はるか昔の暦で言えば、季節はもう秋だと言うのに。咽せる事すら憚られる暑さは梅雨明け直後となんら変わらず、むしろより一層生命が危険を感じる程の酷暑であった。汗が引き出すなどではなく、まさしくこの身が焼け付かんとばかりの陽射しは青い空の下で平等に降り注いだ。
木々の隙間からは以前よりも格段に小さくなった蝉の鳴き声がする。じわじわとたったの一匹で鳴く様はどこか寂しく虚しい印象だ。
「お前はたった一匹で鳴き続けてるな」
仲間も、友人も、一緒に生まれてきた兄弟もいたかもしれないが。それは一匹だけでいつまでも、いつまでも声を上げ続けている。
「鳴き続けてるのが自分だけって、なんか頭おかしくなりそー」
「え、蝉はおかしくなっても翌日になったらリセットされるんだと思ってた」
「それ言ったら俺達もリセットされてるはずじゃない?まあ、今日ちょうど死ねたら、リセットされるかもだけど」
「覚えてんのかな、ずっと、32日のこと。俺達と一緒で」
この一匹の蝉と、公園の屋根付き休憩スペースに身を寄せる潔と蜂楽は、もう何日も前から8月32日に囚われていた。存在しない32日という時間に気付けばいて、その日を何度も繰り返している。抜け出す方法など分からず、ループを数え始めてから五十回目で、カウントをやめた。
自分達以外に人はいなかった。コンビニも、学校も伽藍堂で廃墟の様に佇むだけ。この世界に存在している人間は、確認出来る範囲で言えば、自分たちしか存在していなかったのである。
「そしたら死んだ時の事も全部覚えてて、この日の最後にその死んだ感覚を何度も何度も繰り返すって事?…マジでやだなー、繰り返し死ぬって」
「そうなったら蝉が誰よりも主人公してて面白いね。この世界を抜け出す鍵は俺達じゃなくて蝉だった?」
「マジか…」
空はからりと晴れていて、陽射しは変わらず強いのに。鳴き続ける蝉も、建物だって本来送っているはずの普通の日々と遜色が無いのに。この時間は絶対に存在しないのだ。チカチカとひとりでに点滅しては切り替わる信号が、どこか不気味だった。
「…俺は蜂楽と一緒で良かったよ」
「お」
「一人だったらどうなってたかな」
何度目かの繰り返しで精神が壊れていたかもしれないし、死んで戻ってを繰り返していたのかもしれない。ただ、蜂楽がいなかったなら、自分はここまで鮮明に正気を保ってはいられなかっただろうと潔は思っている。
「いや、潔は一人でもまともなままでしょ、絶対」
「何で断言すんだよ」
「俺の知ってる潔はそうだもん」
「どういう事?」
何故か得意げな蜂楽に潔は呆れ顔だ。溜息を吐き、首元を仰ぎながら呟く。
「どうやったら元の世界?に戻れんだろな」
「んーにゃ、わからん」
「…色んなとこ調べて、色んな事してみたけど、結局この有様だし…」
漫画やら、小説やらの真似事をして、色々な解決方法を試したけれど。何も上手くいっていないから、二人はまだ32日を繰り返しているのだ。もう思い浮かぶ事もなくなって、潔は完全に八方塞がりな状況だった。
「…試してないの、一つあるけど」
「え!?マジか蜂楽!なんだよ!?」
「死ぬとか、この蝉みたいに」
腰を浮かせた潔は大人しく座り直す。細められた蜂楽の目を一瞥して、『バカ言え』と手を振った。
「やだよ、死ぬのはちょっと」
「でももし、死んで解決出来たら?」
「…………それも、そうなんだよな」
試していない事で、すぐに思いつく事と言えばそれくらいで。もう他には何も思い付かない。だが、実際に死んでみたとて、それで上手くいかなかったら。上手くいったがその結果、現実でも死んでしまったなら。潔は仮定して、身震いする。
試してみるに際して、考えうるリスクが高すぎるのだ。その危険性が払拭出来ない以上、安易に手を出せる方法ではない。それにもし、死しても抜け出せなかったなら、きっと本格的に精神が壊れてしまう様な気がして、恐ろしく思う。
「…やめよう、流石に」
「サッカーなら、多少のリスクを背負ってでも、潔は何だってするのにね」
「サッカーじゃねぇだろ、これ」
サッカーにこの身を尽くし、命を削ってきたつもりだが、結局のところ、本当に命を賭ける場面に遭遇したら尻込みしてしまう。危険性が透明化されていない状況が状況なのだが、それでも結局、その程度なのかと勝手に落ち込む潔もいて。心なしか声音が沈んだ事に、蜂楽は気付いたが何も言わなかった。
「俺も、一緒にいるのが潔でよかった」
「ん」
「退屈しないし」
ヘラヘラと笑いながらそう言う蜂楽に、潔はまた溜息を吐き。『呑気だなぁ』と口角を上げた。彼に蜂楽は静かに笑い返す。
馬鹿みたいに暑くて、嫌に静かだとしても。二人だけの世界なんて響きがひどく甘美に聞こえる事を、潔は知るはずもない。細く開けた目で潔を捉える。首筋を一筋の汗が伝っては、シャツに染み込んでいった。その汗も明日にはきっと無かった事になっている。
解決するつもりはあるし、焦燥感だって蜂楽の中には確かにあるのに。その傍らでこのままでも一等に幸せだと言う満ち足りた思いもあって。俺は知らず知らずのうちにとっくのとうにおかしくなっていたのかもしれないと、静かに思った。
空はいつしか色を変え、ほんの少し涼しくなり始めた頃。もう何時間も前から蝉の声がしなくなったのを、蜂楽だけは気づいていた。