そのニュースを見た時、口に入れていた珈琲を思い切り吹き出しそうになった。それを阻止するために勢い良く飲み込むと珈琲は喉の変なところへ入り込む。そのおかげで咳をしてむせ返っていると、急な騒がしさに顔を上げた先輩達が口々に心配の言葉を掛ける。だけど俺はそれどころでは全然なかった。
「…どういう事だこれはっ………!」
周りに人がいる事も気にせず呟く独り言。不審すぎる俺に先輩達は顔を曇らせる。いや、もう恥も外聞も今の俺には関係なんて微塵も無い。まさか夜久が現地の男子バレー選手と付き合っているなんて情報を見てしまうだなんて。
「おかしい…!」
今は大分遠距離だけど夜久は俺と付き合ってるはずだろって、間違いないはずだけれど。カメラロールやらカレンダーを漁って確認しても、それはどう見ても付き合ってるだろう距離感のものばかり。いや、絶対間違ってない。別に別れようとも言われてないし。
多分、報道が何かの間違いなのだろう。またゴシップで有名な雑誌が適当を連ねているに違いない。そうでなければ自分の鞄に仕舞われた指輪はどうなってしまうのか。
最低でも三十まで現役だと言っていた夜久が、二年ほど前にした膝の怪我と身体の不調を理由に今シーズン限りで引退を決めて。その引退したタイミングで渡そうと思っていた渾身のエンゲージリングは絶対無駄なんかじゃないよな。確信を持ちたいのに、何故だか無性に不安になってしまって気持ちが揺らぐ。
仕事中、今は仕事中なんだけれども。もう今の心持ちじゃあ仕事になんか一切集中出来るはずもなくて。俺は勢い良く立ち上がる。俺の急な行動に先輩達は肩をビクンと飛び上がらせ、不審なものを見る様な目でこちらを見た。不審なものというか実際に不審ではあるのだが。
「すみません!体調悪いのでトイレ行ってきます!」
どう考えても体調なんて悪くなさそうな勢いでそう言って、誰の許可も得ないまま席を立つ。その勢いに蹴落とされ、何も言えなかった先輩達も俺に面食らったまま小さな声で『絶対元気だろ…』と呟いていたけれど、相手にする余裕なんてなかった。
トイレ…には行かずに人気の無い暗い廊下でスマホを弄る。それから夜久の番号に着信を入れた。複数回のコールでも出る事はなく、俺は一度電話を切る。その間に心に堆積し続けるのは焦燥で、もう気が気ではなかった。
俺は再度電話を掛ける。もう電話が繋がるまでデスクには戻らないつもりだし、一生粘り続けてやる。その意気でコールを鳴らし続けていると電話は案外早く繋がった。コール音が突然止んで、『もしもし黒尾?』と可愛らしい声が聞こえる。俺は彼女の言葉に半ば食い気味で捲し立てた。
「ロシアの男の付き合ってるって嘘だよな!?」
『あ?』
「俺と付き合ってるだろ!?そうだろ!?わざわざ確認する事でもないと思うけどさ!」
『いや、え、…あたし、いや、黒尾とはもう終わったじゃん』
その発言を聞いて俺は膝から崩れ落ちた。本当にお手本の様な崩れ落ち方をして廊下に座り込む。は?夜久は今なんて?
理解は出来ないし言葉も出ない。ただ辛うじて『え…?』とだけ言って夜久に対して聞き返す事が出来た。
『えってそのままの意味ですけど。あたしたち終わったじゃん』
「いつ!?いつだよ!?終わってねぇだろ!?は!?何だよ!?終わってねぇよ!?」
『いや、分かんないけど…自然消滅だと思ってるし』
「はぁ!?何がきっかけで!?自然消滅!?俺はずっと付き合ってるつもりでしたけど!?」
『いや、何となく、帰国してもそんな会わなくなって』
「………っオリンピック時期のとんでも繁忙期からっ……!」
その一年は本当に一生忙しくて。もう誰に構っている暇すらなかった。忙しすぎて休日はもう寝て過ごすし、有給だって取るのが難しい。しかも確かに夜久からの誘いを何度も断っていた様な気がするのだ。多分ラインを漁れば履歴が見れると思うけれど。
いや、しょうがないとは言え、勘違いされる気持ちも分かってしまって。否定だって出来ないから俺はみっともなく『別れてねぇよぉ…』と嘆く事しか出来なかった。
『………あちゃー…ごめん』
「ソイツとは何で付き合ってんの?好きなのか?」
『いや、なんか流れで。告白とかされてないけどキスもするしデートもしたし?ソイツに聞いたらなんか付き合ってるっぽい』
「そんな雑なの!?良いのかよそれで!」
『いや、黒尾と終わったからいっかと思って。告白の文化って割と日本独自らしいよ〜?海外は何も言わないんだって〜』
「終わってねーし!知らねーし!」
それじゃあどうしてと頭の中を駆け巡る疑問。心に溜めきれずに勢いよく吐き出す。
「じゃあ何でお前その後俺がご飯とか誘ったら来てくれたんだよ!?思わせぶりか!?」
『いや、普通に友達として食事したいのかなって』
「元カノと別れたばっかで食事に誘う野郎は全員もれなく下半身で生きてるやつだよ!!クソ!!つかだからうち泊まってくかって誘っても毎回断られてたのかよ」
『え、そうなんだ…だからか。…関係解消したくせに家だのホテルだの誘ってくるからコイツマジナメてんのかって半分嫌いになってた。ごめん』
「はぁ!?そんな事する訳ねぇだろがよ!?」
衝撃の認識をされていた事に俺は頭が痛くなる。てかそう思っていながらも何回も食事に来た夜久も大概だけどな、とは言えず。歯を食いしばり、両手から自然と零れ落ちていく涙がズボンを濡らした。
『泣いてんのお前』
「…っぐ…ひぐ……泣くしかないだろ、…うぅ』
『うーん…そっか…じゃああたし二股してる事になるか……』
「いや、…俺も悪かった、と、思うけどさぁ〜!大谷だって、タイトなスケジュールで生きてるのに結婚するるしさ〜…!そりゃ忙しさにかまけて連絡しなかった俺が悪いよ〜!でもそんな簡単に見切らなくてもいいじゃんかよ〜!」
『確かにあのスケジュール感で結婚した大谷と比べたらお前ダメだなとはなる』
「…っそれにさぁ、折角引退に合わせてプロポーズしようと思って指輪まで買ったのにっ!」
『…マジかぁ』
「お守りみたいに毎日カバンに入れて持ち歩いてんだぞ!」
『…指輪を?なんで?』
「もうアラサーなのに俺を一人にするなよぉ!華の二十代の大部分の時間貰っといてさぁ…!」
『それは女の方が言うセリフだろ。男で聞いた事ないわ』
もう俺は所構わず大泣きで夜久に縋り付く。大の大人が電話越しに泣き縋る様子はあまりにも異常で、ちょっと人だかりが出来ているけれど。プロポーズのシチュエーションを何個も考えて、それぞれシミュレーションまでしっかりと終わらせている相手から急に突き放す事を言われてマトモではいられなかった。
『…あー…うーん……二股、ねぇ、二股。うーん…どうすべきかなぁ』
「……なぁ、夜久」
『ん?』
「俺、高学歴高収入なんだぜ?」
『あ、うん。知ってる』
「清潔感あってイケメンでお洒落で家事も出来るぞ?」
『あ、そう…』
「あとロシアって暴力は愛情みたいな思想が強くてDV多いらしいな」
『………………おわぁ…』
自分の事をどれだけ並べても、最終的に響いたのは最後の言葉の様で俺はちょっとだけ傷付く。いくらスポーツ選手で体力も筋力もあるとは言え、男には勝てないと言う事を彼女はしっかりと分かっているようだった。
『しゃーない。隠すのは不誠実だし、正直に全部話して分かってもらうか』
「ど、どっちに!?夜久ちゃんどっちに!?」
『ロシア人の方でしょ。分かれよ』
涙でべしょべしょの顔を俺はパッと上げる。『ほんと…?』と恐る恐る伺えば、夜久はまた息を吐いた。
『…一応さ、黒尾の方が好きだから選んだだけで、DVとかは全然関係ないけどさ。別にお前が良いならロシア行くよ』
「待って!!嫌です!いてください一緒に!」
『分かった分かった。分かったから泣くなよ鬱陶しいな』
泣こうがしつこく構おうが、何しようが夜久は俺の事を雑にあしらって。サバサバしているところはずっと変わらないなぁと安心感を覚える。
「夜久ちゃん俺の事好きだよね!?もう捨てないよね!?」
『好き好き。好きだよ〜』
「高学歴高収入のイケメンアラサー手前まで捕まえて急にポイしないよね!?」
『コイツマジなんなんだよ』
「引退したら結婚してこっち戻って来てくれる!?」
夜久が息を呑む音が微かに聞こえて。それから『しかたねぇなぁ』と笑った。
『いーよ。そん時にまた聞かせて、ちゃんとね』
「や、夜久〜!」
『てかお前平日だし仕事じゃねぇの?』
「すみません…彼女の熱愛報道にいてもたってもいられず…」
『はぁ!?バカじゃねぇの!?一緒に働いてる人に迷惑掛かるだろうが!ちゃんとしろバカ!』
「……すみません…」
『謝る人が違う!ご自慢の高収入が下がっても良いの!?』
「別に自慢してないですけど…」
『オラ社会人!しのごの言わず謝罪して仕事に戻る!はいダッシュ!じゃあな!』
そう電話越しに怒鳴られ、通話が切られた。夜久は相変わらず頼りになると言うか、しっかりしてると言うか。
その場に一人残された俺は涙を拭いてぬるりと立ち上がる。そんな俺を見てざわつく周囲の皆さん。我に帰ると非常に恥ずかしくて、顔から火が出そうだけどまあ、自業自得ってやつで。俺は『お騒がせしてすみませんでした』なんて頭を下げて謝罪をすると、一連の会話を全て聞いていた先輩達から逆に『おめでとう』と祝われてしまった。ちょっとだけ気が早い。