、だったら?」
「え、あ」
「一緒にいてよ、ハクリ」
「〜っ!」
「ハクリのにおい、すごく安心するんだ。側にいると気持ち悪さだって、スッとなくなるみたいだ」
「ちょ、ちひ」
「まるで恋人にするみたいに、丁寧に抱き締めて」
「ちひろ」
「優しく介抱してくれ、な」
伯理の胸に指を這わせ。指の腹でまだまだ成長中の胸筋をなぞれば、伯理は『ひ』と上擦った声を上げた。そこまでして、千鉱はやっと身体を離す。それからひどく涼しげな、いつも通りの無表情で手を広げた。
「ハクリ、嘘」
「…あ…」
「酒なんか飲まないよ」
真面目な千鉱が二十歳にもなっていないのにアルコールなんて飲むはずがない。彼を知る者は、皆そう思うし、彼自身もまごう事なくそう言う正しさを持つ人間であった。だから、それが嘘だと言うのは誰にだって容易に考え付くし、だからこそ、これが自分に出来る最大限のユーモアなのだと千鉱は思っていた。
自分が決してしない様な分かる嘘を吐く事。それ即ちボケであるという事。千鉱は思っている以上に、伯理のつまらないと言う言葉に不満を持っている。
「ハクリが思うより、俺はつまらなくない」
「…」
「どうだ、おもしろかっ、た…」
してやったりな顔で伯理を見る。千鉱渾身の演技に悔しがるのか、笑ってくれるのか。どちらだと顔を上げれば、目の前の伯理は棒立ちのまま、顔を隠していた。両手で隠した指の隙間から覗く頬はどう見たって真っ赤だし、そもそも彼の耳が驚く程に赤かったのだ。
「え、ハクリ」
「…ちょ、っと、チヒロ、ごめん」
「え」
「ごめ、ほんと」
あまりに予想外の反応に千鉱も戸惑ってしまう。このまま彼の顔を見ているのが少し気まずくて、恥ずかしくて静かに俯く千鉱だったが。視線を落とした先、彼の履くズボンの正面を何かが少し押し上げている事に気付いた。
何だと凝視すれば、その正体はあまりにも簡単で。千紘とて同性であるからこそ、どう言う現象なのかと言うのはひどく心当たりのある事で。余計に気まずくなって、恥ずかしくて黙ってしまった。
お互いに言葉が出ずにシンと黙り込み、気まずさに拍車のかかる空間で。伯理は顔を隠しながら言った。
「面白いって言うか、かわいくて」
「…かわいいとか…」
「めっちゃ興奮しちゃった…キモくてごめん…」
可愛いと言われるのは正直、誠に遺憾だけれど。なんかもう色々それどころではない伯理を見ていると、千鉱としてもそれどころではなくなって。訳も分からず『ありがとう』と礼を述べ、気まずいまま二人で立ち尽くしてしまった。

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