天使と熱病 終

静かに登るエレベーターの中、二人は手を繋いだまま黙っていて。意を決したセイカが顔を上げて、口を開いた。
「…あの、ガイ、ちゃんとユカリさんにお礼とか」
久方振りの二人っきりの状況で、開いた口から溢れる言葉は彼を咎める様な内容だなんてガイもきっと呆れるよなぁなんて。言ってから気付いて落ち込むセイカだったが。手を繋いだまま首を垂れて、自分の肩に頭を置くガイにセイカは身体を強張らせた。
「ひえ…!」
「…セイカ」
額をぐりぐりと肩口に押し当て、まるでチョロネコが甘えてくる様なその仕草に少し可愛いななんて思いながらも。どうすればいいか分からずに困り果てるセイカにガイは口を開く。
「ドレス似合ってる、かわいい」
「う、うん…ありがとう」
「お姫様みたいに綺麗でさ、もう、辛抱堪んねーよ」
セイカの手首を掴んでいた手は、一瞬だけその拘束を解いて、気付けばセイカの手にするりと滑り込ませる。指の間に指を入れて、ギュッと握り締めた。
「まだ何もしない。そう言うのは、ちゃんと話し合って、結ばれたらする。でも我慢出来ないからこれで凌いでる。…それくらいは許してほしいよ」
柔らかな香水の香りが鼻を掠めて、ガイはセイカの背中に手を伸ばしそうになるも。まだダメだなんて自分を自制して、顔を寄せる事で欲求を凌いで。セイカはセイカで、肩口に直に伝わるガイの体温や鼓動にひどく緊張の面持ちだった。
エレベーターのドアが開いて、ガイはセイカの手を引く。手に持ったカードキーでドアを開け、部屋の中に入った。部屋は非常に広く、とてもお洒落な様相で、窓から見えるミアレの景色は美しい。
手を引かれて部屋の中に入ったセイカは見慣れない高級感のある空間に落ち着かず、辺りを見渡していると。くすりと笑ったガイが彼女をソファーへと誘った。
「セイカ」
一足先にソファーに座り、自分の横をポンポンと叩く。おそるおそる、隣に腰掛ければガイは身体ごとこちらに向けて、セイカを見た。
「………まずは、その、…ごめん」
頭を下げる彼にセイカは少し驚いて身体を強張らせる。ガイの名前を呼んで、彼の肩に少し触れるとガイは顔を上げた。
「…無意識の内にお前を酷く苦しめていた事、セイカの中にトラウマを作ってしまった事、これまで俺の行動全部、ごめんなさい。セイカに強迫観念植えて、お前の事ずっと縛り付けてたとは…思ってなかった。そんな自覚はなかった。…そんなの、加害者の言い訳でしかないけどさ…ごめん」
「……うん、そう、だね」
セイカは否定しなかった。それは紛れもなく事実であり、彼女が苦しんだ過去はどうしたって無くならない。心に付けられた深い傷も、もしもを考えて過去を後悔して、嘔吐してしまいそうなくらい体調が悪くなってしまう事だって、現在進行形で変わらない。
「…でもね、私も悪いんだ、ガイだけじゃないんだよ」
「…どうして?」
「だってミアレを離れたのも、ガイに対しての振る舞いも、私が選んだ事全部、結局最後は私が自分で選択した事でしかなくて、そうするかどうかまで、ガイは強いていなかったし、自由だった。私次第でどうにでもなったはずなんだよ」
そんな事ないと言いたくて。でもここでまた彼女の言葉を遮って否定するのはいけない様な気がして、ガイは黙った。
「それをね、全部ガイのせいって責任押し付けて、…本当はこれまでの事全部、自業自得でしかないって事なんかとっくに分かってて…ずっと目を逸らしてたんだ」
「それでも、俺がセイカを傷付けた事実は変わらないよ」
「うん、でも私が自分の事しか考えてなかったのだって、ガイの事実と同じくらい変わらない」
セイカは少し俯いて、目を瞑る。それから静かに息を吸って、吐いた。話すたびに熱くなっていく瞼と、上がる体温を冷ますために深呼吸をした。
「だから、ごめんなさい。私がガイの言葉を拒絶してガイを傷付けた事、そのくせその場で振らなかったどっち付かずな態度、あなたを困らせてしまった事全部、本当にごめん」
震える声で謝罪を述べる。ガイも泣きそうになって、ツンと少し痛む鼻を鳴らした。
「…あんな態度取ったのに今回この場に乗り込んだのだって都合が良すぎると思うし、他の人達にすごく失礼だし、謝っても許さない人だって出て来てもおかしくないと思う。狡いって言われたら、否定出来ない」
「……ユカリが直々に誘いに来たんだから、そんな事言う奴いねぇよ」
「実際、あの場にいた人達はちゃんとガイを見ていて正面から向き合ってたから、…私、少しだけ気後れした。自分から来たのに帰りたくて仕方なかった。手も足もぶるぶるだったよ」
堂々とあの場に立ち、ポケモン達に指示を出していた彼女の身体は実の所震えていて。ガイはずっとセイカだけを見ていたけれど、二人の間には程々に距離があって、そこまで気付く事は出来なかった。もしあの時、彼女があらゆる重圧に堪えかねて去っていたら、きっと自分達の関係は終わっていたのだろうとお互いに思った。
「けど、私、それ以外にガイが誰かに取られちゃうの、すごくやだった」
セイカの言葉を聞いてガイは目を見開く。瞬きをして、真っ直ぐとその目で彼女を見つめた。セイカはその視線を受け、少し照れ臭そうにしつつも、話し続ける。
「わたしも、ガイが他の人と結婚するとこ想像して、やだなって思った。友人として、結婚式とかに参列してって想像したら、すごく苦しくて」
「うん」
「多分、私今度こそおかしくなっちゃうなって思った。…そんなの、もうその状況ならガイには関係ない事だけど」
「…仮に、そうなったとしても俺はセイカの事が心配だ」
「…うん。……私が、勝手なのは分かってる。私は散々他の人と付き合って、色んな男の人と会ってたのにそんな我儘言う筋合いないなって思うけど、…忘れようとしても、ガイの事、どうしても忘れられなかった。また思い出して、…わたし…他の人に取られたくないなって、思ったよ」
自分が傷付けて、一度は終わってしまったと絶望した感情に、また火が点いて。緩やかに、煌々と高く燃え盛っていくのが分かる。セイカに恐る恐る手を伸ばせば、セイカもその手を取って両手で包み込んだ。その手は擽ったくて、優しくて温かい。
「ねえガイ」
「なに」
「まだ間に合う…?」
ガイの手を包むセイカの手を上から包み込んで、自分の方へ引いた。『わぁ』と驚いた声を上げてよろけるも、ガイが肩に触れて支えた。顔を上げたセイカを見下ろし、覗き込んだガイは溶け落ちそうな程に潤んだ目を細める。
「当たり前だろ!」
「…よかったぁ」
「ずっと待つつもりだったんだよ、俺は!三千年掛かっても、それ以上でも」
「AZさんみたいに?」
「そうだよ!」
赤らんだ彼の頬を優しくなぞり、セットされた前髪を指で少し払えば。こんな時に遊ぶなよなんて擽ったそうに笑って、セイカの額に自分の額を合わせた。
「好きだ」
「うん」
「セイカは?」
セイカは呼吸をする。ゆっくりと胸を膨らませて、静かに息を吐いて。それからちゃんとガイと目を合わせる。
「私もガイの事が好き」
その言葉を受けて安堵の溜息を吐く。それから脱力した様な表情で『はは…』と笑い、そのままセイカを自分の腕の中に閉じ込めた。
背中に回されるガイの手の温かな温度を感じて、それだけで満たされた気持ちになって。空いていた子供一人分くらいの距離をサッと詰める。そして彼女もガイの背に手を回して、肩に顎を乗せた。セイカのその行動を受けて、ガイもより一層抱き締める力を強くする。
空っぽだったコップが満たされて、表面張力すら無視して溢れていく様に。押さえ付けていた想いがとめどなく溢れていって。それが涙となって頬を伝い、綺麗に載せた上品な色のチークを薄らと流していく。
「セイカ」
「…っごめんなさい」
ガイの肩に手を乗せて、その手の甲の上に自分の目を乗せる。そうしてガイのスーツに涙で流れたメイクがつかない様にして、止めようとしても止まらない涙を流した。ガイの背に回された片方の手は彼のスーツのジャケットを遠慮がちに掴んで、少しずつ引き伸ばしていく。
それが可愛くて、歯を噛み締めながら悶えつつも震える背中を優しく撫でながら。あやす様にゆらゆらと身体を揺らしていたら、『もうガイ』と弱々しい小さな声で、少し笑いながら名前を呼んだ。
「…あは、落ち着いた。ごめん、泣いて」
「ハンカチいる?」
「いい。…ガイの持ち物全部高そうだから汚すのいや」
「ハンカチくらい、いいよ」
そう言いつつ首を振るセイカは、先程まで自分が顔を寄せていたガイの肩ばかり見ている。自分のファンデーションやアイシャドウで汚れていないか確認しているけれど、別にスーツ一つ汚れたところでガイは特に気にしない。そもそもセイカになら一張羅をズタズタにされても怒る気にはなれないように思う。
ガイがセイカをマジマジと見つめて可愛いなぁとニヤニヤしていると。セイカは顔を背けて、手で隠した。
「メイク泣いてぐちゃぐちゃかもだからあんまり見ないで」
「そうか?可愛いままだけど」
「そういうのいい」
恥ずかしそうに顔を赤らめて、眉を顰める彼女はどうにも褒められ慣れていない様に思えて。元彼にはあまり言われていなかったのだろうと過去の男を腹立たしく思うも、結局、彼女はもう自分の手中にあるから関係ないとほくそ笑む。セイカの頬に手を寄せたガイは頬を優しく抓って、それから顔を両手で包み込んだ。
「可愛いよ、ミアレで一番…んー、ちょっと範囲狭い?宇宙で良いか。宇宙で一番可愛いよ」
「そんな適当な評価?」
「ま、どんな規模であれ、セイカがとびきり可愛い事実は揺るがないぜ」
顔を両手で押さえ込まれて逸らす事は出来なくて。ガイのとびきり優しい、見た事もない様な笑顔を真正面から浴びて目を丸くしたセイカはすぐに完全に照れた表情を見せて、口を噤む。
「今度からはちゃんと全部伝えるよ、俺の事。何を思ってて、何を望んでるのか。その上でちゃんと話し合おう」
「………うん、私も隠さない様にする、なるべく」
「なるべくなのか?」
「恥ずかしいから全部は言わない」
拗ねた様な顔が可愛くて、肩を抱いて耳元で『かわいいな』と囁くと。セイカは弱々しい力でガイの肩を押し返す。それは全くもって抵抗する気のなさそうな可愛らしい力だった。
「…今までが口下手すぎた…よな、俺」
「うん、昔からそう。言葉が足りない」
「…耳が痛い」
「可愛いとか、そう言う人を褒める言葉はすぐに言えるくせに自分の事は全然話してくれない。その自覚はあったの?」
「…どう、なんだろうな。俺なりに伝えてるつもりではあったけど、それでも足りなかったんだろ?だから今回こうなったって事じゃんか」
「……ふふ、自覚出来て何より」
セイカはクスクスと笑ってガイの頭を撫でる。ガイは困った様に眉を下げつつも、黙ってその手を受け入れていた。
「ほんと、まだ取り返せる段階でよかったよ。気付くのが遅かったらもうどうにもならないところまでいってたかもしれねぇし」
「でもそれで言ったら、まあ、私も我慢して黙ってたのは同じだから、私も気を付けるね」
「気を付けような、お互いな」
顔を見合わせて安心した様に笑い合った。ガイがまたセイカを片手で抱き寄せて胸に収めると、セイカも彼に委ねる様に身体を預ける。突然セイカから積極的に甘えられてドキリとすれば、現在胸に耳を当てる形になっている彼女に急に心音が跳ね上がった事が全部バレてしまったようだ。セイカは『あは』と吹き出した。
「びっくりした?緊張してる?」
「………してない」
「してるでしょ。あはは、ふふ、良い気味〜。ガイが私で困ってたりするの見るとこんなに気分良いんだ〜」
「性格悪いぜ、セイカ」
「えー、やだった?」
嫌だと言われれば、別に嫌ではないというか。ただ、可愛くてドキドキして心を乱されてる感じは少し腹立たしくもあって複雑ではある。セイカの手玉にまんまと取られてしまっている様な感覚が不満ではあるけれど、小首を傾げて上目遣いで伺う彼女は最上級に可愛らしいので、もうどうでも良くなった。だがこれだけはどうしても言っておきたくて、唇を尖らせながら彼女を見る。
「そう言う言動、今後は俺にだけな」
「…?わかった〜」
「全く分かってないだろお前」
この言動が全て特に意識をして取られたものではないと言う事が、今はっきりと分かってしまった。それはそれで、というかその方が幾分もタチが悪い様な気がしてならなくて。今後の行く末を少し案じてしまう。こんな調子ではきっと、今までも自分の様な男が寄って来まくっていたのだろうなと言うのは想像に難くない。
「……はぁ、まあいいや」
「…?機嫌悪くない?」
「悪くない」
少し声の低くなったガイの機嫌を伺う様に顔を覗き込む。そんな彼女の首元を彼は優しく撫でた。
「そんな事は良いんだよ。とりあえず、セイカは恋愛目的で会った男の連絡先は全削除で。もう俺だけの彼女だし」
「あ、うん、分かった」
「それから、そう言う目的で使ってるアプリとかあればちゃんと退会しろよ」
「分かったー」
その場でスマホを操作し、パパッとガイの指示を遂行してみせれば。眉間に寄っていた皺がスッと消えて柔らかな表情となる。
「これで良い?」
「これで良し!」
「ふふ、良かった」
にこりと口角を上げるセイカにガイも笑い返す。とはいえ、内心は少し驚いていた。あまりにもすんなりと全てSNSやメッセージアプリから連絡先を消して、マッチングアプリもさっさと退会してしまうあっさりさに、そう指示したガイが面食らっていた。結局セイカにとっては誰も彼もが本気ではなかったのだろうと、これまでの男に同情もするし。自分が一番なのだと思わせてくれるその行動に、ガイは優越感と嬉しさを覚えていた。
「…なんか安心したら腹減って来たな」
「安心したの?緊張してた?」
「してたよ。このトーナメントにわざわざ来て、本当にセイカは俺の事が好きって思って良いのかなって最後まで」
セイカは少し考える様に首を傾げる。それからおずおずとガイに聞いた。
「…因みに今回のトーナメントってさ、ガイも同意の上で開かれてる…の?」
「まさか。アイツが勝手にエンタメにして勝手に楽しんでるだけ。お前は俺があんなアホみたいなイベントに同意したと思ってんのか?」
「………だって私、ガイに酷い態度取っちゃったから…やっぱり他の人がいいのかなって…思っちゃったり…」
あの時あんな事情がありながら告白したのはガイの方で。自分が追い詰めてしまったセイカが、その場で答えを出さずに一度持ち帰ったのは優しさだったのだろうとガイは思っていて、決して酷いだとか最低だとかは思っていない。むしろ悪いのは自分の方なので、答えが出るまで幾らでも待とうと言う気概でいたのだが。
ユカリに無理矢理巻き込まれて、セイカにそう思われているのはどうにも不服で。ジト目でセイカを見つめる。
「俺はユカリに勝手に巻き込まれてるだけだぜ」
「そ、そっか」
「告白したの俺だし、セイカ振る権利は俺にないだろ?セイカは俺の事告白しておいて何も言わずになかった事にするような最低だと思ってた?」
「あ、ち、違うよ!」
焦った様に否定する彼女をじーっと見つめて、ガイはその内に笑い出す。少し揶揄った事に簡単な謝罪の言葉を述べて、拗ねる様に口を閉じる彼女を抱き締めた。
「でも俺ってそんな信用ないかな…?デウロとピュールにもお前は信用ならないって言われたんだけど。いや、そりゃ俺の今までの振る舞いとかがそこに繋がってるのは分かるんだけどさ」
「まあ、…多少…は?」
「…多少ってなんだよ…」
「で、でも、今回に関しては私の態度も酷かったし、見限られても仕方ないなって思ってたから」
「何されてもセイカを見限る事はないから安心しろ」
目を伏せるセイカの頬を優しく撫でて『な?』と安心させる様に笑い掛ける。セイカも釣られて口角を上げ、にこりと笑った。
「それにしてもどうやったら信用されるんだろう」
「んー…私を蝶よりも花よりも丁重に愛でる事?とか?…あは、なんてね」
「それは勿論、ミアレで一番幸せなお姫様にしてみせるよ」
彼女の手を取って手の甲にキスを落とす。突然の行為に静止して、身を強張らせる彼女は顔を真っ赤にして固まった。対してキスを特に恥ずかしいと思っていないガイは、初心なセイカの反応に満足そうに笑って。不意に伸びをして立ち上がる。
「腹減った〜、なんか食いに行こうぜ」
「う、うん、いいけど…でも」
「何?」
「ガイの話…もっといっぱい聞きたいから、二人で、食べたいなぁ」
それはただ二人で食べたいと言っている訳ではない。本当に、周囲に誰もいない二人だけの場所で食べたいと言っているのがガイにも分かって、彼は目を丸くして、それからしょうがないなぁとも言いたげに笑った。キュッと控えめにガイの袖を握る柔らかな手が、伺う様な上目遣いが、甘えてくれるいじらしさが全部可愛くて、なんだって叶えたくなってしまう。二人で食事をするくらい難題でもなんでもなくて、彼女のためなら世界の半分すら分け与えられそうな気がしてならない。
「じゃあルームサービス頼むかな」
「ミアレの最高級ホテルのルームサービスすごそうだね」
「そうか、セイカはまだスイートルームのルームサービスを知らぇんだな」
ガイの言葉にムッと唇を尖らせる。金持ちでもなんでもない一般人のセイカが、そんな高級なものを知っているはずもなく。知らないもんとそっぽを向けば、ガイは目を細めて笑った。もうセイカが何をして、どんな反応を示しても等しくこの世で一番可愛らしく映ってしまって仕方がない。
「すげぇよ。高級レストランのコース料理顔負け」
「へー、高級レストランもあんまり行った事ないけど」
「まあ、俺と一緒にいたらゆくゆくは慣れてくるから」
将来の事を何となしにちらつかせれば。セイカは狼狽えて、赤い顔で恥ずかしがる。いつか高いものに対しての反応も、俺に対しての反応も慣れ切ってしまって冷めたものになるのだろうなと思えば、初々しい態度は貴重な事この上ない。ちゃんと覚えておこうとセイカの反応を眺め、心の中で激しく悶えながらガイは部屋の端に置いてある受話器を手に取った。
チチチと聞こえる可愛らしい囀り。ガイは外から聞こえるヤヤコマの鳴き声で目が覚めた。
目を覚まし、包まっていた掛け布団から少し肩を出すと。朝の冷気がツゥと走って身震いした。モゾモゾと温かな布団の中に潜りながら、ガイは横を探る。
「…セイカ?」
確かに隣で寝ていたはずのセイカはいなかった。横は完全にもぬけの殻で、身体を少し起こして確認してみても、ベッドにはガイ一人である。
ガイは急いで起き上がる。下に乱雑に捨てられたバスローブを手に取り、半裸の身体に羽織る。少し焦った様に、キョロキョロと見渡しながらまだ眠気の見える低い声で彼女の名前を呼んだ。
「セイカいる?」
「…あれ?ガイ、もう起きちゃったの?」
彼女は奥の方から顔を出し、首を傾げている。バスローブで身体を隠しているが、ブラジャーの肩紐がチラリと見えてしまっていて、目に毒だと思ったガイはすぐに彼女の元に駆け寄り、バスローブを丁寧に直す。
「まだ朝早いよ」
「…目覚めたらセイカがいなくて、昨日の全部夢かと思った」
心臓はまだバクバクと音を立てている。昨日、彼女と通じ合った全ての事が今の今まで全て夢で、そんな事実はなかったのかもしれないと恐ろしくなっていたところで、セイカが顔を見せて。体の力が全て抜けて、今にも膝から崩れ落ちそうなくらいの安堵を覚えた。
「ごめん、不安にさせちゃったね」
「何してんだよ、こんな早朝に」
「朝日見てた〜。見て〜、ミアレ一望出来るよ」
セイカに手を引かれて、大きな窓の外を覗き込む。丸く建物が立ち並ぶ、美しいミアレの街並みが広がっていた。一際高いプリズムタワーの下から大きな朝日がゆっくりと昇っていく様をガイは目を細めて眺める。出窓の下のスペースに腰を下ろすセイカの手を握れば、彼女もそれに答える様に握り返した。
「ミアレの朝って凄く綺麗なんだよ。偶に、ホテルいた時はガイと一緒にお茶しながら見たよね」
「ああ、偶にな、あったな」
「私、この景色大好きなんだ。キラキラしててなんか宝石箱みたいで綺麗だよね」
朝靄を割く様に差し込む光は、湿った道路を濡らし、キラキラと輝かせて。宝石箱みたいだと言った理由もよく分かる。ガイも同意する様に頷けば、セイカは嬉しそうに破顔した。
「また、ガイと一緒にこの景色見れるの嬉しいな」
「そっか」
「幸せだねぇ」
ガイの指に、指を絡ませて、しっかりと手を繋ぐ。ガイはミアレの街並みからセイカへ目を向けた。
バスローブと薄っぺらな下着一枚で守られた無防備な彼女が隣で笑っている。昇り行く朝日に当てられ、ぼんやりと輪郭が薄れる彼女は本物の天使の様で、儚くて美しい。
(ああ、これが幸せってやつなんだな)
最上級の満ち足りた感覚を、今まで感じた事ない訳ではないけれど。今日の様に明確に、はっきりと頭頂部から爪先まで満たされたのは初めてで。何故だか泣きそうになったガイは彼女との距離を詰めて抱き締めた。
「…セイカ」
「なに?」
「やっぱ一緒に暮らそう、俺、ずっとセイカと一緒がいい」
「…んー…まだいいかな、私は」
「……なんでだよ、俺の家の方がセイカの家の何倍もデカいのに」
「そりゃ社長と平社員は生活のレベル違うでしょ。家のデカさで決めませーん。私はまだあそこで暮らしたいから暮らしまーす」
まんまと振られて、釣れない彼女に眉を顰めて。不機嫌そうな顔で彼女を揺さぶれば、楽しそうに笑う声が聞こえた。
「またいつかね、あなたが私を大切に最優先にお姫様扱いしてくれるんだなって分かったら、一緒に住んであげるかも」
「…また信用問題か。セイカも俺の事信用してねぇんだ」
「さぁ、どうでしょ」
悪戯を企む子供の様にニヤリと笑って。首を傾げて曖昧な言葉を返せば、ガイは困った様な表情をして。少し傷付いた様な反応を見せる。元はと言えば自業自得でしかないのだが、いざ自分が信用されていない事を突き付けられると、それはそれで普通に傷付いてしまう。
「…俺これからすげぇ頑張るよ。セイカと、ピュールとデウロにとりあえず認めてもらえる様に。俺お前の知らないところでデウロに死ぬ程詰められたからな」
「もしかして私がデウロにしてた話とか相談とか、ピュールとガイの元にもいってるの?」
「まあ、大まかな事は」
「…え、全部横流しにされてたの?話…もー、デウロぉ…」
セイカは苦笑いで額を押さえる。とは言え、セイカもデウロやピュールには相談や愚痴や泣き言を散々聞いてもらって助けられていたので。それを差し引けば話の横流しなど可愛いものだし、二人が自分のために暗躍してくれていたのも何となく分かって、セイカは責める気にはなれなかった。
仕方ないなぁと笑って全部許して。何なら今度デウロにお礼を伝えようかと思った。
「…ちゃんと二人に報告しないとね」
「そうだな。今度デウロがこっち戻ってきたら俺ん家でホームパーティだな」
「ガイ料理作るの?」
「久々に頑張ってもいいな。セイカも準備手伝ってくれよ。俺達二人が報告して二人をもてなすんだからな」
「分かってるよ。…今のガイと私、どっちが料理上手かな?私結構自炊するんだよ?」
セイカは得意げに口角を上げる。『えっへん』と可愛らしく威張って顎を上げる仕草に、ガイは大人しく彼女を眺めるも、内心は大騒ぎで。脳内では彼女の愛らしさにまんまとハマって、可愛い可愛いとのたうち回っている。
気付けば朝日は随分と高く昇っていた。ひしゃげたプリズムタワーの先端近くまで登って来て、街を強く照らしている。下を見れば徐々に街に人やポケモンが増えて来て、人も街もポケモンも皆目を覚まし始めた様だった。
今日も忙しないミアレの日々が始まって、夜が更けたとて賑やかなままで変わらずに。人々は好き勝手生きて、生活を積み上げていく。そんな不変の光景もセイカが隣にいれば、より輝かしく、尊く思えて。
街を見下ろして、行き交う生き物の流れを眺めてからセイカに視線をやれば、彼女も下を見て笑っていて。ガイの視線に気付いたのか、顔を上げた。
「…この街とガイ、二つが一緒で何よりも、一等に大切に思う」
「うん」
「どうやってもガイの事が焼き付いて離れないの、貴方は私に一生の呪いをかけたんだね」
「…セイカにとっては呪いだと思うのか」
「うん」
それが良いものなのか、悪いものなのか。これまでの事や彼女の話を聞くと、判断が出来ない。良いものにも思えるし、とはいえ自分が彼女に付けた傷は大きく、それを考えれば悪いものにも思える。セイカの意図を量りかねていると、セイカはガイの胸元に手を這わせた。
「貴方に情状酌量の余地なんてないんだし、だから、ちゃんと責任取ってよね」
「もちろん」
「刑期は私の一生分だから、大変だね」
「百年もいかない様な時間なんて、長くて大変どころ全くか足りないだろ」
「AZさんの前で大変だとは言えないぜ」
途方もない程の時間を生き抜いたあの人を思えば、二人の人生なんて短すぎる。今は静かに眠る彼を思い出して、二人で顔を見合わせる。『AZさんにもちゃんと報告しようね』と首を傾げれば、ガイもコクンと頷いて。近い内にまた二人で墓前に行かなければと呟く。
二人で登る朝日を見上げて、すでに随分と明るい空を眺めていると。不意にセイカが声を上げた。
「…………あ、言うの忘れてた」
「ん?どうした?」
大きく目を開いた彼女はぴたりと止まる。それから、ガイの手を握ったセイカはそのまま身を乗り出した。
ガイを覗き込む様な体勢になり、ゆるりと口角を上げた後。握った手を頬の横へ持って行って頬擦りを一つ。甘い仕草にまるでお酒でも飲んだようにクラクラして、倒れてしまいそうな心地になって。急速に上がる熱にぼんやりとしていると、セイカは優しく微笑んで口を開く。
「おはよ。言ってなかったね」
またあの頃にみたいに、朝靄も消えない様な早朝から言葉を交わす事ができて。その上、今はあの頃以上に親密な関係で、彼女の隣で時間を過ごす事ができるだなんて。これ以上の幸せはそうないなと思い、端的に言葉に表してしまうのが勿体無いと思うくらいの大いなる幸福を噛み締めて。ガイはセイカの手を握り返す。そうして、ガイもセイカを真っ直ぐ見つめて言った。
「おはよう、セイカ」
今日も一日可愛いなと言葉を付け足せば、恥ずかしそうに鬱陶しそうに眉間に皺を寄せて。キスをすれば照れ隠しに押しのけられてしまった。
この日々は、そのうちすれば珍しいものでは無くなってしまうのだろうけど、その一つ一つを絶対に大切にしたくて。大切にしようと決意をして。ガイは太陽が照る窓の外に視線をやって、眩しさに目を細める。
今日も一日、いい日になるし、明日も明後日もセイカがいるなら輝かしい。大人の男性の大きな身体いっぱいに注がれた幸せにガイは溺れそうになりながら、昇る朝日を眺めた。もう間違えたりはしないと彼女の手を強く握り、決意を固めるのだった。

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