風化させたくないと思っていた思い出も、過ぎ去って朧げになって行くのが大人なのだとガイは思った。輝かしい思い出の中に確かに刻まれた存在だとしても、自分の心身ともに忙殺されて行くのは悲しいけれど。大人が自分に課せられた責任を果たすには、ゆったりと思い出に浸かる時間など一秒も無いみたいで。フォロー欄にいる多数の中の一人として、思い出深い少女、セイカは埋もれていった。だがそれを気にする余裕も無いくらい、ガイは沢山のものに追われて、飲み込まれないように常にもがき続けていた。
物語が始まるのは四人の少年少女がミアレシティを救ってからおおよそ十年ほど後である。青年を越え、立派な大人となったガイは今や一企業のCEOとして重たい舵を切っていた。
パリパリのスーツを着こなし、爽やか香水の香りを纏う男は最早あの頃の純粋で無邪気そうな面影はなく。ミアレの遥か遠くにあるキタカミと言う東洋の地の、粉雪が降り積もる絶景などと言われる冬景色の様にシンと静かな雰囲気を纏っていた。それは色々な事を知ってしまった大人の顔で、憂いを帯びた目とキュッと閉じられた口はどこか物々しさを演出する。結果的にそれがガイの見た目の神聖さや美しさを引き立てて、ミアレどころかカロス全土でも黄色い声が立つ若き実業家となっていた。
「社長、つかぬ事を伺いますが」
社長専属秘書として長らく働く右腕、マスカットは書類の束に手を伸ばし、凄いスピードで目を通して行く美丈夫に声を掛ける。書類から一瞬目を離し、男を見てはまた書類に目を向ける彼にマスカットも苦笑いだ。
「休憩取られました?」
「仕事が溜まってるからなぁ」
「私ですら頂いたのに、もうすぐ三時ですよ、一度席を立たれて気分転換でもされたらどうです?」
「んー、仕事まだあるしなぁ」
どれだけ言おうとガイが返す言葉は何も変わっていない。手持ち無沙汰な右手で器用にペンを回したガイは、首を鳴らして凝りを解消するだけで、そこから動こうとはしなかった。
社長に休憩の義務だとか、そう言う労働の決まりはあまりなく、自由で裁量が自分自身にある事は分かっているし。なんなら不眠不休で働いたって彼はどこからも何も言われないのだろうけど。少年期から彼を見守ってきた、最早親の様な心持ちのマスカットは我慢が出来ず。ガイの手から書類とペンを素早く取り上げた。
「あ!?」
「休憩をお取りください」
「ちょ、マスカットさん」
「はい、どうぞ〜、行ってらっしゃい」
そう言われて執務室を追い出され、締め出されてしまった。試しにノックをしてみるけれど、追い出された手前開けてくれるはずもなく。と思ったがドアは少しだけ開いた。そこからマスカットはガイの財布を廊下へ置いて、またすぐに閉めた。
「…財布だけ出された……」
これはもうどこかへ行かなければこの部屋へは入れてくれないだろうし。そうなれば仕事だって終わらない。ここで粘り続ける事と、素直に休憩に出る事のどちらが効率が良いかと言えば、どう考えても後者なので。諦めてガイは外に出る事にした。
「とは言え別に腹減ってねぇしな」
昼食を取るにも少し遅く、そもそも空腹感は感じていない。何か固形物をしっかり食べる気にはあまりなれず、それならコーヒーでも買ってぼうっと空でも見ているかと思い付き。ガイは会社の近くのキッチンカーでコーヒーを購入する事にした。
オフィスを出て少し歩く。すぐにそのキッチンカーは見えてくるけれど、お昼のピークを過ぎた今、キッチンカーの前は人がまばらだ。大きな溜息をつき、疲労が溜まっていそうなサラリーマンと、うたた寝するOLがイートインスペースにいた。
ガイは傍にあるメニューの看板を覗く。飲み物と、コーヒーの良い匂いがしたら何だか甘いものの一つくらいは食べたくなって、お菓子を何か購入しようと思った。何を食べようか、何なら先ほどまでコーヒーを飲むつもりだったのに、紅茶にも気持ちが靡き始めてしまったため、何を飲むかもまた一から考える。看板を見ながらうんうんと唸っていると、隣には人がいて。注文しようとする女性の邪魔になると思い、ガイは半歩避ける。
(この人も遅い休憩か〜。大変だな〜)
自分の事など棚に上げて、隣の女性をお疲れ様と心の中で労い。一瞬だけ、彼女の顔を見たつもりだったのだが。
「───え」
思わぬ人が自分の隣にいて、思わず小さな声を漏らす。一瞬だけ見たつもりが、もう完全に凝視してしまい、見ていないなんて言い逃れすら出来ない状況となった。だがそれ以上に彼女がここにいて偶然出会えた衝撃が勝り、ガイは動けないでいる。
「せ、セイカ?」
セイカと名を呼ばれた女性は彼と目を合わせる。その瞬間、彼女は目を見開いて驚いた顔をした。パチパチと瞬きをして、彼の顔をマジマジと見つめた。
「えー!わぁ、ガイだ」
耳触りの良い軽やかな歓声が上がった。彼女は久方振りどころか、もう数年振りの友人との再会にはしゃいで手を叩く。
それから彼女の大きなブラウンアイが優しげに細められた。コーラルカラーのリップを塗った口元をキュッと上げれば、先程までの少し幼さの残る無邪気な顔は、完全に大人に変わった。
「ひさしぶり。会いたかった」
真ん中で分けた前髪の一房を耳に掛ける。耳に掛かりきらなかった数本が垂れていた。そしてこくりと首を傾げるセイカはガイの顔を見上げて覗き込んで、目を合わせる。彼と視線が交わって、セイカは少しだけ照れくさそうにはにかんだ。
「ガイ、少し時間ある?」
「あ、ああ、今休憩中だし大丈夫だぜ」
「良かった。折角だから少しお話ししよう」
そう言って笑った彼女は待たせている店員に軽く謝罪を入れてオーダーをする。コーヒーとガレットを頼み、それからガイにも伺いを立てた。
「ガイは何飲むの?」
「あ、じゃあ、えっと、ホットコーヒー」
「軽食は?」
「俺もガレット一つ」
「うん、分かった」
ガイの分までオーダーを済ませ、彼がカードを取り出すより先に電子決済で会計を終わらせてしまう。オーダーを受け取ろうと手を伸ばしたセイカにキッチンカーの女性は親しげに話し掛けた。
「セイカ、これあげる」
「え、クッキー?頼んでないですよ?」
「この前のお礼よ。貰って!」
「も、もうお礼はいただきましたって!」
「だってセイカは命の恩人だもの。お礼をしてし尽くす事はないわ」
困惑し、遠慮する彼女の手に、大きなクッキーを渡す。手渡された以上突き返すわけにもいかなくて、彼女は眉を下げて礼を述べた。
二人分のコーヒーとガレットの乗ったお盆を手に、すぐそばのソファーに座る。奥側に詰めて隣に座るよう誘導したが、そこではたと気付いて頬を赤くした。
「隣に座る意味ないか、席向かいにあるのに」
えへへと照れくさそうに笑う彼女の横に、ガイは誘われるまま腰掛ける。誘ったくせに『えっ』と声を上げて驚く彼女をチラリと見て、少しぶっきらぼうに言った。
「隣の方が話しやすいし」
「そっか」
コーヒーを手に取り、蓋の飲み口を開けて一口喉へ流し込んだ。慣れ親しんだ苦味が広がり、ガイは息を吐く。
「久しぶりだね、あんまり連絡出来なくてごめんね」
「いや、俺こそ」
ガイの場合はあまりではなく、全くしていないのだが。別に関係性が完全に切れた訳ではない。SNSの投稿にいいねを押したりだとか、送られてきたメッセージに言葉を返したりだとか、頻度は高くないけれどその程度の交流はこれまで続けてきた。だが実際に会うのは数年振りで、記憶の中の彼女と今の姿の乖離がガイはどうしても気になってしまった。
数年もあれば人間は変わってしまうし。それが成長期の少年少女で記憶が止まっているのであれば尚更、変化は著しい。
「ミアレに移住した時に顔出しに行けば良かったかな。でも仕事忙しそうだし、私が来た日ってガイ、なんかドキュメンタリー番組の密着入ってたし」
「あー、あれな」
社長として色々なメディアに出演をする彼は、以前新進気鋭の若手実業家として密着型のドキュメンタリーにも出ていた。セイカがかつて走り回ったミアレシティに大学卒業、そして就職と同時に移住してきた時は、丁度撮影クルーが密着しているタイミングで。
きっと忙しいだろうと気を回した彼女は、移住しましたとSNSの投稿をするのみでガイ個人に特に報告する事はなかったし。会おうとも声を掛けなかったため、彼らが実際に顔を合わせる事はなかった。
ガイは正直、それを後悔していたのだ。会いに行くタイミングなんて幾らでも会ったし、自分以外のピュールやデウロ、その他シローやらカラスバやらはしっかりと会いに行ったり食事をしたりしているのに。自分だけ何もしてあげていない負い目がどんどんと膨れ上がり、酷く気まずさを覚えて、セイカに連絡を取れず。そこからそのまま数年経ってしまったのだ。機会を逃したのは完全に自分の自業自得でしかなく、いつだってセイカ側から送られてくるDMの過去ログを見ながら、メッセージを送ろうとしてやめていた。それを数年、一人で繰り返していた。
「ごめんね、MZ団のリーダーさんにはちゃんとご挨拶しないとなのにね」
「いつの話だよ」
「ふふ、あの時は楽しかったね」
思い出してはくすくすと笑う。あの時よりも随分としなやかになった大人の手で口元を隠した。
あの頃よりも変わっていると言うのは当然である。十年も経てば幼稚園児は高校生になり、高校生は大人になる。ポケモンだって歳を取るし、あの時元気だった子が亡くなっていたなんて事もおかしくはない。ガイも立派な大人になったのだから、セイカも例外なく成長をしていた。高校生ほどの年齢とは言え、まだ子供らしさの残る顔立ちや身体のラインをしていたはずなのに、隣に座る彼女はもう完全に大人で。
スッと細い顔に乗せられた華やかなメイク。センターで分けた前髪は変わらないけれど、くるくると巻かれた髪はハーフアップにされて、両サイドをまたくるくると捻って頭の後ろでシニヨンを作っている。これをセットするにも時間が掛かっているのだろう、いつもワックスでさっさと決めてしまうだけのガイには想像も出来ないほどの。
ふんわりとしたヘアスタイルと合わせたのか、服装も柔らかな印象だ。Vネックのセーターからは鎖骨が覗く。サイズが少し大きめなのか、インナーの肩紐が僅かに見えていた。Iラインのスカートはお尻の形と太ももの膨らみをなぞる。
大人で、あまりにも女性らしい姿に頭一つ分彼女より背の高いガイは上からセイカをじっと見る。スカートの内側に隠れた膝がすりと擦り合わせられたのが布の動きで分かった。
「…?ガイ?」
「…え、あ、なに?」
「私何かおかしい?」
「え?」
「ずっと見てるから」
指摘されてしまう程に露骨だったかとガイは少し反省する。セイカはMサイズのコップを両手で包み、口から立つ湯気にあたって温まりながら少し不安そうにガイを見上げた。
「服似合ってない?セーターとか新調したばっかなんだけどなぁ」
「あ、いや、違くて!良く似合ってるよ!」
「ほんと?」
「おう!か」
「え?ごめん、なに?」
四文字を言いかけて、やめた。今更言葉一つで恥ずかしがる様な年齢でもないのに、セイカを褒めるだけでも口がカラカラに渇く。
パッチリとした彼女の綺麗な目は下からガイを覗き込んだ。お手本の様な上目遣いに彼の心音は只事ではなくなっている。このままだと内臓を吐き出してしまいそうな感覚になって、ガイは平静を保とうと深呼吸をした。だが下に目を向ければやはり激薬の様な存在がいて、落ち着きは簡単には戻らない。ばくばくの心臓のままガイが言いかけた言葉を待つセイカに、冷静な振りをしてガイはキザそうな表情を作り、綺麗に口角を上げた。
「かなり、いんじゃね?」
「ほんと?よかった」
格好付けた顔をするくせに、言葉は日和って口に出せない。本来伝えようとしていた言葉は、この関係性では伝えたところで微妙な空気にしてしまうだけの可能性が否めないため、ガイは言えなかった。今はまだ関係性を壊す勇気が出ない。
セイカは褒められた事が嬉しくて、ほんのりと頬を赤くして照れている。『ふふふ』とはにかみながら、彼女はガレットを口に運んだ。
「それにしても、ガイも成長したよね。あの時は私と同じくらいの背丈だったのに、今は私よりも大きいし、スーツも着こなして凄いね。立派だよー」
「そりゃ十年くらい経てば人間変わるよな」
「お母さんの肩身のジャケットももう入らないでしょ?」
「流石にな。大切なものだから取っておいてはあるけど」
リペアをして毎日大切に来ていた肉親の形見だって、もうとっくにサイズアウトでガイが身に付ける事は出来ない。だから今はクローゼットの奥、虫に食べられないようにしっかりと予防をして大切に保管されている。時折仕事で挫けそうになった時はそれを抱き締めて自分を励ましているなんて事は、セイカの前ではあまりにも子供らしく恥ずかしくてとても言えない。
「いいね〜。かっこいいじゃん」
「……!!」
身体に微細な電流が走ったかの様な衝撃が一瞬あった。指先も爪先もピリピリとして、視界がくらりと揺れる。頭が熱くなって、脳味噌が今にも融解してしまいそうな感覚にガイは目を回した。手に持ったコーヒーを溢してしまいそうで指先に力を込める。コップの表面は少しだけ凹んだ。
「見てたんだよー、ガイの出てるテレビとか。全部は無理だけど、やってたら確認してたの。元気かなぁって。そんな事してるなら元気?とかって普通にDMすれば良かったのにって思ってる」
「いや…」
「本当はなんだかガイが遠くに行っちゃって、話しかけ辛いなって思って声掛けられなかっただけ。私の事忘れてガイの全部変わってたらどうしようって思ってたの」
どうやら彼女も同じ様で、ガイはひどく安心した。セイカも変わる事、変わっている事を恐れて、ただ進めなかっただけなのだ。だとすれば尚更、自分が声を掛けるべきだとガイは後悔する。お互いに同じ気持ちで、女性に手を伸ばさせ、エスコートを要求させるなど、もう一カロスの人間としては減点だ。
「…ガイはガイのままで良かったな。私すごく安心してる。背丈は変わっても優しい目は何も変わってないんだね」
ガイの目をしっかりと見つめ、微笑んだ。当のガイはもう何が何だか分からなくなっている。見つめられるたびに身体が震えて、体温が上がって、正常な思考が出来なくなってただセイカを見つめる。
病気にも思える身体異常に苛まるも、ガイももう子供ではないのでその原因はしっかりと分かっている。分かっているからこそ、もう自分ではどうしようもないのだ。ばくばくといつか爆発しそうな程、激しい心音は最早警告音とも言えよう。
気を紛らわせるため、ガイは大きな口でガレットを頬張る。口の中はいっぱいで、パサついて仕方がない。急なガイの行動に目を丸くしたセイカだったが、すぐにくすくすと笑い出した。
「どうしたの、急に」
「あ、な、なんか腹減ってきて!美味いなガレット!」
「あは、そっかぁ」
落ち着いて食べなよなんて言いながら、口元に手を当てて笑う。上品な仕草にやはり胸がグッと掴まれる様な感覚になって、ゆっくりと深呼吸をした。
「…てか、俺だってセイカのこと、…忘れた事なんか一度も無いし」
「えー、そうなの?」
「そうなのってなぁ」
「社長なんて人と会う仕事なんだから私の記憶なんかないと思ったよー」
「無いわけないだろ」
無いどころか離れている間の方が馬鹿みたいに思い出していたのに。離れていた期間でなんとなく勘付いて、再会してとどめを刺される。あの頃からそうだったと言えば、否定は出来なくて。そう思うたびに今まで何をしていたんだと不甲斐無さが湧き上がってくる。
でもこうして出会えたのだし、彼女と自分の間には何か特別な力があるのかもと夢を見るくらいにはガイは浮ついた気分で。遅すぎると言えば遅すぎるのに、巻き返すチャンスが巡って来たのは奇跡的とも運命的とも言えようと、彼女には悟られないよう密かに嬉しさを噛み締めた。ニヤける顔を必死に抑え込み、涼しい振りをしてコーヒーを流し込む。
「ミアレの天使なんて呼ばれちゃってさ、お前も大概お人好しだよな」
「…その呼び方やめてよ、恥ずかしいんだから」
彼女はどうやら人助けを良くしている様で。それはきっと自分からと言うよりも、道中で見かけた困った人を放って置けないだけなのだろうけど。それでも老若男女関わらず、全員助けてしまう辺り親切で、愛に溢れていて。だからこそ彼女はミアレの人間達からミアレの天使なんて愛称で呼ばれているのだ。
揶揄う様にガイに呼ばれて、セイカはちょんと唇を尖らせる。あまりにもあざとすぎる表情にまた心臓は爆音を立てた。さながらチェーンソーの起動音の様である。
「でもガイだってプリンスって呼ばれてるの、知ってる?」
「は?え?」
「エゴサなんかしないよね、社長さんは」
「どこで呼ばれてんだそれ」
「ネット。カッコよくて、仕事の出来る人で、お金も持ってて、浮ついた話が一つもない真面目な王子様って人気だよ」
自分の評判など別に気にならなかったし。自分はそこにある事をこなすので精一杯で世論など気にもしなかったのだが。世間からはそう呼ばれていると思うと非常に恥ずかしくて、ガイは首を掻く。
「ガイは」
彼女の手がガイの肩に触れる。細い指がつうと曲線をなぞり、彼の逞しい二の腕に手を添えた。綺麗に色の乗った爪がより彼女の女性らしさを引き立てていた。
「昔から王子様みたいだったのに、今更皆にバレちゃったね」
俺は一体どうすればいい。彼女は俺をどうするつもりなんだ。ガイは息が詰まって言葉が出ない。視界にはもうセイカしか映らなくて、手元のコーヒーですら視認が出来なくなる。
「あ」
「…へ」
「ごめん、そろそろ休憩明け。オフィス戻らなきゃ」
セイカの言葉で現実に引き戻されてそう言えばと腕時計を確認すれば。自分もそろそろ仕事に戻らなければならない時間だと気付いた。
「俺もだわ」
ガイは残ったコーヒーを煽って立ち上がる。近くのゴミ箱に空のコップを捨て、皿を店員に返した。
「セイカ、レシート見せろ。俺に払わせて」
「え、いいよ」
「じゃあせめて俺の支払い分だけでも出すから」
「いいよ、奢る」
「…いやいや」
「ガイ、いつも頑張ってるし」
それはお前だって一緒だろだとか。女性に奢らせるのはなんだか申し訳ないだとか。ていうかセイカに対してはどちらかと言うと俺が良くしてあげたいというか、なんなら望むもの全て叶えてあげたいくらいなのに。セイカはレシートも何も出そうとせず、いらないと笑うばかりだ。結局、折れたのはガイの方だった。
じゃあ分かったと渋々返事をすればセイカは頷く。それから『じゃあ』と言ってこの場を後にしようとしたセイカだったが、ふと立ち止まって再び戻ってくる。
「あ、ガイ」
「…?何?」
「これあげる」
それは先程キッチンカーの女性から貰ったクッキーで。渡しているところを彼女に見えない様、身体で隠しながら俺に手渡した。
「糖分。疲れた時に甘い物食べるとすごい美味しく感じるよね」
「でも…」
「いいから。貰ってよ」
そう言って俺に半ば押し付ける様に渡して離れる。それから小さく手を上げて、ふるふると小刻みに振った。
「お互いお仕事頑張ろうね、ばいばい」
踵を返したセイカはパンプスを鳴らしながら駆け足で去って行ってしまい。その場に残されたガイは立ち尽くし、数秒後にその場で頭を抱える。
「本当にヤバい、マジでどうしよう」
先程から、もう数分か数十分かそれ以上か、ドラムでも叩いた様な音を上げる心臓は、おそらくもう破裂寸前だろう。脳など正常に働いた覚えがなくて、なんだかずっとぬるま湯にでも使っているかの様にぼうっとしていた。だから上手く口が回らず、想いの一つも言葉に出来ていないし。ただただ熱に浮かされ、大病を患ったかの様な感覚に、自分の抱く全てを突き付けられただけだった。
「…は、…かっ、わいい…」
呆然と静かに呟いて。瞳はゆらゆらと蜃気楼の様に揺れていた。だがすぐにギュッと胸元を握り締め、先程とは打って変わって感情の全部を吐き出す。溢れて止まらない想いがまるで滝の様に流れて落ちた。
「…かわいい、可愛いっ、なんだよ、可愛すぎんだろ、死ぬ、死ぬほど可愛い…どうしよう、やべぇ可愛すぎ…可愛すぎるんだよ、なんだよマジで!俺にどうしろって」
きっとそれは十年と少し越し程溜め込んで持て余していた大きな感情で。それが一気に破裂して意識を侵食して行くから、一瞬で全身を染めてしまったから。もう今日の内は正常な判断や行動を取れる気がしなくて。とめどない想いのままに、ガイは叫んだ。そして震える手でこめかみを押さえる。今にも走り出してしまいそうな程、高揚した身体を懸命に理性で押さえつけ、絞り出した様な声でそれでも確かにはっきりと言い切った。
「あー、どうしよう、すきだ…」
恋は熱病の様なものなんて、良く形容したものだ。自分では制御が出来ずに、なすがまま浮かされる他ないのだから。自分の意思とか関係なく、全てを支配される感覚は恐ろしいのに相手への気持ちが恐怖を上回ってしまう。
ガイは足早にオフィスに戻る。戻ったところで仕事なんかまともに出来る気はしないけれど、これ以上彼女がいた場所にいると本格的におかしくなってしまいそうで仕方がなかった。この日、また一人の男が天使に拐かされてしまったのだった。