真実の愛のキスで目覚めないでほしい

ロビーの椅子に座って背もたれに全体重を預けている。ワイシャツの襟元を緩めて、ネクタイをテーブルに乱雑に置いて。まだ少年の面影の残るあどけない顔でガイは眠っていた。
「…そんな体勢で寝てたら絶対身体痛くなるよ」
起きたら寝違えて痛くなっていそうな首の角度にハラハラしつつ。セイカはガイの側まで近付いて、椅子の近くにしゃがみ込んだ。彼の無防備な顔を覗き込み、何をするでもなく眺める。
(…まだ子供なんだよなぁ)
寝顔を見れば見るほど彼はまだ子供で。大企業の代表なんてものを背負うには幼過ぎると思うのだけれど。ガイが選択した事にセイカが物申す権利なんてないと思い知ってしまったから、彼女は何も言えずにいる。
そんな彼女は彼女でガイに黙っている事があって。それこそ、彼に口を出される様な事では全くない。
(…そろそろ地元帰らないとやばい)
学校の長期休暇のタイミングでカロス地方を見て回ってみようなんて思いで、まず一番にこのミアレに立ち寄って。そこで偶然出会ったガイに散々巻き込まれてこれだけ長居をしてしまった。当初のカロス旅行の日程を大幅に超過した滞在に比較的放任主義な両親もメッセージを寄越すほどで。正直、そろそろ帰らないと学校だって始まってしまうのだ。それに、自分の進路の事だってそろそろ考えなくてはいけなくて。彼女にだって、地元に置いて来たやりたい事や興味があるのだ。大学だって、希望がある。だから、ミアレを離れればもう戻れないかも知れない。
(……でも、ガイを一人だけ残してはいけないなぁ)
ガイは全部を置いて、一人で別の場所へ行ってしまった。セイカも空気を読んで彼の決断の後押しをしてしまったので、彼女も共犯だったとも言えるが。薄らと隈の浮いた彼の顔を見ていると、放っておく事が出来なかった。現状、あまり隣に立つ事も出来ていないけれど、このまま置いていく事だってセイカには難しい。だが、彼女にも事情があって、生活があって。帰らなければならない理由がある。やりたい事もあった。だが、それを全て捨ててでも彼となら寄り添ってもいいとも思っていた。自分と、ガイの間でセイカの心は揺れ動いている。
(……それにまだ好きって伝えてないし…正直、あんまり伝える気もなかったけど)
彼女の淡い恋心だって胸にしまったままで。この想いに関してはずっと秘めておくつもりではあったのだが、こうなれば帰りたくない言い訳として挙げて、自分をこの場に繋ぎ止めようと現実問題に抵抗してみる。
(………もし、…もし今ガイにキスして、眠ったままだったら)
賭けだった。自分の意思を決めかねている彼女の、ギャンブルの様な挑戦だった。一度帰るにせよ、また戻ってくるか。それとも、ガイ達の事を忘れて元の日常に戻るのか。
「…キスして、眠ったままだったら…ちゃんと帰って、…元の私に戻ろう」
ミアレの英雄でも、最強のポケモントレーナーでもなく、少し田舎の町で高校生をしているただの少女へ。旅行が趣味で、勉強の得意不得意に偏りがあって、運動が少しだけ得意な普通の若者へ。ミアレではもう得る事の出来ない平凡が、地元にはある。
セイカは細く息を吸う。ガイの側で膝立ちになって、顔を近付けた。香水の優しい香りが鼻を掠める。だがその顔はあまりにも子供らしい。大人ぶるしかない子供のガイの痛ましさがセイカの呼吸を浅くした。
(……きみは、かわいそうで、寂しい人なんだね)
セイカは眉を下げる。肘掛けに無造作に置かれた彼の手に自分の手を軽く乗せた。
(私に、ちゃんときみの隣にいれる権利や立場があればきみは寂しくないのかな)
一般人で、子供のごっこ遊びの様なグループのメンバーで、ただの友人ではもうガイの隣にはいられなくて。この恋心がちゃんと芽吹いて彼の元まで届いていたなら、それも違っていたのだろうけど。今まではそれをガイが望んでいない様な気がして、セイカは何も出来なかった。
(どうせこれが最後になるんだから、少しくらい良い思いしたっていいよね)
疲れ果てている彼はきっと目覚めないし。多分元の普通の高校生に戻って、大学に行って、就職をする。それからどこかでガイ以外の良い人と出会えて、結婚するかもしれないし。これで終わりなら、最後の思い出くらい貰ったってバチは当たらないだろうとセイカは思う。だって、私はミアレを救ったんだからと功績を胸に抱いた。
さらりと垂れる横に流した髪の内側。端正な顔に鼻先を近付けて。少し控えめに口を開いた。キスなんて初めてで、唇が僅かに震えた。
あと少しだけ顔を前に出せば、もうキスが出来る距離感で。一歩分の勇気さえあれば、一生分の思い出になるのに。セイカにはそれが出来なかった。
(……よくないか、こんなの)
本意でない下心は不快だなんてセイカだってよく知っている事で。悪意にも似た悍ましい感情を、かつては彼女も向けられた事だってあるのだから。良い思いがしたいと言ったって、その愚かしさを知っている彼女には踏み出す事が出来なかった。
きっとこの想いは燻ったまま、昇華される事はないのだろう。もう大人しく帰って、普通に戻ろうと思った。ポケモンバトルはともかく、それ以外で勝算のない勝負はしない主義だった。だから二人の関係はついぞ変わる事なく、二人の道は違えたままで、きっと別々の幸せを進んでいくのだ。
何もかもを諦める、今日その決心がついた。完全な離別をセイカは選んだ。セイカは元に戻って自分のしたい事をするだけだし、ガイはガイで自分の選んだ道をただ進むだけ。どちらにとっても待っているのは幸せだから。セイカはそう自分に言い聞かせ、立ち上がろうとした。ガイと完全に距離を取ろうとした時、首の後ろに手が触れた。
「え」
驚いて目を見開いて、見上げた彼女の唇に柔らかな感触を感じて。一瞬で離れたそれを目で追いかければ、完全に目を開けたガイと視線が交わった。
「……王子様がキスで、目覚めちまったなぁ」
目覚めたのではなくて、おそらく元から目は覚めていたというか。そもそも最初から起きているだけだったんだと糾弾する事すら、今のセイカには出来なくて。下手に口を開けば心臓がまろび出てしまいそうで、静かに瞳を揺らしながらガイを見つめる事しか出来なかった。
「目覚めちまったから、俺と一緒にいてくれるか?」
上から重ねた手はいつの間にかガイの手に包まれていた。首の後ろに回された手で、後退して逃げる事も出来ない。真っ直ぐ注がれるガイの熱視線を黙って浴びる他なかった。
「いなくなったら寂しいよ、お姫様」
だからどうかいなくならないでくれなんて。寂しそうな声でそう言われたら、その手を振り解く事なんてセイカには出来ない。
「………ねぇ、ずるいよ」
「先に仕掛けたのはお前だろ」
そう言って問答無用でキスを落として。あまりにも煩雑で強引なのに、セイカに拒否する理由などなかったから。彼女も黙ってガイの唇に応えるのだった。

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