深憂を解いて

僅かに開いた口から小さく息を漏らした伯理は、じゃあおやすみとその場を去ろうとする千鉱を急ぐように追いかけた。そして彼の寝巻きの袖を、クイと引く。
「まだ、いかないでほしい」
乾いた口から捻り出した細い言葉に、千鉱は振り返る。不安そうに瞳を揺らす伯理はどこか気まずそうに目を逸らして。震える呼吸音を隠すかの様にゆっくりと息を吸った。
「…行かないで…」
「…あー、いや、あの、…へへ」
伯理の言葉を思わず復唱する千鉱にハッとした彼は、眉を下げて後頭部を掻く。ころりと表情を変えて、誤魔化すみたいに笑った伯理は袖を引いた手をそっと離した。
「えっと、その」
「ハクリ」
「…はぁ、ごめん。ちょっとキモかった」
「いや」
「大人しく寝るよ」
自嘲する様な笑みを浮かべ、伯理は踵を返す。足早に去ろうとする彼を今度は千鉱が引き止めた。彼の静かな声で伯理と名を呼び、彼の手を握る。
「ちょっと」
「ん?え」
「話し相手になってくれ」
話し相手だなんて、千鉱はあまり必要としていないだろうと思う。彼は自分から話題を提供して、その場を盛り上げるタイプでは決してない。基本姿勢は聞き役だ。普段は伯理や柴が勝手に喋っているだけである。実の所千鉱は適当な相槌を打つだけで、会話を広げるなんて事はあまりしてはいなくて。伯理だってそれを分かっていながらも、彼のその提案にまんまと乗ったのは心に浮かぶ不安故だし、彼の不器用な親切を素直に受け取る彼の親切心もほんの少しだけあったりする。
ダイニングテーブルの前に座らされ、少し待っていろと言われた伯理は。ヤカンに水を注いで火に焚べる千鉱の後ろ姿をぼんやりと眺めた。
「なあ、チヒロってさ、なんか意外とちっちゃいよな」
「…え?」
「刀振り回してる時はあんなに大きく見えたのに」
「ディス、られている?」
違う、違うよと慌てて手を振った。よいしょと立ち上がった伯理はヤカンの前で馬鹿にされてるのかと立ち尽くす千鉱の後ろから手を伸ばしてシンクに手を置いて。まるで千鉱を囲う様に立って、肩に顎を乗せた。
「俺でもこうやって隠せるんだぜ」
「…」
「小さいだろ」
「いや」
短く否定をした千鉱はくるりと身体を向ける。そして腕で囲い込む伯理の肩をグッと押し込めば、伯理の背が少し低くなった。
「背伸びは反則だろ」
「ダメか」
「うん。ハクリは俺とほぼほぼ同じ背」
ポンポンと肩を叩けば、ぐぬ…と眉を顰めて。不服そうな顔をする彼の腕の中からするりと抜け出して、高く鳴くヤカンの火を止めた。
「お茶入れてくれてんの?」
「いや、違う」
そのヤカンの中身をそのまま湯呑みに注いで伯理に手渡す。水を注いだだけのヤカンの中身をそのまま手渡すという事は、中身は完全なお湯である事には違いなく。念のため、何これと聞く伯理に千鉱は言った。
「白湯」
「…ウン、ありがと」
淹れてもらった以上、文句は言えない立場である事は彼も分かっていて。白湯って好きでも嫌いでもないけど、それならお茶とか、なんならホットミルクでも良かったなとか。そんな余計な事を考えては、少しだけ悪い気がした。淹れてもらったのに、やはりそんな事は言えない。
「実は、お茶っ葉を切らしていて明日買いに行くつもりだった」
「あっ、そっか」
「だから、白湯。乾杯」
千鉱に言われて湯呑みを軽く優しく合わせる。ふぅと一息吹いて、口を付けた白湯はやはり白湯でしかないので。特段味もなく、暖かな水が喉を通って行った。
「…」
「…」
「…」
「あの、チヒロ」
「ん?」
「話し相手、なるんじゃなかったの?」
白湯に口を付けてずっと黙っている千鉱に、伯理が思わずそう言うと。湯呑みに口を付けたまま、彼は固まって。目を泳がせて、『あの、えっと』と狼狽えた。懸命に話題を探しているのであろう千鉱を見ているとなんだか面白くて。『ふふふ』と思わず溢れた笑いに千鉱も困り顔を浮かべる。
「チヒロそういうのは得意じゃねぇもんな!」
「…俺だって、楽しい話くらい…」
「いいよ、無理しなくて。ありがとな」
先程のお返しとでも言いたげに。千鉱の肩をトントンと叩くと、彼はバツが悪そうな顔をして。湯呑みに口を付けて、傾けた。
「いや、マジでありがとうチヒロ」
「…悪かったな、その、話し相手にしてやれなくて」
「何だその謝罪!いいよ別にさ。だって俺、チヒロの気持ちだけで十分嬉しいし、なんか気も晴れたし」
そう笑って千鉱の頬を何とかく抓ってみると。怒っているのか何なのか、複雑な無表情で伯理を見た。あまり目立った変化のない表情もよくよく見れば存外差分がある事に、伯理は最近少し気付いた。
「…ハクリ」
「んー?なに?」
「不安だったり、怖かったり、そういう時は上手く眠れないよな」
「…そうだな」
「その時は、また俺に声掛けていいから、叩き起こしてでも」
「いや、別に寝てたら寝かせとくよ」
「次の時は、ちゃんと美味しいお茶淹れてやる」
千鉱の温かな優しさが心に沁みて、あまりにも嬉しくて。口を付けた白湯からはほんのりと優しい甘さが広がる様な気がして。とても穏やかな顔で千鉱を見た伯理はゆっくりと頷いて。安心した様な顔で笑った。
「ありがとなチヒロ」
「うん」
「…なんか、白湯めっちゃ美味く感じてきた」
「じゃあ次も白湯入れようか」
「それはお茶を淹れてください」
冗談だという千鉱の表情は一つも変わっていなくて。何だかそれもおかしくて、ケラケラと笑う伯理を千鉱は見る。彼もまた、どこか安心した様子で目を細めた、様な気がした。

1つ前へ戻る TOPへ戻る