新たな命を

「ハルカ」
未だ傍らで眠る妻を揺り起こす。寝かせてあげても良いとは思ったが。牧場の仕事でいつもは早起きな彼女が普段の起床時間よりも一時間半も過ぎているにも関わらず、すやすやと眠っている状況がおかしくて。昨日だって別に夜更かしした訳ではなくて、やはりいつも通り健康的に早寝をしていたのに。
どう考えても普段通りでない彼女が心配で。仕事をさせるためというよりは、状況確認のために起こそうとした。
アラタに揺さぶられ、ゆっくりと目を覚ましたハルカは、身体を横たえたままぼんやりとアラタを見る。おはようと力の抜けた声でそう言って笑うハルカの頬を撫でた。
「…ハルカ、もう七時半だぞ」
「…え…あ、しごと…」
急いで起きあがろうとするハルカだったが。腕を立てて身体を持ち上げると、不意にぐらりとよろけて。ベッドに寝転んでしまった。
「…あれ」
「…ハルカやっぱり具合悪いな」
何となくいつもとは違う起床時間に、いつも以上に高い体温と、小さな声にアラタは察していた。心なしか顔色も青白く、開いた目も今にも閉じそうなほど眠たげだ。
「…ここのところ、ずっと調子悪そうだったもんな。無理が祟って本格的に倒れたか」
「…そんな、無理してないよ…昨日までは微熱っぽかっただけだし…」
「…微熱はあったのかよ」
じゃあ安静にしてなきゃダメだと注意をするけれど。それに気付いてあげられなかった自分も不甲斐無くて。横たわるハルカに掛け布団をかけて謝る。
「牧場の仕事は出来る限りオレがしておくよ。今日は雨だし、放牧とか水やりとかの仕事はないだろ。倉庫にある肥料撒いて、牛達のブラッシングとかすればいいよな」
「い、いいよ…私できるよ…」
そう言ってまた身体を起こそうとする彼女にアラタは呆れた様な溜息を吐いて。彼女の額に手を当てた。
「…大分熱いぞ。ダメだ。無理したらもっと拗らせるかもしれない。安静にしてちゃんと治そう」
「昨日までは、平気だったの」
「昨日までは平気でもそれで無理した結果今日みたいになるんだろ?」
そう返されて反論も出来ないハルカは。訴える様にアラタを睨むだけだった。今日は寝てろよと何度か念押しして、ハルカが観念して頷いたのを見てアラタも安心した様な顔を見せる。
「仕事が終わったら俺はちょっと医者について聞いてくる」
「医者?」
「連日体調崩してるだろ。流石に医者に診てもらおう」
ハルカは困った様に眉を下げてアラタを見る。そんな事しなくて良いとも言いたげな視線を寄越すも、完全に無視をしてやり過ごす。
「とりあえず何か食わないと風邪も回復しないよな。お、オレでもお粥くらいなら作れる、だろ…?たぶん」
「…あ、あの」
「どうしたハルカ。何か食べたいものとかあるか?」
彼を呼び止めたハルカはゆっくりと深呼吸をした。それから小さく口を開く。
「あの、ごはん、いらない」
「そんな事言ってたら治んないぞ。ちゃんと食べなきゃ」
「…きもち、わるくて…」
青白い顔で口元を押さえるハルカに彼は目を丸くする。小さく息を吐いて、アラタは外に出る支度をした。
「とりあえず医者について聞いてくるな。固形物食えなくてもジュースぐらいは飲めるだろ?帰って来たら作るよ。倉庫にある林檎ちょっと使わせてもらうぞ」
「うぅ〜…」
「待ってろ、ダッシュで行ってくる」
苦しそうに唸る彼女を一瞥して。アラタはドアを開ける。木枯らしの吹く色鮮やかな牧場を足早に出て、彼は町に急ぐのだった。
牧場から町に出て、一番近くにあったカフェに大変だと乗り込んだ。焦った様なアラタの様子に、わざわざカウンターから出て来て話を聞いたメリーニが血相を変えて外に出て。先程カフェのテラス席で寛いでいた主婦二人を連れて戻って来る。店の中で何やらコソコソと三人で話し込み、ネリネが『サニアさんを呼んでくるわ!』と行ってしまった時点で、アラタは完全に置いてけぼりになった。
報告したのは彼だし、渦中の中にいるはずなのに何がどうなっているのか一切分からない。取り残される彼に『心配よねぇ』と話し掛け、気を紛らわせようとしてくれるミーナとディルカが有り難かった。
それからネリネがサニアを連れて来て、町の女性達と共に自宅へ戻る事となった。珍しく体調不良で倒れる妻にアラタとしてはもう気が気ではないのに。真剣ににも見えつつ、どこかワクワクした様なご婦人達の反応は何なのだろうと疑問に思っている。
「ハルカー?皆さんが来てくれたぞ〜」
「はいはい、ハルカさんお邪魔するわねぇ」
「大丈夫かしら〜?」
先陣を切って入って行くメリーニとサニアにハルカも半身を起こし。ボサボサの髪を手櫛で整えながら、引き攣った笑顔で出迎える。側に駆け寄ったアラタが彼女の手を握り、背中を摩れば眠たそうな顔でほぅと息を吐いた。
「ハルカさん、ご体調は平気かしら?」
「…まあ…」
「辛そうねぇ」
「辛そうなところごめんなさい。幾つか質問しても良いかしら?声を出すのが辛ければ首を振るだけで良いし、何なら分かる範囲でアラタさんに答えてもらっても良いし」
ハルカはゆっくりと頷く。隣に腰掛け、ハルカに寄り添うアラタに頭を預ければ、彼は大きな手で優しく肩を摩った。
クレアから投げ掛けられる幾つかの質問に答える。なるべく言葉で伝えようとするも、時折ウッと口を押さえる瞬間もあり、その際は隣のアラタが回答をした。
質問が終わってクレア達は集まって話し合う。その様子を心配そうに見つめるアラタの横で、ハルカは申し訳なさそうに眉を下げた。
「…ごめんね、心配掛けて」
「まあ、心配なのはそうなんだけどな。そんな事で謝るなよ」
謝る彼女を片腕で抱き締めて、その手で頬を擽る様に撫でた。それをこそばゆそうに目を細め、『ふふ』と笑う。今日、初めてハルカが笑った事にアラタも少し安心した様な顔で笑い返した。
「クレアさん、どうかしら?やっぱりそうよね?」
「そうねぇ。正式な事はお医者様を呼ぶしかないけれど」
「私の時の症状とそっくりだわ。あの子達の時は熱っぽくて吐き気がしたもの」
「私も絶対そうだと思うわ!」
何だかワイワイ盛り上がる女性陣にアラタが声を掛ける。ハッとした様子で振り返った四人は二人を見てどこか楽しそうに笑っていた。
「…それで、ハルカの体調不良は何なんだ?」
「あは、やだ。そんなに不安そうな顔しなくて大丈夫よ」
クレアがカラカラと笑って前に出る。そんな様子に更に困惑を深めるアラタとハルカだったが、クレアは二人に明るい声を上げた。
「むしろおめでたい事よ!」
「おめでたい事?」
「奥さんに赤ちゃんが出来たの!」
クレアの言葉に二人は驚く。信じられないとでも言いたげにお互いを見て、アラタは瞳を揺らしながら、おそるおそる呟く。
「…ハルカに…?」
「ええ!」
「おめでとうハルカさん、アラタさん」
サニアの穏やかな声に続き、メリーニやネリネも祝福をする。温かな雰囲気の中、ハルカの顔をじっと見つめるアラタの表示は次第に緩んで。明らかに喜色を含ませる様に、口元が緩んだ。
「…はは」
「アラタとの…」
「凄い!ハルカとの子供だなんて!」
ハルカの両手を取り、自分の手ですっぽりと包み込む。ギュッと、だが優しく握られた手が少し震えている事に気付いてアラタを見上げれば、お互いに視線がぱっちりと合って目を細めた。それはもう何度も見た、彼がとても嬉しい時にする表情だった。
「最高だよ!本当に、最高だ」
「…アラタ、うれしい?」
「勿論!アンタとの間に子供が出来るんだ!本当に、奇跡みたいだ」
興奮した様子で捲し立てる彼にハルカもおかしそうに声を上げた。弱々しいながらも幸せの滲む声に、クレアらも幸せそうに微笑んで口を開く。
「また正式な診断はお医者様の元で受けるべきだけど、産まれる時は私に任せて頂戴!結婚する前はお産の仕事をしてたのよ!」
「それに私達もいるしねぇ。クレアさんやネリネさんに、昔村にいた若い奥さん達のお産を何度も手伝った事があるのよ、ね?サニア」
「そうねぇ」
「あ、ありがとうございます!頼もしいです!」
「ふふ、そうだね」
キラキラな笑顔で、隣で大声を上げるアラタにハルカはくすくすと肩を震わせる。具合の悪い人の横で騒いでしまった事にすぐに気付いて、アラタは急いで口を手で塞いでハルカと顔を見合わせた。
「妊娠中の事とか、悩みがあれば何でも聞いてね。うちの子達を産んだノウハウが私にはあるし、ここにいる皆さんにもあるから」
「そうよぉ。ネリネなんてつわりの症状があなたに似てたんだから、参考になるんじゃない?」
「ふふ。そうね、まずはつわり中に食べれたもの、あとで教えてあげるわね」
喉の奥に蔓延る気持ちの悪さに、固形物が通りそうにないと食事を諦めていたハルカだが。ネリネのその言葉に半泣きになりながら礼を述べる。いいのよぉといつも通りのんびりと笑うネリネが、もう何だか世界を救った勇者の様に輝いて見えて仕方なかった。
「それとアラタさんはちゃんと奥さんを支えてあげる事ね。今みたいに体調悪い日も妊婦さんには多いから」
「牧場の仕事とか、やらせちゃダメよ!肉体労働が多いでしょう?安定期になるまでは激しい運動は極力避ける事!きっとハルカさんは目を離したら無理をするから、あなたがちゃんと見ていてね!」
メリーニの注意にアラタは顔を引き締める。彼女の諸々について、彼も思い当たる節はあるし、牧場の仕事の大変さも手伝う事も多くなった彼は身に染みて分かるのだろう。そうだなと神妙に頷くアラタにハルカは大丈夫と口を開こうとしたが、クレアらに強く『ダメ!』と言われて閉口した。
「というより、安定期に入っても激しい運動は御法度だし、産んだ後も安静にしていなきゃダメよぉ」
「出産は子供もお母さんも危険なものなんだから」
「…で、でも、あの、仕事は…」
牛や鶏といった動物達がいる以上、休む事は出来ない。あれらは自分が守り、育むべき命なのだ。責任の所在は彼女にある。困った様に頬に手を当てるハルカを真剣な顔で覗き込んだ。
「オレが全部変わるから」
「え、ええ…でも」
「安定期に入ったら水やりぐらいはしていいぞ。でも家畜の世話や肥料撒きはダメだ。オレがやるから。大変だろ?重い物を持つし、牛なんかはハルカよりも大きくて強い生き物だ。万が一の事があったらいけない」
アラタのあまりの圧にハルカも気圧されて。おずおずと頷けば、アラタは微笑んでハルカの頭を撫でた。
「牧場の仕事も確かに大切だけど、今のハルカにとって一番大切な事は、俺達の元を選んでくれた自分の子供を育てて守る事だろ」
「…アラタ…」
「心配無用だ。力仕事には自信あるし、任せろ。大丈夫だ」
自分の手を握り締めるアラタの言葉は静かで、どこか重さを感じて。『わかったよ』と言葉を返すと、彼は嬉しそうな様子だ。牧場の仕事を放っておくわけには行かないし、ペットやアラタに頼るにしても限度がある事は分かるけれど。こんなに穏やかに笑う彼を悲しませてはいけないと思って。無理なんて出来ないなぁと困り顔で笑った。
一通り注意点やら何やらを伝えられ。最後に町長に伝えて牧場主に負担をかけない様皆で言っておくからと言葉を残して、ハルカ達の家を後にした。その言葉にはどこか圧を感じて、これから女性四人に押し掛けられ、何か言われるであろうあの大男が少し可哀想に思った。
未だ現実感がなく、ぼんやりと夢心地のハルカの横でアラタはどこか忙しない。ソワソワした様子でハルカの腹部を見ながら、まるで蝋燭のついた誕生日のケーキを前にした子供の様に目を輝かせた。
「お、お腹、触っていいか?」
「まだぺたんこだよ」
「それでもいるんだろ、オレ達の子が」
断る理由もなくていいよと頷く。おそるおそる手を伸ばし、まだ平らな腹を撫でる。今はまだ何も分からないし、掌に実感だってないけれど。日数が経つたびに現実味は大きくなって、存在をありありと感じられる様になるのだろう。
「…ああ、どんな子がオレ達の元へ来てくれたんだろう」
「そうだね」
「気が早いけどさ、会えるのがすっごく楽しみだな!」
「男の子かな、女の子かな」
「あー!どっちなんだろうなぁ!でも、どんな子だってハルカとの子供ならきっと世界で一番可愛いぞ!」
まだ見ぬ子供を世界で一番と言ってしまうなんて。親バカは約束されてしまったみたいだ。とても楽しそうな夫の様子にハルカも幸せそうに破顔して。お腹を撫でる彼の手に手を添えて、額を合わせた。
「ここに来た時は想像出来なかった。あなたと結婚して、何よりも大切な家族が出来るなんて」
「そりゃオレもだよ。だってさ、オレなんかシュミットの都合でここに来ただけだぜ?完全に一時の仕事で立ち寄ったようなもんだからな!」
「シュミットさんがいなかったら私達は出会ってなかったのね」
「…それはそうだけど、考えたくないな。今となってはハルカのいない人生なんてもう考えられないし」
お腹を撫でていた手がハルカの手を取って、指を絡める。ギュッと握り締めたアラタの手を握り返した。
「これまでもオレ達は幸せだったけどさ」
「うん」
「これからはもっと幸せになろうな」
「そうだね」
「この子が大きくなって、もしかしたらオレ達の元を離れて遠くに行くのかもしれない。でも遠くの国で思い浮かべる思い出が全部楽しくて幸せなもので、いつでも帰って来たくなる様な、そういう日々をこの子には与えてあげたい」
「そうだね。…でも独り立ちする時、あなたは泣かずに見送ってあげられる?」
「…息子なら、いける」
じゃあ娘は無理なんだなって。そう思うと何だかおかしくなって来て。ケラケラと笑うハルカにアラタも釣られて笑った。
楽しそうなアラタは不意に真面目な顔になって。ハルカを真っ直ぐに見つめる。
「これからもずっともらった幸せの分、ハルカを幸せにして、それと同じくらい子供の事もめいっぱい幸せにするつもりだ」
「アラタがいつか、言ってくれた言葉だ」
「はは、そうだな。だから、これからもずっとオレの側にいて、楽しく笑っていてくれよ」
「今も十分楽しいよ」
「そりゃありがたいな。でもこれからも、末永くずっとな」
付き合い始めた時の様に。プロポーズの時の様に。あの時と変わらない顔でアラタは優しくはにかんでいる。この顔が、私は大好きなんだと改めてハルカは思う。この人のためならどんなに体調が悪くたって、幾らでも耐えられると確信している。
抱きしめるために背中に回るアラタの手を当たり前の様に受け入れて。まるで割れ物を扱う様な抱擁をするアラタの胸に頬を寄せた。

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