黒いスーツの皺を伸ばし、アオイは息を吐く。何だか肩が重くて軽く腕を回した。ポケモンリーグ本部で営業として働くアオイは、休憩室のソファーに腰掛け、首を慣らしていた。先程、営業に向かって帰って来たばかりでへとへとに疲れているのである。『はぁ』と息を吐けば、突然、頬に温かさを感じた。
「へい、お疲れ」
そこにいたのはボタンだった。彼女もまたポケモンリーグに勤めており、エンジニアとしてあらゆるシステムを統括している。丸眼鏡をくいと上げ、ボタンはアオイの隣に座った。
「営業、大変?」
「んー?楽しいよ。ジムの人達とか、その近隣のお店の人達とか皆気さくでいい人達ばっかだし」
「へー、すげー。営業なんて良く出来るね。ウチには無理」
「ボタン無理そう〜」
ボタンから貰ったコーヒーを開け、一口煽る。ブラックコーヒーの苦味が口一杯に広がり、アオイは息を吐いた。
「…アオイはさ、何で営業だけに配属希望出した訳?アオイなら次期チャンピオンとか、四天王として、…それこそ今のネモみたいな立場になれたじゃん」
学生時代、転入早々チャンピオンランクに上がり、それでいてパルデアの未来に関する大きな問題も解決してしまったアオイには勿論、オモダカから後進としての配属を打診されたのだが。同じくそんな事を言われ、快諾したネモに対し、彼女は断ったのだ。
「いや、こう見えてさ、私、人の上に立つ!みたいな事、得意じゃないんだよね…」
「まあ、面倒臭そうだわ」
「こう言うのはネモが得意だし、私以外にも強い人って本当、沢山いるからそう言う人達に表舞台は任せて、私は裏方で頑張りたいなって」
「そっか」
ボタンは短く返事をする。そして手元にあるカフェラテの缶を握り、ほんの少しだけ間を開けた後、彼女は口を開いた。
「…まあ、そんな事は良いんだけどさ……あの、ペパーとはどうなってんの?今」
「ん?ペパー?付き合ってるよ」
「ああ…そうなんだ…」
「え、知ってるよね?何?」
ペパーとアオイはもう数年間、交際を続けている。偶に口の悪さや素行の不良さが垣間見えてしまう事もあるが、アオイにとってはいつまでも優しいペパーで共にいる事で安心を覚えていた。
「…いや、…そのさ、もう結構付き合って長くない?」
「まあ、長いね?」
「それにさ、向こうも自立して店持ってるし、ほら、アイツ、料理動画とか配信してそこそこ収益も出てる訳じゃん?アオイもリーグの営業で給料も良くて、それなりに、それなりな大人でしょ?」
「…?うん」
「結婚、とかしないの?」
恐る恐る言ったボタンの言葉にアオイは言葉を濁す。『あー…』と声を上げ、彼女は頬を掻いた。
「……これは、まあ、結構前々から考えてた事ではあるんだけど、…あの、ペパーてさ、やっぱ子供の頃から結構一人で、お父さんっていうか家族の記憶が無いって言ってたじゃん」
「うん」
「だからね、何て言うか…家族の愛とか親としての愛とか、そう言うの分かんねぇから自信ないなって言う話はお互いに結構してて、……本人的にも結婚には乗り切れないって言うかさ、…あんま乗り気じゃなくて」
「…あー……」
「私もね、そう言う事、あんまり無理強いさせたくはないんだ。それでペパーが苦しむのは私も苦しいもの」
「…ウン」
「でも、ずっとこのままって訳にも行かないでしょ。死ぬまで永遠と恋人同士のままって、何だか許されないって言うか、出来ないような気がして」
「……事実婚とか、あるよ?」
「…でもそれって、ほとんど結婚でしょ。時間が過ぎていくたびに婚姻届とか関係なく、自然と私たちは家族になっていってしまって、緩やかにあの人を苦しめてしまうんだと思う。楽しかったのにその何もかもが重荷になって、多分辛くなっちゃう。…だからね、私はそうなる前にもう別れてしまおうと思って」
ボタンが息を呑む音がした。アオイの手も微かに震えていて、開く口は渇いている。
「いつか言おう、いつか言おうと思ってずっと言えなくて、悩んでたんだけど、…うん、ずるずる延長されるより、早い方がいいよね。来週辺りに会うから、その時に伝えようかな」
「ペ、ペパーは、それを、のっ、望んでんの?」
「…ペパーが、と言うより、私がペパーの重荷として記憶に残りたくないだけ。ペパーの事が好きだから、私の事は綺麗なままで覚えていてほしい」
アオイの強い言葉にボタンは何も言えなくなった。ただ俯いて『そっか…』と返事を絞り出す。どこか気まずそうなボタンに半笑いで『ごめん』と謝罪を入れ、アオイは立ち上がった。その時に少しだけ、鼻を啜ってしまったのは聞こえていなかっただろうか。声が震えてしまうのをちゃんと誤魔化せていただろうか。震える手をそっと抑え、アオイは休憩室を出た。
仕事を終え、席を立ったアオイは仕事仲間たちに挨拶をしてオフィスを出る。スマホからメッセージを送り、今から出ますと言えば返事が来た。
仕事中にふと、息抜きでスマホを眺めていた時、ペパーからメッセージが来たのだ。『仕事終わったらどっか食事行こうぜ』という誘いに、断る理由もなかったアオイは二つ返事で頷く。あんな決意をした後でもペパーとの時間は過ごしたいもので、楽しみな気持ちは抑えられない。仕事終わりで疲労が溜まっているはずなのに、アオイの足取りは軽やかだった。
ポケモンリーグ本部を出て、テーブルシティに降りる。その大きな洞穴の様な入り口の前でペパーは待っており、呑気にスマホロトムを眺めていた。
「ペパー!」
「アオイ」
名前を呼べば、名前を呼び返してくれる。そんな何気ない事が嬉しかった。彼の低音で名前を呼ばれるのがとてもこそばゆく、幸せだった。アオイは嬉しくて自然と笑顔になる。そんな彼女を見てペパーは目を細めた。
「仕事お疲れちゃん」
「ペパーこそ、突然どうしたの?」
「何だよ。愛しの彼女と食事しちゃダメか?」
「ダメじゃないけど、突然連絡くれるなんて珍しいなって。いつも事前に予定立ててくれるじゃん」
「良いだろ。そんな時もあんだよ〜」
おどけた様に言うペパーに釣られ、アオイもクスクスと笑う。頭上にあるペパーの顔を見上げ、アオイは首を傾げた。
「ねー、何食べるの?」
「あー…決めてなかった」
「え、珍しいね。ペパーて、こう言うのは割としっかり決めてくるのに」
「いやぁ、…はは…アオイは何が食いたいとかあるか?」
「まあ、食べたいって言うか…お酒飲みたいかな」
「じゃあアヒージョだ。食える所行こうぜ。テーブルシティは色々あるし、何でもうめぇからな」
「ね!」
ペパーに連れられ、二人は店に入る。店内満員だった様で彼女達はテラス席に案内された。ウエイターが持って来たメニュー表に目を通し、ペパーがちゃちゃっと注文をする。オーダーを聞いたウエイターはメニューを回収し、店内へと去っていった。
「何か外食久々だなぁ。楽しみだね!」
「ん?あ、ああ」
アオイは少しだけ気になっていた。先程から時たま、ペパーの反応が芳しくない事に。何かを考えているのか、悩んでいるのか、いつもより目が泳いでいるのだ。何か隠し事をしているのか、アオイは素直に尋ねる。
「ねぇ、ペパーどうしたの?」
「は?何が?」
「何か、落ち着きないよ?」
「え?まさか」
「…ペパーのその態度って、私を突然食事に誘った事と関係ある?無計画で」
アオイの言葉にペパーは黙った。その間にアヒージョとワインが運ばれて来て、ウエイターの手によってグラスに注がれる。彼が立ち去った後、とりあえずと言ってグラスを持ち上げた彼女に反応し、二人で乾杯とグラスを合わせた。
アルコールのジンとした感覚が広がっていく。疲れた体にどこまでも染み渡って、何だかおかしくなってしまいそうだった。ペパーはワインを一口口に含み、飲み込むとアオイから目線を逸らす。そして少し迷った様子を見せ、おずおずと口を開いた。
「オマエ、俺と別れんの?」
「…話横流しされるかなぁとは思ったけどまさかこんな早いとは」
遅かれ早かれ、話は本人に流れてしまうとは思っていたが、即日な上に早すぎるリークにアオイも呆れた。ボタンだろうがネモだろうが、誰に話そうがその人がペパーと繋がっている以上は筒抜けで、秘密には出来ないのだろう。ペパーは眉を下げ、アオイを真っ直ぐ見つめた。
「別れんのかよ、俺と」
「…あー、まあ、うん」
「何で」
「……ペパーの、良い思い出になりたいから?」
「何でだよ」
「結婚とか、子供とか、愛情とか、色んなものに悩んでるペパーのためを思って?」
「だから何で?」
「え、…な、何でって…」
「アオイは俺と離れたいのかよ。嫌いになった訳?」
「嫌いとか、そう言うのじゃなくてね、……ペパーはさ、結婚に踏み切らないじゃん。結婚って怖いなみたいなさ、そう言う話、何回もしたじゃん。でもね、私も普通の女だから、普通に結婚とか、そう言うの憧れちゃうんだよ。…結婚したくないペパーと、結婚したい私じゃ、もう今後やっていけない様な気がして」
「…それは、そうかもしれねぇけど」
言うつもりのなかった言葉まで飛び出してしまう。そんな自分が嫌で、アオイは顔を手で覆った。
「はぁ…最悪…」
「っ…悪い」
「あー、ペパーの事じゃなくて、自己嫌悪してるだけ」
そう呟いて再び、アオイは大きな溜息を吐いた。ペパーに対しての嫌味や悪意はなく、ただ自分の行動や言葉にさえ自制が効かなかった自らへの呆れとして溢れ出たものだった。しかしペパーは眉を下げ、頬を掻く。そして少し気まずそうに咳払いをした。
「…いや、まあ、うん……アオイ、その……」
ペパーは言葉を言い淀む。モニョモニョと吃る彼を促す様に首を傾げれば、ペパーは俯いた。すぅと深く呼吸をし、ゴソゴソとズボンのポケットから何かを取り出した。
「これ…」
「…え、これって……」
テーブルの上に置かれたのは小さな箱だった。ペパーの片手にすっぽりと収まるそれは非常に高級感があった。この単純で、しかし特徴的な箱の正体がアオイにわからないはずもなく、彼女は動きをピタリと止める。親指でパカリと蓋を開けて中を覗けば、何となく察してしまった正体が視覚に表れて戸惑う。
「ゆび、わ?だよね?」
「まあ、うん…そうだな」
「なんで、今?」
「…だって」
「別れるって言ったから?…仕方なく出したって事?」
弁明しようと口を開くペパーだったが、アオイに遮られた。怒りか悲しみか、彼女の手は震えていた。
「嬉しくない…そんな、タイミングでこんな物出されて、嬉しい訳ないでしょ…。仕方なくプロポーズされて結婚とか、嬉しくないよぉ…」
俯くアオイの声はひどく小さかった。顔を覗き込むと彼女は涙を流しており、ポタポタとテーブルに落ちて行く。静かに啜り泣くアオイを見てペパーは顔色を変えた。
「えっ、あ、アオイ!」
「酷いよ…何で今言うの…?私はどんな気持ちで貴方の言葉を聞けば良い…?こんな事されたってただ惨めなだけじゃない…!」
「ちょっ、ちょっと待ってくれアオイ!」
「何の言葉も聞きたくない…!もう帰る!」
勢い良く立ち上がって帰ろうとするアオイの手を掴む。その手から逃れようと手を引き、身を捩るも成人した男の力には勝てなかった。
「…こうなるだろうなと思って本当は家で話したかったんだけどな…明日買い出しに行こうと思ってて今は冷蔵庫に使える食材なくてよ」
「離してよ!今ペパーと話したくない!」
「…アオイ、座ってくれ。頼むよ」
ペパーの懇願にアオイは渋々従う。鼻を啜り、溢れ出る涙を手で拭う彼女にティッシュを差し出せば、アオイはチラリとペパーを見てティッシュを一枚取る。
「…結婚が怖いって言うか、家族を持つ事が怖いって気持ちは正直、今もそんなに変わんねぇ。俺には家族の愛情とかそう言うもんが分かんねぇし、もし子供が産まれた時、ちゃんとした親になれるかも不安でしょうがねぇよ」
「だからもう良いって…」
「でもそう言う不安とか考えた上で、それ以上にアオイと一緒にいたいんだよ。だからずっと考えてたんだ。結婚とかどうすれば良いんだろうって色々調べて、指輪を買ってみた。でもどう渡すべきか分かんなくて結局後回しにしてアオイ泣かせちまった訳だけどな…」
「……ペパーに結婚の意思はあるって事?」
「あるよ。本当は子供だって憧れる。マフィティフとは違う、大切な家族が欲しい。ただ不安で怖いだけなんだよ。もし子供が出来て、俺も父ちゃんみたいに子供に寂しい思いさせちまうのかなとか、子供の事を正しく愛してやれんのかなとか、俺には家族の普通とか普通の愛情とかあんまピンと来ねぇし、どうしても踏み切れなくて」
涙でぐちゃぐちゃの顔を拭き、アオイは息を整える。気分が落ち着いて彼女は顔を上げた。そして鼻の詰まった涙声でペパーに言葉を掛ける。
「…ペパーは、愛情とか愛する事とか分かんないし難しいなって言うけど、私はそうは思わないな」
「どうして…そう思うんだ」
「だって愛が分からないならさ、私をこんなに大切に丁寧に、深く想ってくれたりはしないでしょう?貴方はちゃんと上手に人を愛せてる。それが私に対して出来るなら、私と貴方の子供に対しても問題無く愛してあげられると思うんだよね」
「……分かんねぇけど」
「ペパーはいつもそうだよ。分かんないな、怖いなって予防線ばっかり張るの。…結婚して妻として上手くいくかどうかとか、親として子供を育てられるかどうかとか、私だって分からないし不安だから。一度もやった事ないもん。ペパーと同じだよ」
「……した事あったら困るけど…」
「そうやって周りは見ようとしないし、自分の殻に閉じ籠ろうとする所は本当に良くない。現にさっきから言ってる事全部、もう既に何度もペパーに言ってるけど殆ど覚えてないでしょ?一度ダメって思い込んだら私の言葉さえ笑ってあしらって、話の一つも聞いてくれない」
「…ごめん」
「謝った所で多分直んないから許さない」
子供みたいな不機嫌そうな顔をしてアオイは彼を睨んだ。蛇の様な視線にペパーは思わず目を逸らす。気まずそうな彼にアオイは小さく息を吐いた。
「はー…本当、最悪なんだけど。ねぇ、テーブルシティの真ん中でさぁ、お店のテラス席でこんな泣いちゃって目、腫らしちゃったんだけど。みっともないなぁ」
「………気が利かなくてすみません…」
「いつもは何かと気が利くのにね」
そう返されてペパーはシュンと元気を失くす。溜息を吐き、リングケースを指の腹で撫でたアオイはペパーを見て口角を上げた。
「ちょっとだけ揶揄いすぎちゃった?」
「…なんか、ごめんな……」
「…ふふ、そんなに暗い顔しないでよ。不満はあるけど全部言ったし、もうそんなに怒ってないよ」
「うん……」
「それより私さぁ、ペパーにちゃんと言ってほしいな。貴方の言葉で…ちゃんと、聞きたい」
ゆっくりと発した言葉には一文字ごとに重みがあった。アオイはただひたすらにからの言葉を求めていて、ペパーの背に期待がのし掛かる。グッと喉を鳴らし、唾を飲み込んだペパーは立ち上がった。そしてアオイの隣に膝を突き、リングケースを手に取る。
「遅くなってごめん」
「うん」
「待たせてごめん」
「ホントだよ」
「不安にさせて本当にごめん」
「うん…」
「アオイの事が大好きで、本当に大切なんだ。結婚とか色々な事、正直言って怖いけど、アオイが俺の側からいなくなるよりよっぽどマシだよ」
「……うん」
「だから俺と家族になって欲しい。結婚してください」
ペパーの優しい声で紡がれるその言葉に、アオイは静かに頷いた。ただ一言、『はい』と返し、表情を緩める。
「…せっかくだしもっとカッコいい感じで渡したかったな…。今の俺、超激ダサちゃん?」
「うん。めちゃくちゃダサい」
「だよな〜」
「まあ、別に良いよ。案外カッコ悪いのがペパーだし。私知ってるもん」
「…否定ができねーな」
アオイに揶揄われながらペパーは彼女の柔らかな手を取る。そしてその薬指にシンプルなリングを通した。それは途中でつっかえる事も緩すぎる事もなく綺麗に嵌まる。キラキラと輝く指輪を見つめてアオイは頬を染めた。
「ふふ、嬉しい」
「アオイが嬉しそうで良かった」
「どう?似合ってる?可愛い?」
「よくお似合いだぜ、かわいこちゃん」
指輪をつけて嬉しそうな彼女を横目にペパーももう一つのリングを指に通す。彼の太い指に嵌まるアオイよりも大きなリングは薄暗い空の下、ランタンの淡い光を受けてキラキラと光っていた。
「…とりあえず安心だな」
「何が?」
「色々だよ」
「よく分かんなけど良かったね」
「良かった。これで安心してディナー出来るな」
そう言いながらペパーは笑って席に着く。二人のやり取りが終わった瞬間、辺りに響いたのは大きすぎる歓声と鬱陶しいくらいの野次であった。
「…そうだよな…ここめちゃめちゃ外だしな…」
「あはー…目立っちゃったね〜」
『おめでとう』、『幸せになれよ』と言った祝福の言葉と、そして自分の店を持ちながら動画サイトでも料理動画を投稿し、安定の人気を得てい
るペパーを見て『あれ、ペパーくんじゃない?』と指差す若い女性の声。ただ料理を待っているだけの二人のテーブルの周りは一気に騒がしくなり、最早食事どころではなくなった。
この騒ぎの収拾の仕方が分からず、二人は真ん中で困り果てる。その後、二人のプロポーズを見て気分が良くなった見知らぬ男により、食事代は何故か支払われたのだった。