トントンと小気味良い包丁の音がする。ふんわりとクリームの良い香りが部屋を満たしている。本当は憧れていた、自分以外が発する家庭的な音にガイは心を奪われて。首元を絞めるネクタイを緩めながら、キッチンに立つ細い背中を眺めていた。
セイカは側に綺麗に並べられた調味料の入れ物をカチャカチャと触り、何かを探している様だった。瓶に貼ってあるラベルの文字を見ながら、彼女は首を捻る。
「お塩無い…?」
「あ」
そういえば塩はテーブルの上に置きっぱなしだったと思い出し。ちょっと待ってろと手を伸ばしたが。白い塩が入った小さな小瓶はふんわりと浮かび、ふよふよと空を漂ってセイカの手に収まった。
「あ、ニャオニクス?」
「みゃう」
「ありがとう、良い子ねぇ」
近付いてくるニャオニクスの顎の下を指で掻くように撫で付ける。ニャオニクスは気持ち良さそうに目を細めて喉をゴロゴロと鳴らした。
ガイは黙ってキッチンに入り、シンクの上で座り込む自分の家族を抱き上げて回収する。セイカは後ろでその様子に笑いながら、『危ないもんね〜』なんて呑気に言っていたけど。ガイの心中は穏やかではない。
「お前撫でられたいからってやろうとしてた事俺から取るなよ」
「みゃー」
「そんな顔すんな」
ムッとガイを睨むニャオニクスにガイも睨み返し。仁義なき睨み合いの末、ニャオニクスはガイの手の内を離れた。どこか呆れた様な彼は広いリビングを出ていく。大人気なく競り勝ったのはガイだった。
「仲良いね」
「仲良いのか?」
「ポケモンと小競り合えるんだよ。喧嘩するほど仲良いじゃん」
料理の手は止めずに、楽しそうに笑うセイカを見ているとガイも何だか温かな気持ちになって。彼女に釣られて顔が緩んでしまう。
「アイツもセイカの事大好きなんだよ、俺のポケモンのくせしてさ」
「ふふ、嬉しいね〜」
「…俺のポケモン達もみんなお前の事が好きだしさ、その」
「うん?」
「……………………俺も」
「何?」
「セイカの作る料理好きだし」
その先の本来口を突いて出るはずだった答えは冷静に喉の奥へ落ちていった。いや、とうに彼女の方が上手になった料理だって何も嘘ではないけれど、想定していた言葉とは違う。密かに尻込みしてその場で足踏みを繰り返すだけの彼の心情に、セイカはまるで気付かずにニコニコと上機嫌に笑う。
「それにしても、やっぱガイって不器用だからねぇ、一つの事に夢中になると寝食忘れちゃうんだから、危ないよ」
「耳が痛いな」
もう何日もパワーバーとスポドリで食事を済ませていると何でもないことの様に、あっけらかんとした様子で本人の口から聞いてしまったから。ガイをどうしても放っておけなかったセイカは自分の仕事もあって、彼女だって家に帰っていろいろやる事があるはずなのにこうして甲斐甲斐しくガイの世話を焼く。
核心的な一言も言えない男に、道を違える勇気など1ミリだって無いにせよ。異性の家に上がり込む危険性を知る良い大人でありながら、そうしているのは単に彼への心配が勝ったからだ。
「でもセイカが作りに来てくれるだろ」
「私にばっか甘えてないで!そんなんだと彼女なんて出来ないよ?」
別に欲しくないというか。セイカがなればそれで話は終わるのに。やはりそこで踏み出せないのがこの男で。いやでもだってを繰り返し、その内口を噤んだ。
「…それ言ったらセイカだって、男の家上がり込んで飯作ってるなんて誰にも言えないだろ」
「ねー、友達の事心配してるだけなのにな」
友達という言葉は嬉しくもあり、残酷でもある。明確な白線が張られ、カテゴライズされた関係性にガイは正直甘んじているところもあり。最悪これで良いかななんて思いだってあるくせに、きっとセイカに恋人が出来たら冷静ではいられない。
「まあ、これからちょっとずつ頻度は減らしてこうかなって思ってるし」
「は?なんで?」
「なんでってさっき言った事が全てだけど…」
「良くね?別に、良い人なんかいないし俺」
言葉の調子が強くなり、捲し立てる様に言葉を連ねる。ガイがどうして急に怒り始めたか分からず、セイカは言葉に詰まる。困惑訳も分からず愛想笑いを浮かべる彼女を見て、ガイは少し冷静になった。
「…ごめん」
「あ、ううん、疲れてるんだよね、社長だもんね」
この癇癪の様なものを疲れていると称されるのは、何だか自分の未だ幼い部分が際立つ様な気がして。みっともなさにこの場から消えたい気持ちになるも、何とか耐え抜く。と言ってもここはガイの家なので、消えたところで戻ってくる先もここである。
「もうすぐ鶏肉のクリーム煮出来るから」
「フリカッセだろ」
「デウロもクリーム煮って言ってるもん」
ただ言語が違うだけで、指し示すものはおおよそ同じだ。だが彼女の使う言葉はどこか幼く、素朴で。可愛い言葉だなと言えば、セイカは拗ねた様に唇を尖らせた。別に揶揄ったわけでも、面白がっているわけでもないのに。予想外の反応に、ガイも困った様に眉を下げた。
「言い方なんていいの!要するにクリームで煮込んだものなんだから」
「わ、わかったよ」
「早く食べよ」
おたまいっぱいに掬って、皿に盛る。ほかほかと湯気が立ち、自然と唾液が分泌される様な見た目と香りで。
一番欲しい温もりは、彼女が最も容易く、毎週手渡してくれる。その優しさを享受するのが当然で、正しいと思いたいのに。そうならないのは単にガイ自身の選択でしかなくて。彼が変わらない限り、二人の間はちっとも縮まらないまま付かず離れずを続けて、いつか本当に離れてしまうのだろう。