パチパチとキーボードを叩き、時折カレンダーや手帳を見ながら思案する。あんな事があったにしてはやけにいつも通り、仕事をしていた。それは散々落ち込んだりはしゃいだりして、恋にうつつを抜かしていたのにあまりにも急に落ち着いた事で、逆にマスカットから執拗に心配されるほどだった。
ガイとしてはあんな事があったからこそ、浮かれられるはずもなく。今の段階のセイカから振る事はないとは言われても、正直あそこからオッケーが繰り出される未来だって湧かない。落ち込むにはあまりに早すぎるけれど、浮かれる理由だって一切無くて、それなら普通に過ごす他ないだろう。
それに答えが出るまで、どれほど掛かるか分からない状況で、常にそわそわハラハラしている訳にもいかない。どれだけ悩んだところで、日常は無常にも通り過ぎていくのだ。無理してでもいつも通り、日々をこなさねばならない。何事も無かったかのように社会生活を送る、それが人間のすべき事だった。
とは言え、勿論全く気にならない訳ではなく。時折、もう電話でもしてしまおうかと思う時もあるが、あの時の彼女の取り乱し方を思い出すと冷静になれる。あの時の彼女の様子は、未だガイの心に罪悪感と反省を植え付けた衝撃の出来事だった。時折思い出しては罪悪感に胸が痛くなるし、本当に酷い事をしたと首を垂れてしまう。
ガイは徐ろに窓の外に目をやった。高層階にある社長室の窓から見えるのは美しいミアレの街並みである。この地のどこかでセイカはいて、過ごしているのだと思うと、街ごと愛おしさが溢れて。だが彼女を考えるたびに物足りなさと寂しさを感じるのだ。
「…でも、セイカを傷付けたのは俺だから、…ちゃんと待ってあげなきゃ」
責任として、贖罪として。どれだけゆっくり、どれだけ時間が掛かってもガイはセイカを待つ事に決めたのだ。例えそれが三千年でも、フラエッテを探し続けたAZの様に、ガイも待ち続けるつもりだった。歳を取ったってきっと彼女なら変わらず可愛いと思えるのだろう。そんな自信があるからこそ、いつまでも待つと言い切れた。ガイはガイなりに、セイカに対して本当に真剣だったのだ。
(沢山考えた結果なら、俺はどんな言葉だって受け止めるし、セイカが望むなら罰だって受けるよ)
だから望むままに答えを選んで欲しい。セイカが後悔しないなら、どんな回答であっても俺は満足だからさなんて思いながら、ガイは伸びをして身体をほぐす。ただどんな答えだって受け入れるにしても、ガイの中の振られたくないという気持ちは全く別で。キャスターのついた椅子の背もたれに身体を預ければ、椅子はギッと音を立てて軋んだ。
「…セイカ」
今度は沢山の愛を持って彼女の名前を呼べたら。それに嬉しそうに笑って返してくれる人がいるなら、きっと途方もなく幸せな事だろう。
彼女の名前を読んでみるけれど、返事など来るはずもない。それは誰にも聞かれる事なく、宙に溶けて何も無かったかの様に消える予定の言葉だったのだが。
「はい、ユカリですが、失礼いたしますわ」
あまりにも野暮な事この上ない返事にガイの心臓は跳ね上がって。凄い勢いで横を見れば見慣れたユカリのホログラムが立っていた。
ガイは驚いて椅子を引く。逃げようとして腰を上げたら、慌てすぎて椅子を巻き込んで転んだ。キャスターのついた椅子が大きな音を立てて倒れて、その横で完全に身体を打ちつけたガイが縮こまっている。
「まあ!大変!忙しない方ですわね」
「お前のせい!」
あらあらと口を手で覆い隠すユカリをキッと睨み付け、ガイは立ち上がる。強く打った肘を摩りながら、椅子を起こして座り直した。
「勝手に侵入してくんな!来るならちゃんとアポ取れ!」
「あら、ごめん遊ばせ。どうしても伝えたい気持ちが先行してしまって、思わず突撃してしまいましたわ!でもわたくしとガイ様の仲でしょう?何の問題もございません」
「………………色んな事言いたくて堪んねぇ…!」
例えばユカリとそんな親しくなった覚えはないだとか。どんな理由であっても事前にアポイントは取れだとか。そもそも許可も無く侵入してくんなだとか。ユカリの言葉の隅から隅まで指摘でいっぱいだったけれど、それを一つずつ指差して理解してくれる様な人ではないので早々に諦めた。
「本日はガイ様をご招待しようと思いまして!」
「………何だよ、また社交パーティーとか言ってバトルさせる気か?」
「させるだなんて人聞きが悪いですわ!皆様ポケモンバトルがお好きでしょう?」
「お前の好きと俺達の好きは度合いがちげぇんだよ!お前の尺度で測るな!」
「でもトーナメントというのはお間違いございませんわ。今回はGSトーナメントですの。GSは何の略かお分かりかしら?」
「…コイツ何でこんな会話が出来ねぇんだろうなぁ」
糠に釘を打つ様なあまりの手応えのなさにガイも頭を抱える。ユカリはやはりどこ吹く風で、パチンと手を合わせた。
「お分かりにならないかしら?答えを言っても構わない?」
「…お好きにどーぞ」
「正解は『ガイ様争奪トーナメント』ですわ!」
じっとりとユカリを睨み。それから大きな溜息と共に頭を抱えて、椅子の背もたれに全体重を預けた。
「お引き取りくださーい」
「だからね、ご招待と言っても今回はトーナメントをする側ではなくて、トーナメントの優勝商品側でございますわ!」
「帰れ」
急に押しかけて、というか不法侵入をした挙句、勝手に商品扱いされるとは。傍若無人も甚だしく、ガイは顔を顰める。だがユカリは気にする事なく話を進めた。
「先日、ひったくりにあった女性を助けられましたでしょう?」
「……………ああ」
しばし考えて、合点がいった様な声を上げた。そう言えばそうだった。確かにニャオニクスと一緒に、ひったくり犯から鞄を取り返した事があった。
「その時の彼女は、わたくしの古くからの友人でしてね、わたくしより少し年下なものですから、まるで妹の様な子でして、バトルもお上手ですのよ」
ユカリの古くからの友人という言葉だけで、急激に関わりたくなくなるのはどうしてだろうか。知らず知らずの内に、あまり良くないものと関わりを持ってしまったのかと口角を引き攣らせる。
「その彼女がご両親の仕事の都合で最近ミアレに越されて来て。ミアレで素敵な男性にあったとこの前仰ったのでよくよく聞いてみればガイ様でしたの!わたくし、運命的ね!なんて感動してしまって」
「知らねーよ…」
「妹の様に可愛がっている子ですし、引き合わせても良かったんですよ」
「俺の意思は?」
ガイの意思など二の次どころか聞く気もなく。やはり全てにおいて本人の居ぬ間に話を進めるユカリに何度目かの息を吐き。やっぱコイツ嫌いだわと再認識をする。
「でもどうやら、ガイ様に想いを寄せていたり、気になっている淑女はわたくしの周りでも数名いらしているようでね、それなら丁度良いわね!と思って今回トーナメントを開催するにあたりましたの!」
「ちょっと待って、それなら丁度良いに至る理由が全然分かんねぇし。は?」
「だってガイ様はお一人しかいないでしょう?別に常識に囚われなければ貴方が全員を相手にしたって良いけれど、立場的には許されないでしょうし」
「例え世間が許したとしても別にしねぇよ」
「お一人を特別扱いというのもわたくしのポリシーに反しますし、なら平等に奪い合うべきでしょう?バトルをして勝者がその権利を得る、それならわたくしも納得ですわ!皆様も納得してくれましたの!」
「大方、全員MSBCだろ」
「まあ!良くお分かりで!」
バトルで奪い合う野蛮な提案に納得するのは彼らしかいない。分からない事ないだろと眉間に寄った皺を潰す様に押さえた。
「いや、だから俺の意思は?俺別に興味無いやつと適当に付き合うとかしねぇし」
「折角決めるなら楽しい方が良いでしょう?」
「よくねぇ!」
ユカリは何を言っているのだと首を傾げる。あたかもこちらがおかしいとでも言いたげな反応に思わずキレそうになる。
「別にその場では合わせておいて、すぐに断ればいいではないですか」
「さっき倫理観がどうとか常識がどうとか言ってた奴が言う言葉じゃねぇだろ。それに俺は今誰かと付き合うとかしたくねぇし」
「どうしてかしら」
セイカがいるからだ。セイカの言葉を、答えを待たなければならない。こんな時に他の誰かと付き合うなんてあってはならない事で。ただでさえ既に彼女を酷く傷付けているのに、これ以上無駄に傷付けたくはなかったし、これ以上不誠実でもありたくはなかった。
だが彼女とまだ友人という関係性を脱していない以上、下手な事は言えるはずもない。おいそれとユカリに伝える必要なんて毛頭なくて、ガイは『お前には関係ない』と言葉を濁した。
「…でも、残念ですわね。当日はとびっきりのサプライズをご用意する予定ですのよ」
「そうか」
「ガイ様はきっと大喜びですわ」
「ふーん」
ガイは完全に生返事をして、書類に目を落とし始める。全く相手にしようとしないガイに、一切顔色も表情も変えないユカリは、怪しく目を細めた。
「あらぁ、『今の状況』のガイ様には願ってもない事のはずですのに、残念。わたくし、ガイ様にも楽しんでもらおうと企画いたしましたのに、なんて可哀想なの」
ガイは顔を上げた。顔を隠して適当な泣き真似をするユカリを見れば、彼女はすぐに顔から手を離してにこりと笑った。嘘泣きも甚だしい。
「……………その言い方なんだよ」
「いえ?」
「お前何を知ってんの?」
「いーえ?」
まともな返答をしないユカリにガイもイライラして足を踏み鳴らす。今にもポケモンを繰り出してはかいこうせんでも撃ってきそうな男の様子を見て、ユカリはパチンと手を鳴らした。
「それでは、ガイ様!お待ちしておりますよ!」
そう言ってユカリはすぐに消えていなくなった。一気に静かになった社長室でガイは髪を掻く。ワックスで固めてきっちりとセットしている事などお構いなく、イラついた様子で声を上げた。
「あー!クソ!何なんだよアイツ!」
ガイが仕事に精を出したり、悶々としたり、ユカリに絡まれる中。セイカも同じ様に普通の日々を過ごしている。朝起きて、働いて、眠ってを繰り返す何でもない日々を、何でもない様に過ごさなければならなかった。
セイカにも仕事があって自分以外の人と沢山会うから、いつもの様に和やかに機嫌良くしていなければならなくて。彼女もそう振る舞っていたつもりなのに。
セイカは溜息を吐いた。長い溜息だった。住んでいるアパートの屋上で、オーダイルとアブソルとミアレの夜景を見ながら温かい紅茶を飲んでいた。
「………落ち込んでるって言われちゃった。頑張って何でもない風に振る舞ってたのに」
彼女の上司にあたる男から、そう指摘されてしまったのだ。彼は責めるではなく、ただ純粋に心配をしていたのだけれど。セイカは恥ずかしくて、不甲斐なくて仕方がなかった。その場では大丈夫と笑ったものの、お手洗いに立った時、少しだけ泣いてしまった。恋愛一つで落ち込んで、仕事仲間に心配されるなんて学生しか許されないだろと自分を責めた。これ以上、迷惑と恥を重ねる前にその原因を解決すべきなのに、答えはどうしたって出なかった。
「…ねぇ、恋ってこんなに怖いものだった?」
過去の彼といた時はこんな想いをした事は一度も無い。楽しい思い出も、嫌な思い出もちゃんとあるし、それはガイとだって全く同じなのに、ガイだけは違った。ただ怖くて、不安で、足が竦む。
「あんな、崖の最先端に立たされて後に引く事が許されない様な、あんな気持ち、これがガイを好きになる事なら、私はしたくない。答えを間違えたら心底残念そうな失望の目を向けて、気持ちを伝える事も出来ないような…」
気持ちを伝えるかどうかは、セイカ次第ではあったが。自分と彼の立場を考えれば、何も言えないのも当然の事で。苦しさに嫌気がさしてそれが嫌でミアレを出たのに、結局ミアレを出た後もセイカはずっと苦しんでいた。
「…じゃあもう、仕事とか全部辞めて、別のところに住んじゃえばいいって思うのに」
隣に座るオーダイルが、足元に伏せるアブソルが俯く彼女を心配そうに見つめている。彼らは小さくか細い声で鳴いた。主人の感情に寄り添って声を掛けているようだった。
「好きなんだよ、ちゃんと、私忘れたのに。これならガイとまた友達としてやり直せるかもなんて、思えたから!また大好きなミアレの街に戻って来たのに、なのに」
セイカは目の端に涙を溜めた。そんな自分が同時に嫌になる。また泣くんだ。こんな事で。もう大人なのにね、酷く惨めだ。こんな気持ちになるなら、子供の頃に泣いておけばよかった。我儘を言って、失望されて。きっとあの頃のガイに想いを伝えたところで上手くはいかないから。さっさと振られておけば、尾を引く事なんてなかった。
「また思い出して、好きだなって思っちゃったのが!嫌で嫌で!自分が嫌いになるから!」
オーダイルがセイカの膝に顎を乗せた。アブソルはソファーの上に飛び移り、彼女の隣で低く座る。
寄り添う二匹に声を荒げたセイカはハッとした。それから二匹の頭を優しく撫でて、自分を落ち着かせる。
「私、大人になったのに。まだ子供みたいに子供の頃好きだった人の事が好きだなんて、…ダメなの。心が受け付けなくて。だって、気持ち悪いから。私が決めた事は何一つ間違ってなかったって思いたいのに、こんな気持ちはあの時の私を全部否定してる。あの時こうすればって思わせてくる」
彼女の中で、あの時のトラウマと大人になるという事への思いがぐちゃぐちゃに絡み合ってしまい、複雑になっている。あの頃から、怖い思いをしたくないという人間として当然の言動が強く働き続け。深層心理に常にそれを作動し続けながら、高校、大学と世界を広げ、色々な人と関わって成長していった結果、過去に囚われる事が恥で、子供だと思い込んでしまったのだ。
初恋の話だとか、初体験の話だとか、そう言う話を聞いていてもその相手は既に過去の思い出ばかりで。それを楽しそうに話す友人達が自分よりも大人に見ててしまって、きっと昔話として笑えるようになる事が大人で、それが未だ出来ない自分はアルコールが飲めるだけの子供なのだと思い、恥ずかしくなって。ただひたすらに忘れようとした。奇しくもそれがセイカにとっても心を軽くする結果となってしまったのだった。
「死んだら、ねえ、死んだら楽になれるかな」
柵の外を見る。ミアレの街並みが広がり、真下にはタイル張りの道があって。頭から飛び降りたらすぐに死ねそうだと思っていたら。膝に乗ったオーダイルが出来る限り体重を掛けて自分を重しにして、アブソルが彼女の手に自分の足を乗せて踏み付けた。まるでどこにも行かせないとでも言いたげに。
「………ごめん、ごめんなさい。貴方達にこんな顔させるつもりなんて、なかった。ごめん、家族を残してなんていかないよ。大丈夫だよ、悪い冗談なの、ごめんなさい」
もう長らく寄り添ってきた二匹は家族で。二匹を残して先立とうなんてあまりにも無責任だという事を、セイカは完全に失念していた。悲しそうな顔をする二匹をギュッと抱き締める。そんな彼女を見て、もう死のうとなんてしないだろうと判断した二匹は少し身体を離す。
「…よく冷えた。…冷えたところで考えなんて纏まらないけど。貴方達が風邪引いちゃうといけないもんね、戻ろっか」
マグカップを持って立ち上がったセイカは二匹をボールに戻す。長く、どこか疲れた様な息を吐いて、一瞬柵の外に目をやる。それからすぐに屋内へ戻って行った。
エレベーターで自分の部屋の階まで戻り、鍵を開けて戻る。鍵を開けると部屋の電気は完全に点いていて、点けっぱなしで来てしまったのかと目を伏せる。最近は何やってもダメだなぁなんて再び自己嫌悪に陥りそうになって、頬に手を当てた。マグカップを洗って、もうシャワーも浴びずに寝てしまおうかとまた重たく溜息を吐いたが。
「いけませんわ、セイカ様。溜息は幸せを逃します。よく聞きますでしょ?」
「…!?」
リビングの中央、ソファーの上にユカリが悠々と座っていた。それはどう見てもホログラムではなく生身で、セイカは何歩か後退りする。心臓がバクバク鳴っていた。だが相手はユカリなので、通報だとかそう言った事はしない。まだ不法侵入がユカリで良かったと安堵したくらいだ。
「…もう、勝手に入らないでくださいよぉ」
「ごめんあそばせ、外は寒くって。わたくし、寒いのは苦手ですの」
「もー」
にこりと彼女に微笑んで、マグカップをシンクに置く。今お茶出しますねと声を掛ければ、ユカリはお気になさらないでと笑い、セイカも座る様に促した。
「セイカ様、わたくしがいる事に驚きませんのね」
「いやぁ、ユカリさんなんて知り合いですし、大学時代に一時期ストーカーに家凸された時より全然マシで」
「………うーん、ストーカー?その別れた元カレとやら?」
「あ、いえ、彼と付き合う前に講義で、グループワーク一緒だった男の人で、名前は……ちょっと忘れちゃったんですけど」
「まあ!それは完全に声掛けられただけでとっても勘違いしてくる本当に危ないタイプの方でしょう!普通はそんな方に声なんて掛けませんわよ」
「で、でも、グループワーク一緒だし、挨拶といい天気だね〜くらいの雑談はしませんか?」
「もう、わたくし、とても感動していると共に怒っておりますのよ!ミアレの天使はミアレでなくても天使の様なお方なのは本当に嬉しく、素晴らしく、流石わたくしの最推し!と言ったところですが、親切は自身の身を滅ぼしかねない事をちゃんと念頭に置いておいてくださいませね?」
ユカリにしては珍しく、あまりにも尤もな言葉にセイカも頷くが。ふと、これはあの時自分がガイに常々思っていた言葉だと気付いて顔を引き攣らせた。その動揺をユカリは真正面から見ていたけれど、それを指摘しないのは彼女なりの気遣いだった。
「…さて、早速本題に入りましょうか。セイカ様は明日もお仕事でしょう?夜更かしは乙女の敵ですわ!セイカ様にはいつでも美しく、お可愛らしくいてほしいもの、手早く済ませてしまいましょうね」
にこりと優雅に微笑む。それからユカリは一枚の封筒を手渡した。シーリングスタンプで封をされたそれを綺麗に開封し、中を確認するとそれは招待状だった。
「………えっと、トーナメント、ですか?」
「ええ」
「…いや、あの、前にもお伝えしたんですけど、私バトルは」
「ポケモンを持たれているじゃないですか」
「いや、この子達はただ一緒に暮らしているだけで」
「いえ、ポケモンがいれば誰でもバトルは出来ますわ!」
そう言われれば、そうではあるのだが。セイカの心理的にはそうではないというか。困った様に眉を下げてユカリにどう伝えるべきかと考えあぐねる。セイカの様子を見ながらも、ユカリはどんどんと話を進めた。
「こちらはね、ガイ様のお相手を決めるパーティーなのよ」
その言葉を聞いた時、セイカは目を見開いて固まった。招待状を持つ手が微かに震える。
「わたくしの知り合いがね、助けてくれたガイ様に恋をしてしまったみたいなの。彼女以外にもね、大企業の若社長だからってビジネス的にも結婚という意味でも気になっているご令嬢達がいらしてね」
「…はい」
「でもこんなに沢山いらしたら、紹介なんて出来ないでしょう?だからトーナメントでガイ様のお相手を決めようとわたくしが企画をいたしましたの。平和的な解決方法でしょう?」
バトルで決めるという時点でかなり荒事だが、ユカリにその指摘は通じないだろう。セイカは困惑のまま『はぁ』と返事をした。
「…あの、皆さんご納得は…」
「しておりますわ!」
「…………ガイ、は」
「納得しておりますわよ」
「…ガイにとって、大切なこと、ですよね」
「ええ。でも構わないと」
本当は納得どころか、許可すらしていないのだが。そんな事をセイカが知っている訳がないので、本当に頷いたのかと思い。セイカは目を強く閉じた。気を緩めると泣いてしまいそうだった。
(……でも、本人がいいならそれで、いいよね)
告白までして、今の俺を見てくれなんて見つめて。今更どの口がと怒りたくなる様な事を言って来たくせに、お前は他の所に行くのかって。そう言う怒りが沸々と湧いてくるのに。ああ、これで救われるのかも、終われるのかもと言う気持ちもあって。それと同じくらい悲しくて寂しくて、辛かった。
(だって、そうだ。私、ガイの何者でもないんだから、止める資格なんて…そもそも怒る事だって筋違いだし…)
ああ、また他責だ。ずっとガイのせいにしてる。本当はセイカは分かっていた。確かにガイのせいだとしても、こうなる選択をしたのは最終的には自分であった事を。それをガイのせいにして、無意識的に自分の罪を軽くしようとしていた側面があった事を、彼女は分かっていた。分かっていて、知らないふりをしていたのだ。でも知らんぷりにも限度があって、時折その罪悪感がこの身を襲い、生きている事が辛く思う。
セイカは震える手に力を込めた。涙を我慢するために、鼻で深く息を吸って吐いて自分を落ち着かせる。それを繰り返すセイカに、ユカリは慈愛のこもった声で語りかけた。何か優しい事を言うのかと思ったのだが。
「セイカ様。何であれ、ライバルがいるのであれば戦わなければ奪われますのよ」
セイカは唇を噛み締める。先ほどより更に俯いて、深呼吸を繰り返した。
(ライバルって、……ちがう。私はそんなんじゃない。その人達と対等なんかじゃないよ。その人達より酷く惨めで醜いから、並べないでほしい。だって私は逃げたんだ。ガイから逃げたんだよ、一度)
「力を示して、文句を言わせない様にして、確固とした幸せを自分の手で作り出して、掴み取るのですよ。少なくとも今は、そう言う状況です」
「………っでも、私、わたしは、わたしに、そんな傲慢な事をする資格なんて」
「その資格は誰にだってありますわ。誰かにないなんて事はございません」
「…わたしは」
「もう一度言いますよ、セイカ様。このままだとガイ様が他の女性に取られてしまいますわ。家や会社が絡めば、もう簡単に別れる事も出来ないかも」
耳を塞ごうと持ち上げた手をユカリは掴んだ。彼女がひたすらにこの問題から逃げている事を彼女は見抜いていて。容赦のない行動を取る。
「あなた以外の方と結婚して、子供が産まれて、幸せに死んでいく、そう言う未来が間近にあるのです」
「手を離して…」
「これが最後の忠告です。ユカリの顔も三度までですから。戦わなければ奪われます。その土俵に立っていないのなら、その権利すら与えられない。あなたはそれで後悔しませんか?」
ユカリの言葉を真正面から受ける。拒絶も出来ずに回答を突きつけられ、セイカは息が荒くなる。
(私はまた正解を選ばなければいけない。ガイが失望しない正解を。MZ団は皆大きくなって、私だけが何者でもないから、ガイの隣なんて誰も納得してくれはしない)
だからちゃんと断らなきゃ。これで自分の答えを出さなきゃ。自分で選んで、ちゃんと終わらせなきゃ。ならないのに。
ガイはいつだって優しく笑う。目を細めて、眉を下げて、ひどく優しい顔で笑って、『セイカ』と名前を呼んだ。美味しいものを食べて顔を綻ばせれば、心底嬉しそうに美味しいかと問い掛ける。少しの段差でも手を差し伸べては、優しくその手を引いてくれる。それから、他人よりも優先してくれる様になった。それがガイの中で何を表すのか、大きな期待をするには十分で。より惹かれてしまうのだって仕方がなくて。
『セイカ』
彼の低い声で、あまりにも温かく優しく名前を呼ばれる。幾度となくあったそんなワンシーンが不意に思い起こされて、セイカは名前を呼び返した。頭の中で言ったつもりなのに、無意識に声を出していた。
「ガイ」
「…………セイカ様はわたくしの最推しよ。今も昔も揺らぐ事のない事実ですわ。だからね、幸せになってほしいのよ、あなたには。あなたが幸せになれるなら相手なんてどうだって良いのよ。別にガイ様でなくても、そこら辺の一般市民の方でも、バトルが最弱の方でも、どうでもよかったの」
「…ユカリさん…」
「でもあなたを幸せにするのは、どうやらガイ様にしかできないことみたい。…このわたくしですら、これに関してはガイ様に全く歯が立たないなんて、ほんっとう悔しいですわ」
プンプンと怒った素振りを見せ、そっぽを向く。すぐにセイカの方を向いて、あどけない少女の様に可愛らしい笑顔を見せた。
「あなたとガイ様の間に何があるのか、わたくしだって詳しくは存じ上げませんけれど、セイカ様は慎ましい事この上ないですわね。セイカ様の故郷の言葉で言うヤマトナデシコというか、ラッキーの様に後ろに下がって歩く方というか、それがあなたの国の方々の人間性なのでしょうし、美徳ではあるとは思うのですけれどね」
戻るとは言ったけれど、どこに戻るかなんてユカリに伝えていたかと疑問には思ったが、別段知られて乗る様なものでもなかったので特に指摘はしなかった。それよりも自分の事を思ってくる言葉の優しさに胸が温かくなった。
「もっともっと我儘を仰ってもよろしいかと思いますわ。女は我儘な方が男を魅了して離しませんの。寧ろセイカ様くらいの方であれば我儘を全て叶えてくれる様な方でなければ釣り合いが取れませんわ!」
そんなに過大評価されても何もあげられないのに、ユカリの評価に嬉しくなりつつも、セイカは目を瞑って思う。
(私は逃げた。散々ガイから逃げて、完全な被害者の顔で全部ガイのせいにしてた。こんな事、虫が良すぎる。ただの最低だよね。分かってる。でも)
彼女はゆっくりと目を上げた。招待状を握る手はもう震えていなかった。
「…でも、やっぱり好きなの。忘れられない。どうしようもなく好きで、きっと一生分の恋なんだ。……私、わ、私、…私っ!他の人になんか、取られたくないっ…!」
目の端に涙を浮かべ、一筋溢しながらセイカははっきりと言った。その答えにユカリはコクリと深く頷き、招待状を持った彼女の手に自分の手を重ねる。
「だから、ユカリさん。散々断っておいて都合が良すぎると思います。でも、私を参加させてください。決めました、私、もう逃げません。苦しいのは嫌だけど、それ以上に他の人に取られる方がもっと嫌」
「いいえ、セイカ様。あなたのご参加を心の底から歓迎いたしますよ。寧ろ頷いてくれなければわたくし、何するか分かりませんわ」
まあ、冗談では済まされない事態になるであろう事は想定の範囲内で。ユカリゾーンでアパートごとが壊れれば、私以外の人にも迷惑を掛けてしまうし。セイカもこの恐ろしい脅しには苦笑を浮かべた。
「こちらは、セイカ様はシークレットゲストとして登場していただこうと思っておりますの」
「え、な、なんな緊張する…バトルなんて本当に久しぶりなのに、大丈夫かな……」
「全く問題ございませんので、お気になさらず!それに差し当たってセイカ様には正装で来ていただこうかと思いまして」
「え、…わ、私ドレス持ってない」
生憎、友人の結婚式などもなく。使う用事もなくてパーティードレスなるものは持ち合わせていない。持っているのはオフィスカジュアルとビジネススーツくらいである。
「トーナメントは」
「今週の土曜日ですわ」
もう一週間もないのに、どこかで調達しなければならない。どうしようと首を捻っているとユカリが手を横に振る
「セイカ様は何もしなくて良いですわ。ドレスもメイクもこちらで提供いたしますから、身一つでお越しになって?」
「え!?いやいや。それは流石に」
「もう、セイカ様は何もお分かりでないのね!推しに貢ぐ楽しみがありますのに!わたくしが責任を持って、セイカ様を今以上に、カルネ様をも超えた絶世の美女へと変身させますわよ!」
推し活なんて事を特にした事がないセイカは、その言葉に実感がわかず。まあ、何を言っても聞いてはくれないユカリに、これ以上の遠慮をしたところで十中八九聞かないし。セイカは早々に諦めて礼を述べた。
その顔は困りながらもどこか楽しそうで。もう彼女に迷いはない事がよく分かる。