真夜中の恋人

真っ直ぐと闇を孕んだ、それでも純粋に美しい赤い瞳が。伯理を見た時には溢れ出る憎悪をふっと薄めて、安心した様に目尻を緩める様を見ていると。優越感の様なものが心に湧き上がってきて満たされていく感覚を、伯理は感じていた。
復讐とか、刀の破壊だとか、大人が残したしがらみの後始末なんか全部放り投げて、刀を手放したその手をこちらへ伸ばして。自分だけを抱き締めて欲しいと心の底では思ってしまう。幸せと欲に満ちた瞳で自分だけを映して、『ハクリ』と優しく名前を呼んで欲しいと思ってしまうのだ。
地獄へ向かう道中で踵を返して、その道を外れて二人で幸せになれたらどんなに満ち足りた人生なのだろうとも考えるけれど。侍に希望を見て、彼を頼った自分がそれを言うのはあまりにも悍ましい事だと理解して、伯理は何も言わないでいる。線引きも理解もあった。ただ、若き青年が恋情と性欲を完全に押し込めるのは、あまりにも酷であった。
真夜中、時計を見ればもう数分で丑三つ時を指し示す刻である。伯理はドアを静かに開けた。極力音を立てずに、あまりに慎重にドアを引いては部屋へ身体を滑り込ませる。
そこは千鉱の寝室であった。ベッドでは彼が静かに寝息を立てている。かっちりと着込んだ長袖の服に、腰に剣を携えるいつもの姿よりもカジュアルな格好で。ベッドサイドに置いてすぐ手に取れる様にはしているものの、勿論帯刀はせずに穏やかに呼吸をする様に伯理は何とも言えぬ安堵と愛おしさを覚えて、静かに近付いた。
「チヒロ」
小さな小さな声で名前を呼ぶ。千鉱は依然として身じろぎ一つせず、穏やかに呼吸を繰り返すのみである。
「好きだ」
彼の頬に軽く指の腹で触れて、そっと唇へ滑らせる。それからベッドサイドに膝を付けた伯理は身を乗り出し、千鉱へと顔を近付けた。
「ごめん」
蚊の鳴く様な声で謝罪を一つ。罪悪感を背負った引き攣った目で、それでも共に欲を滲ませて。僅かに開いた口を、伯理は静かに千鉱の唇へ合わせた。
伯理の抑え込んだ息遣いがほんの僅かに聞こえるのみで。他の物音は何もなく、時計の秒針がカチカチと進む音だけが響いている。こんなに静かではきっとヒナオやシャルだって到底気付きやしないし。柴とて気のせいだと言って何事も無かった様に目を瞑ってくれるかもしれない。これは犯行なのだから、静かで秘匿である事に大きな意味がある。
硬くて、少し荒れた千鉱の唇に何度かキスを繰り返す。ささくれた唇の皮が擦れて少しくすぐったくて。リップクリームでも送りたい気もするが、唐突にそんなものを送れば不審がらないはずもないだろうし。だから別に荒れようが特に何かをする気は伯理にはない。こんなもの、さして問題でもあるまいし。
息継ぎをする様に僅かに離して、また再び重ねて。一方的な口付けをする。これに彼が返してくれたならきっと、幸せな事のこの上ないのだろうと思う。だがそんな希望は伯理にとって毒でしかないので、すぐに心底に押し込んで、乱雑に閉じた。
「チヒロごめん」
悪いと思っていて、だが興奮と熱を隠し切れない掠れた声で。千鉱の名前を呼ぶたびに舌が痺れる様に思えて、喉の奥に酸っぱさを感じて。これが恋なのだろうと想像するに易い感覚達を、気を抜けばすぐにでも暴れ出しそうなもの全部を腹の中に格納して、伯理はキスを続けた。
もうやめなければと思っている。だが離れ難いと言うのは事実で。それでも、でもと問答を一人でに繰り返し。今日はここで止めなければと決心がついたところで、伯理は唇を離した。僅かな水音すら無くなった部屋では、もう物音一つ立てるにも億劫に思う。
唇を離した伯理はえも言えぬ罪悪感に苛まれる。人が寝ている間に勝手に侵入して、勝手にキスをするなど。今日でやめようと、また今日も思う。それでも結局、今日みたいにまた同じ事を繰り返してしまうのだ。だってまだ、彼は気付いていないから。
それでも今日はもう終いにして、自分も寝ようと床から膝を浮かした時。千鉱の傍についた掌にそっと少しの重さを感じて。伯理の心臓が飛び上がるのを感じて手元を見れば、千鉱の手が伯理の手首を優しく握っていた。それはあまりにも簡単に振り解ける力だった。
「…寝てる時だけで、いいのか」
「チヒロ…」
「俺が気付いてないって、ハクリは本気で思ってた?」
そんな訳がなかった。あの六平千鉱が自室への他者の侵入に目覚めないはずがないと分かっていた。怪我で気絶している状況ならばともかく、呑気に眠りこけているだけのこの状況では尚更。図星の指摘に伯理は目を逸らすと、薄く瞼を持ち上げた千鉱が伯理を見ていた。
「寝てる時だけでハクリはいいのか?キスだけで満足か?」
「…それじゃあまるで、起きている時も、キス以外もしていいみたいだ」
「うん。ハクリにしか許さないよ」
「え」
短く言葉が漏れた。千鉱を見つめれば、彼は照れるでもなく、どこか憂う様な目で今度は天井をぼんやりと見つめる。
「だって、俺には身体を許す事しか、好意を伝えられない」
「…チヒロが、おれを」
浮かれそうな事実をわざわざ発声して。噛み締める伯理の横で、横たわる彼はまるで夜に溶ける様な声で朧げに呟いた。
「地獄に行く俺は、ハクリと付き合えない。言葉には、乗せない。明確には出来ない。悪いけど」
承知の上だった。こんな事で落胆なんかしない。地獄への道を真っ逆様に駆け降りていく千鉱の覚悟なんてすでに散々触れたもので。自分だってそれに期待してしまっているから、否定なんて出来るはずがなくて。伯理は頷くしかなかった。
「愛を渡す資格も、幸せになる許しも俺にはないよ」
「うん」
「許されるのは、憎しみだけ」
「うん」
それでいいよ。伯理は口を開く。それでいいんだ。別に彼とて成就させたくてしていた訳ではない。それでいいと今一度言って、伯理はベッドに膝を掛けて。横たわる千鉱の上に跨った。
「俺はお前に希望を見たから、チヒロのそう言う部分に救われたから、それでいい。それを俺は否定なんて出来ないし、そんな資格はない」
「そうか」
「でも、それならそれで、俺はそんなチヒロにずっと着いて行きたいって思うから、…行き先が地獄でも俺は一緒にいたいって思う」
恋人という肩書きなんていらないから。ただ隣にいる権利だけでも欲しい。なんて勝手に欲を暴走させてキスをした手前、言うのはあまりにも烏滸がましい。千鉱は肯定も否定もせず、黙って伯理を見ていた。彼もまた、伯理の覚悟というものを分かっているのだろう。
「…チヒロに親殺しを頼んだ俺なんてさ、結局のところ浄土になんて到底いけないだろうしさ」
「うん、確かに」
「あ、肯定された」
いや、まあ、ここで否定されたところでという話ではあるのだが。何せ何一つ事実さと遜色のない事しか言っていないので。別に良いんだけどねぇと何でもない顔で思う伯理の襟元を、千鉱は唐突に掴み、引き寄せた。
「つづきを」
「どこまで?」
「全部」
千鉱からのキスを受け入れる。下手くそだった。前歯が僅かにあたって、カチンと小さく音がした。
「全部奪っていい。矜持も常識も理性も無くしていい。今だけは全部、お前のものにしていいから」
「チヒロ」
こんな事を言われて何も思わない男がいないはずもなく。明確に熱を帯びた伯理が少し息を荒くして、千鉱を呼んだ。
「真夜中だけはせめて、恋人の真似事をしよう」
寂しい言葉が穏やかに響いて。千鉱は静かに据え膳に手を伸ばす。きっとこれから騒がしくなる部屋の事が、誰にバレないように祈りながら今度は彼から千鉱へ深く口付けをした。

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