のまれて、のまれて、あえたね

歴史学の授業でヒスイを学んだ。まあ、私には学ぶ必要なんて無いけれど。スクリーンに写し出されたパワーポイントの資料は実体験を持って見覚えのあるものばかりで、何だか懐かしさを覚える。そう感じるのもきっと、今が穏やかだからに違いない。あの場に居続けたらこんなに客観的には見ていられなかった。
第七回目の講義、その日にした授業の内容は良く覚えている。『コンゴウ』と呼ばれる民族達が海を越え、ヒスイに定住してウン十年と経ったその後、コトブキムラや西欧に影響されて集落を村、街へと発展させたその変遷が書かれている書物『金剛目録』が取り扱われた。それはコンゴウの集落の長である男が生涯をかけて書いた記録書の様な、日記帳の様な曖昧なものである。
その男を私は知っていた。名前を聞いた時、ああ、懐かしいなと嬉しくなったり、もう死んでいるのかと寂しくなったり胸中は非常に忙しかったけれど、私はマイペースに話す教授の言葉を静かに聞いていた。周りの学生は半分くらいが眠りこけていた。
私はただその授業を黙って聞いていた。かつて自分が見てきた事と照らし合わせながら、コンゴウやコトブキの発展の様子を楽しんで聞いていた。だが最後、教授が最後に紹介したその言葉がどうにも頭から離れなかった。

私に背を向け、消えたあなたを
私はいつまでも想い続けます。
幾千、幾万もの時間が過ぎ去っても
有限である私の命が尽きるまで
私が潰えたその後も
私はあなたを求めよう。
遥か遠くの未来で
私はきっとあなたの手を取る。

現代語訳された文章を見て少しだけぞわりとしたのを覚えている。長袖に隠れた二の腕には鳥肌がびっしりと立っていた。周りの少女達はロマンチックだの愛だのと騒いでいたけれど、何だかそれどころではない様な気がして仕方がない。考えすぎだと、良いのだけれど。
・・・・
かつてショウはヒスイの地に降り立った事がある。アルセウスの気まぐれか、陰謀か。何せよアルセウスのせいで訳も分からず、ヒスイに飛ばされてしまったのだ。その地で全てのポケモンに会うという難易度の高いタスクも言い残して。
その地で散々な目にあった。今よりも断然凶暴なポケモン達に襲われ、人にはこき使われ、挙句には見捨てられる。犯人扱いで糾弾され、それから村を追い出された。勿論、それは既に解決したし、親切にしてくれる人もいたため、そこは特別気にしている事ではないけれど。それでも急に異世界か過去かに飛ばされて、人々に使い捨てられる状況が続けば、元の世界に帰りたいと切実に思うのは至って普通である。
そこで出会った男が、コンゴウ団の長、セキさんだった。リーフィアを傍らに、大きな羽織を掛けた彼は私に優しくしてくれた。異邦の迷い人という事で最初こそ警戒されていたものの、慣れてしまえば友好的な男であった。
そんな彼から思いを告げられたのはヒスイの危機を救ってから数ヶ月後。少し湿地帯に用事があり、そのついでに集落へ立ち寄った際、少し離れた湖の湖畔でセキさんは私を慕っていると私に言った。
「…あは」
その言葉に思わず乾いた笑い声を上げた私をセキさんはジッとセキさんの大きな目が私を真っ直ぐに捉えている。私を探る様な視線から逃げるみたいにして、一歩後退った。
「ショウ…」
セキさんが何か言おうと口を開いた瞬間、私は笑った。その言葉を遮って、聞こえなかったフリをして話題を逸らす。
「……最近、夜になると近くにオヤブンドンガラスが出るんで気を付けてくださいね。またちょっと様子見て事態がちょっと深刻だったらこちらから行動起こしますけど」
そうして私は『それでは』と言ってアヤシシを呼んだ。そこからコンゴウ団の集落に行く事は無かったし、コトブキムラ以外でセキさんと会う事はなかった。セキさん側は何度か接触を試みようとはしていたらしいけど。
全てのポケモンを集め、仲間になったアルセウスを連れてヒスイをもう一周巡ったその数日後、私は現代へ戻った。ヒスイで過ごした時間は何もかも無かった事になって、ヒスイに行く前の時間に私は戻されていた。
そうして元の世界で高校、大学と進んだ。ヒスイの事は今も記憶に残っているけれど、もう戻りたいとは思わない。ただ誤魔化して振った手前、セキさんの事が気になるのは自分勝手すぎるけれど、少し興味があった。
ヒスイの歴史書によれば、コンゴウの長は女を娶り、丁度当時の平均寿命辺りで息を引き取ったらしい。どうやら彼はもう私の事なんか気にせずに結婚し、しっかりと時代を生きた様だった。それを見て私は安心した。心の奥底に沈澱していたセキさんへの罪悪感がスゥッと溶けていった感覚がした。
セキさんの事も解決し、心残りは無くなったけれど少し未練はある。あの地に残して来た私のポケモン達がどうにも、気掛かりだった。彼らはしっかりと生きてくれたのだろうか。彼らを手渡した人達は最後の瞬間までポケモン達を可愛がってくれたのだろうか。自分の手元から離れてしまったあの子達が忘れられなくて、帰って来てすぐにコリンクを捕まえた。
ヒスイの地よりも人懐っこく、愛想の良いコリンクはやっとルクシオになったばかりである。あの地ならばもう既にレントラーへ進化しているのだろうけど、バトルする機会もレベルを上げるための道具も、そうそう無いこの時代に、あんな素早い進化は出来ない。ただ、この子がいるだけで心残りが少しだけ和らぐ様な気がするのだ。
気が向いた時に私がいなくなった後のヒスイの歴史を調べている内に、民俗学や歴史に興味を持った私は大学で史学部を選択し、講義を受けている。今期受けている講義の中にヒスイの歴史を学ぶ、ドンピシャな講義があった。教授の話を聞くたびに、確かにそうだっただとか、今後はそうなっていくんだとか懐かしさと新しい発見が出来て非常に有意義な時間だ。今となってはあれも良い思い出である。
ただ、あの日記の言葉だけは心に突っ掛かりを残した。あくまでもコンゴウ集落やヒスイの発展の様子を描いた書物の中、最終頁に書かれた不自然な愛の詩が強烈な違和感を発し続けていた。
最初は私が姿をくらました後に結婚した女性の事を詠っているのかと思ったが、そうでもなさそうだ。他よりも幾分も粗い筆跡はおそらくセキさんが死ぬ間際に書かれたものである。
もし奥さんの事を言っているのであれば、矛盾が生じていて、実は奥さんはセキさんよりも長生きしているのだ。セキさんが健在している間に彼女は失踪などしていないし、むしろ彼女の前から先にいなくなったのはセキさんの方である。教授もこの詩の見解としては、奥さんとは別に好きな女性がいて、その人とは何らかの理由で一緒にはなれなかったとの事らしく、私の気は重くなった。
自惚れてるだとか、そう思われるかもしれないけれど、私だって気のせいだったら良いなと思っていて。結婚しても最期まで自分だけを見てくれなかったのだから、奥さんには本当に申し訳ないと思うし、生まれ変わりでもしたら他の良い男と是非幸せになってほしいと思っていた。
いつか消えた罪悪感がまた沸々と湧き上がって沸騰し始めている。セキさんを傷付けたくないと気を使った結果、忘れる事すら出来なくなってしまったなんて想像もしていなかった。何もかも捨ててこの時代へ帰って来た事は全く後悔していないけれど、一人の人間をめちゃくちゃにしてしまった罪の意識には苛まれ続けている。
陰鬱とした気分で私はキャンパス内の芝生に腰を下ろす。隣でうとうとするルクシオの頭を撫でて大きく息を吐いた。
「…すっごい曇天…」
悩みすぎか、天気の影響か、なんだか頭が痛くなってくる。まだ四限に講義があるけれど、気分が優れないので帰ってしまおうか。そう考えて芝生から腰を浮かせて立ちあがろうとした時、持ち上げたカバンが開いていたようで中からモンスターボールが転がり落ちてしまった。
「えっ、うっそ!ボールが!」
スピードを上げ、斜面をゴロゴロと転がり落ちていくボール。私もルクシオも突然の事に反応出来ず、その場で棒立ちになるのみだった。しかし急に現れたリーフィアが転がるボールを足で止めた。そしてそれを口に咥えてこちらへ持って来たのだ。
「…り、リーフィア」
「フィー!」
「あー…ありがとね」
セキさんを思い出してしまうからあまりリーフィアとは会いたくないけれど。拾ってくれたのだからちゃんと礼は言わなければ。リーフィアからボールを受け取り、少し微笑んでやればリーフィアは可愛らしい声で泣いた。そして私の足元に身体を擦り寄せる。
「……グゥ」
突然、横のルクシオが低く唸った。自分に甘えるリーフィアに怒っているのかと思って、軽く叱ろうと口を開いた時、どこからか男性の声がした。
「リーフィア」
ルクシオが唸っている。普段は穏やかでのんびり屋で、何よりもお昼寝が大好きなルクシオが鋭い爪を出している。この子にそんな事をさせる人間は何者かと私も顔を上げた時、瞬間に息が詰まる様な心地がした。
「こっち来い」
男の声に従ってリーフィアは私からあっさりと離れていく。『悪いな』と謝罪を述べた男を私を見て優しげな笑みを浮かべた。
「……え」
「リーフィア、苦手だったか?ちょっと臭いが特殊だからな。青臭いだろ」
「…い、いえ…」
「アンタ、ショウだろ?」
この男とは出会った事なんてないのにどうして名前を知っているのかと思った。それが顔に出ていた様で男は照れ臭そうに笑って頬を掻く。
「いや、歴史学の教授が俺の知り合いでさ。偶に用事があって研究室立ち寄るんだけど、その時にお前がいた事あってさ。話聞いたらあのおっさんに偉く気に入られてんじゃねぇか。うちのゼミに来てくれないかってさ」
「は、はあ…」
「俺はセキ。学部は社会学部。…って、あー、…悪い。知らん奴に一方的に知られてても怖いだけか」
名前も、雰囲気も良く似ているというか、一緒だった。髪は短髪だし、服だって現代的だけれど、他人の空似にしてはよく似すぎている。
セキは笑って唸り続ける私のルクシオを見た。ルクシオが人様に無礼を働いているのに、それを止める気すら何だか起きない。心臓はバクバクと音を立てて全身が警戒している。
「…俺、そこまでポケモンに嫌われた事ないんだけどな」
「…ルクシオ」
私が短く名前を呼べばルクシオは黙った。ボールに戻せばよかったけれど、彼と二人きりなのはあまりにも恐ろしい。誰か人がいれば良かったけれど、周囲には誰もいないからせめてルクシオだけでもいて欲しかった。
「…なあ、アンタ今から暇?」
「…なんですか」
「俺、アンタの事気になっててさ、ちょっと話出来ればと思ったんだけど。良かったらカフェとか行かね?コーヒー奢るぜ」
「…ごめんなさい。私ちょっと体調が悪くてこれから帰ろうと思ってたんです」
「そうなのか。そりゃ引き止めて悪かったわ」
セキは思っていたよりもあっさりと身を引いた。私は彼に一礼をしてルクシオを連れ、そそくさと退散する。もう授業なんてどうでも良くて、重たい身体を引き摺って、ふらふらの足で自宅へ戻った。

前世を信じている程、虚ろなところはないと思っているけれど。運命を信じるくらいのロマンチストさはある。例えば自分と同じ名前で、似た様な姿の先人に親近感を持ったりだとか。
自分の先祖の事なんか全く知らないし、歴史にも大して興味も出ないけれど。歴史好きの曽祖父からはずっと昔から村の長が写った白黒の写真を片手に、お前はご先祖様に良く似ているなと言われ続けていた。もしかしたら生まれ変わりなのかもと親族内では囁かれていたけれど、生まれ変わりなんてあるはずもないだろうと曽祖父相手に鼻で笑った両親のおかげで、俺は現実主義的に育っていった。
お化け屋敷の様な曽祖父の家をイーブイと探検していた時、押し入れの奥底にあった本に挟まっていた写真を見つけた。手に取り、見てみるとそこに写っていたのは一人の少女だった。特徴的な着物に身を包み、今と少し違う姿をしたジュナイパーと並んで写っていた。ポケモンは勿論気になるけれど、それ以上に俺は、写真に写る可憐な少女に惹かれた。
同じクラスの女子よりも、街行く綺麗な女性よりも魅力的な少女。けれど彼女はもう生きているはずもない人で。タイムスリップでもしない限りは言葉を交わす事すら出来ない。昔の人に恋をした哀しさというか、空虚さがじんわりじんわりと胸に染み込んで、どんどん苦しくなっていく。その度に俺は写真の裏に書かれた彼女の名前を呟いた。
「ショウ」
名前だけで心の隙間が埋まっていく様な気がする。照る太陽を思い起こす様な眩い名だ。その名を呼んだら、彼女はどんな顔をして、どんな声で返事をしてくれるのだろうか。
高校教師をしていた祖父の元へ、一人の男が訪ねて来た。四十代後半の男は大学で教授をしているようである。専攻は史学で特にヒスイ地方の研究をしているようだった。
男が祖父を訪ねた理由はそのヒスイの研究をするためである。ここはあのコンゴウの長である男の家系なのだし、祖父が所持する曽祖父の家からは価値のありそうな古い書物が何個か出て来ているのだから、ヒスイの研究をする人間が訪ねて来ても何もおかしくはなかった。
当時中学生の俺と会った教授は俺の名前を聞いて『コンゴウの村長と同じ名前だね』と笑った。俺は『じいちゃんにもひいじいちゃんにも言われた』と返すと、教授は『先生は歴史の先生だったから、自分の家系の話とかもよく聞かせてくれたんだよ』と言った。そんな教授に俺は彼女の写真を渡して聞く。
「この人は誰」
「…うーん」
写真を見た教授は唸る。おそらく長が書いたであろうボロボロで保存状態の悪い手記の間に挟まっていた写真なのだから、彼女はきっとコンゴウの長、セキの嫁か何かだろうと思っていた。けれどヒスイの事を誰よりも知っているはずの教授は悩む様な声を上げた。
「…誰だろうか」
「知らないんすか?」
「うぅん。セキの妻とも特徴が一致しないし…どちらかと言えば、『翡翠冒険記』の主人公と特徴が似ているような気がするね」
「ひすい、ぼうけんき?」
「かつてヒスイへ来日したラベンと言う博士が執筆した冒険小説だよ。おそらく当時起こった時空の歪み問題とヒスイの危機を題材にした物語だね。ノンフィクション小説みたいなものだ」
「ふぅん」
「まあ、海外では有名だけど、ここではそこまでの知名度じゃないからね。教科書にも、学校の図書館にも多分無いと思う」
「そうなんすね」
そんなものがあるのか。歴史の授業には特別な興味は大してないけれど、翡翠冒険記は何だか気になる。翻訳版をどこかで探してみるかと決めたところで、俺は教授から写真を受け取った。
「まあ、多分、服装からしてギンガ団の団員の一人だろうし、一般人じゃないかな」
「ギンガ団…?」
「ヒスイがまだ開拓途中だった頃、その土地を調査、発展させるために発足した調査隊みたいものだね。結果的にその地に永住して、それが今のコトブキシティになった訳だ。ギンガ団団長のデンボクは教科書にも載っているだろうけど、ギンガ団は彼だけじゃない。平団員達も沢山いた訳で、この子はそのうちの一人だと思うよ。今のシンオウの礎を築いた、名の知られていない功労者の一人だ」
「へぇ…」
「しかし珍しいね。ヒスイ時代の書物にはポケモンは恐ろしく、脅威的なものと書かれていたけれど、彼女はポケモンに対してこんなにも優しい顔をしている。当時の人間にしてはかなり珍しい感性をしている人なんだろうなぁ」
ジュナイパーに手を添え、寄り添う彼女は昔の人間と言うよりも、何だか現代的な雰囲気がしてとても親近感を覚える。ポケモンにも人にも、きっと優しい人だったんだ。絶対に会えない彼女の事が、俺はどんどん好きになっていった。
そうして恋心を拗らせ続けてはや数年。無事に大学生となり、交流のある教授がいる大学へ入学した俺だが、気付けば二回生になっていた。
まだまだ必修科目が多く、時間割に余裕が無い。今日は大学は休みのはずなのに、レポートをするために大学へ来ていた。図書館に篭って本を探し、今は休憩中でキャンパス内の芝生に寝転がり、頭を休ませている。
「はぁ…さっさと書き切って帰るか」
「フィ〜!」
「…リーフィア、後で久々にポケモンラン行くか?」
「フィ!フィア!」
休憩に付き合ってくれている相棒にそう声を掛ければ、嬉しそうに飛び上がった。ふわふわの頭の撫でればリーフィアは気持ち良さそうな声を上げる。その様子に顔を綻ばせていると、休みにも関わらずキャンパス内が騒がしくなっている事に気付いた。
「……もしかして今日オーキャンか?」
朝早くから図書館に来ていて分からなかったが、騒がしい理由はおそらくオープンキャンパスである。大学のTシャツを着た学生が、制服姿の少年少女達を案内していた。
「高校生眩しいわ…」
遠くからも分かる若々しさに目を細めていると、一人、一際目を引く学生がある。ネイビーの髪をポニーテールに結んだ、大きな目の少女だ。彼女を見た瞬間、俺は身体を起こした。
「ショウ…!」
オープンキャンパスに来ている、制服姿の少女は俺が大切にしている写真の彼女にひどく似ていた。急いで立ち上がった時にはもう史学部の研究棟へと入っていて、声を掛ける事は出来なかった。俺の心臓はひたすらにバクバクと大きな音を立てて拍動していた。
その日、夢を見た。ギンガ団の隊服を着た彼女、ショウが目の前に立っていた。綺麗な海辺に俺は彼女と立っていて、沈む夕日を見つめていた。
『そろそろ皆さんのところ、帰らないとダメじゃないですか?』
『お前こそ、夜は危ねぇだろ。そろそろコトブキムラへ帰らなきゃな』
『夜に調査する事もありますし、私は全然平気なんですけどね。でもまあ、特にやる事もないし、村帰ろっかな』
『送るよ』
『一人で帰れますよ〜』
『良いんだよ。黙って送られてくれや』
『うわぁ、色男ですね、セキさん』
ショウは俺の…違うな。多分、コンゴウの長である男の名を呼んだ。きっと夢の中で俺はセキになっていて、コンゴウの長、ギンガ団の団員として横に並んでいる。いつぞやの教授は平団員だと言っていたけれど、平団員如きが集落の長の隣にこうも対等に立てるものなのだろうか。
こればかりは俺の気持ちで、当時のセキとは違うのかもしれないけれど、彼女に対するほんのりと温かな感情は、本当に彼女が一般人だったのかと疑念を持たせるには十分だった。所詮夢なのだから、内容など詳細に覚えてはいないけれど、淑やかに笑う彼女がひどく輝いて見えた事だけは覚えている。
そこから、あの日見たショウの様な少女とは一度も会えていない。それもそうだ。高校生の彼女と、大学生の俺では活動時間が違いすぎる。あれはどこの制服だろうか。彼女は何と言う名前だろうか。もしショウだったら。ショウでなくても、俺は彼女と繋がりたいと思った。
彼女と会ってから俺はヒスイの夢を見るようになった。コンゴウの長のセキとして、コンゴウの人と交流したり、コトブキムラへ行ったり、ショウと話す夢だ。夢にしてはとてもリアルで、何だか本当にその時代にいた様な気がしてくる。
最初の頃は楽しく、幸せな夢だった。けれどショウに告白をして、セキの決死の覚悟と想いを笑ってはぐらかされた夢を見た数日後。急にショウが姿を消していなくなったところから、何かがおかしくなっていった。分厚い雲がかかる、曇天のヒスイでセキはただ俯いていた。目を瞑って夢を見ると、嫌でもセキの薄暗く重たい感情が流れ込んでくる。それはすぐに俺の頭の中を満たし、脳髄の奥深くまで侵していった。
『どうしていなくなったんだ』
『俺の言葉にどうして何も言ってはくれなかった』
『元の世界へ帰ったのか』
『この地に俺を残して?』
『俺から逃げたのか?』
『どうして?俺の事が嫌いだったのか?…いいや、違うな』
『ショウのいる世界へ行くには…ディアルガ様やアルセウスに…それはショウにしか出来ない事か』
『色々な書物を読んでいると、生まれ変わりというものが存外、存在していると聞く』
『そうか』
陰鬱とした男の感情が流れ込んできて気分が悪くなっていく。目覚めは最悪だった。身体も心も重たくて、カーテンの隙間から差し込んでくる朝日が酷く煩わしく感じた。
夢の男は俺ではなくて、きっと当時のセキで。俺はどうしてかコンゴウの長の記憶を疑似体験する様な夢を見ている。彼女に想いを告げて、振られたのかすら分からない曖昧な態度で誤魔化されて、すぐにショウはセレビィの様に消えていなくなってしまった。
「元の世界へ帰ったって、何だよ」
この世界に住むポケモンと言う生き物は、人間が考えうるよりもずっと、超常的で優れた能力を持っている。伝説のポケモンであれば、尚更だ。セレビィの力で時渡りをしたと言う事象や、ジラーチに望みを叶えてもらったと言う話が過去を遡れば沢山出てくるのだから、案外タイムスリップだって出来てしまうのかもしれない。時間を司るディアルガや、世界の創造主たるアルセウスなら特に。
「元の世界って、それならショウは今どこにいる?」
「フィ」
「まさか、あの高校生が?」
あの高校生は彼女なのかもしれない。彼女はセキが想いを寄せていたショウなのだろうか。
どうして、いなくなった。俺の前から消えたのは何故?俺がいるのにお前は帰ったのか。ヒスイの地がそんなに嫌いか。コトブキムラの連中は冷たくても、俺は、コンゴウ団はお前を歓迎したのに。居場所にはなれた。俺の隣で、一緒にヒスイの夜明けを見てほしかった。ずっと側にいて欲しかったのに。ショウの事は大切にして来た。未来だってほんの少し、考えていたのに。巫山戯るなよ。優しくした俺が馬鹿だった。こんな事になるなら強引で良かったんだ。もう絶対に逃す様な事はしない。
「フィアッ!」
呪詛の様な男の声が頭の中に反響していく。酷い眩暈がして視界はぐるぐると回った。浅い呼吸しか出来ず、毛穴から汗を噴き出して蹲っていると足元でリーフィアが鳴いた。大きな声で叫んだ相棒は俺の脛を蹴ってまた叫ぶ。正気に戻れとも、大丈夫かとも案じる様な彼の様子を見て、俺はやっと落ち着いた。
「…悪い、リーフィア。ありがとな」
「フィー!」
「ああ、うん。ごめん。俺は大丈夫だから」
「フィ!フィアフィ!」
俺の寝巻きの裾を噛んで離さない。今日は大事を取って大学にもバイトにも行くなという事だろうか。でもまあ、本当にどこへも行く気分になれないのは本心だ。出席日数だけで言えば単位は問題無いし、バイトだってまだ休んだ事はないのだから休みすぎなんて怒られる事もない。
今日くらいは良いかと息を吐いた俺はまたベッドに横になる。更に長く溜息を吐いて目を瞑っているとその内眠ってしまった。自分が今色々考えたって、何も始まらないだろう。幸にも二度寝中に目覚めの悪い夢を見る事はなかった。
それから数ヶ月経ち、気付けば四月になっていた。校内では新入生が増え、俺も無事進級して三年生になっていた。ああ、就職活動について考えなくちゃだとか、卒論はどうしようだとか色々考える事はあるけれど、それでもどうしたってショウの事が頭から離れなかった。
「顔色が悪いね、セキくん」
「あー、はは。最近あまり寝れてないんですよね」
「大丈夫かい?あまりにも酷いようだったら病院へ行った方が良いよ」
「はい」
その寝不足の理由が変な夢のせいだなんて話せる訳がなかった。俺は疲れたような顔を出来るだけ隠して、誤魔化すように笑っていた。
ふと、教授のデスクを見るとそこには可愛らしいクッキーが置かれていた。お菓子より煎餅を買いがちな男が珍しいと目線を向けていれば、教授はそれに気付いて『僕じゃないよ』と訂正を入れる。
「勉強熱心な新入生がいてね、ヒスイの事が詳しく書いてある本はないかってわざわざ聞きに来てくれてさ。それで答えたらお礼にクッキーくれたんだよ。マメな子だよね」
「随分と丁寧な奴だな」
「史学部の子だからね、僕も一年生の必修科目受け持ってるし、その子には特別に何も無しで単位あげたいなって思っちゃったよ」
「それはダメですよ、流石に」
「やらないけどさ」
教授は楽しそうに笑った。随分と意欲に溢れた新入生である。『俺には真似出来ねぇわ』と感心していると教授が喋り出す。
「そう言えば」
「何ですか」
「あの子、随分と前に君に見せてもらったギンガ団の少女に良く似ていたなぁ」
俺は思わず、『はぁ!?』と声を上げてしまった。その声に驚いた教授は目を丸くする。それに構わず俺は、教授を問い詰めた。
「ソイツの名前は」
「えっ、セキくん?」
「ソイツの名前!」
「ああ、ええと…」
本人の預かり知らぬところで勝手に名前を教えていいものか。悩ましげに眉を寄せた教授だが、セキのどこか切羽詰まった様な様子を見て小さな声で呟いた。
「ショウさんって子だよ」
俺が手に持つ写真の彼女に良く似た少女。時空を超えてやって来た一人の女、『ショウ』。セキが想いを伝えた数日後に元の世界へ帰ってしまった人。
あと少しで確信に迫れそうな気がした。名前が同じで、姿が良く似ている。そんな人はこんなにも簡単に見つからないはずだ。もしかしたら本当にそのショウが写真の、セキが恋焦がれていた『ショウ』なのかもしれない。
呼吸が乱れ、気が気でない様子の俺を教授は心配する。『奥のソファーで休んでいくかい?』と労る男の言葉を断り、俺は痛む頭を押さえて家へと帰った。まだ授業は残っていた。
『セキ、気持ちは分かるけれどずっとそんな暗い顔をされたらこっちも気が滅入っちまうよ』
『……』
『そもそもショウは、元の世界へ帰ったんだ。あるべき場所、いるべき場所へ戻ったんだよ。全部元通りになったんだ。それで良いじゃないか』
『………』
『あの子をこれ以上、この地に縛りつけるって言うのは、アンタの我儘でしかないの、分かるかい?ショウはこの地で生きる事を望んでいない。だから帰って行ったんだ。…もうショウの事は忘れな。彼女はヒスイを救った英雄様だ。ただそれだけ。アンタは何も関係無い。アンタの言葉で言えば、こんな事をしている時間が』
『なあ、ヨネ』
『何さ』
『嫁を取る。適当に女を見繕ってくれ』
『…………は?』
『アンタの言うとおり、こんな事をしている時間が無い。一刻も早く誰かと契りを結んで子供を産ませる』
『え、ちょ、ちょっと…どう言う気の変わりようだい?』
『女作ってガキこさえて、ショウのいる時代まで血を絶やさなきゃあ、良いんだよなぁ』
『…セキ。ねぇ、アンタ、何考えてるの』
『そしたら運良く、ショウがいる時代に生まれ変われるかもしんねぇなぁ』
背中にゾッと悪寒が走る。言葉に詰まったヨネを見て、セキは目を細めた。
『博士の言っていた、願いを叶えてくれるポケモンがいれば、確実なんだがなぁ。博打みたいになっちまうな』
『…アンタ、大丈夫かい?正気じゃない』
『俺が結婚してガキこさえる事は、コンゴウの奴ら全員が望んでる事だろう?じゃあ良いじゃねぇか』
そう言われてヨネは言葉を返せなかった。確かに結婚して世継ぎを産み、世代を繋いでいく事を望んでいたけれど、手放しには喜べない。綺麗に笑うセキが何だか酷く歪んで見えて、ヨネは気味の悪さを感じて鳥肌を立てていた。
『お前が逃げるなら、俺が追いかければいい』
目が覚めた。全身汗まみれで、目覚めは最悪だった。汗で冷えている身体を摩り、俺は時計を見る。まだ朝の四時だった。授業にもバイトにもかなり余裕がある。けれどもう、寝れそうにない。
「な、なんだよ…なんなんだよ…」
気分が悪かった。強い酒を飲んで酔った気分だった。俺の想いは、純粋だったはずだった。
ただ写真の少女に恋をしてしまっただけなのだ。まるで曲の歌詞の様な、そんな想いを抱いてしまっただけだった。純粋に好きだった。
けれど、今は違う。俺はセキじゃないのに。もしかしたら俺は、セキの生まれ変わりなのかもと思ってしまう。だがこんな夢を見ても記憶の一つも蘇らないし、今も自分の事とは到底思えなかった。映画の様な、ドキュメンタリー番組の様な、そんなものを見ている様な心地だった。
だが、今まで抱いて来た彼女への想いが、真っ黒く塗りつぶされていくのが分かる。執念と執着に容赦なく上書きされていくのを感じた。
「…ダメだ。ダメだ、ショウなら、追いかけなくちゃ。逃げないように閉じ込めておかねぇと」
怒りと、絶望と、行き過ぎた好意が溢れて止まらない。俺は、コンゴウの長なんかじゃない。あの男とは違うのに、そんな記憶は何も無いのに、自分の心が塗り潰されていく。
「好きだ、ショウ。もういなくなるな」
『もう』も、何も他を知らない。ショウとはまだ、お互いを認識した事はない。話した事もない。だから、一度目もない。『もう』はおかしい。
ダメだ。自我が飲み込まれていく。

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