Bizarre!

前の世で人を殺したという事だけは覚えている。ギリギリと子宮が痛み、股の間から血が太腿を伝った瞬間に私は罪を思い出した。
人を殺したくせにどうして畜生や羽虫風情に落ちぶれていないのかはどう考えても分からなかったが、生まれた瞬間から顔にあった醜悪な傷と気候の変動だけで崩れてしまう脆弱な身体がその代わりだと考えると妙に納得がいった。そのせいで他人に気味悪がられ蔑まれて生きて来たが、それが因果応報というやつなのかもしれない。そう思うと心が軽い。
そうだ、人の命は尊ばねばならない。自身の信念と事実の乖離を理解した瞬間、どうしてだか他人の蔑みが心地良く感じてしまった。自分の命を軽んじる誰かの存在がまるで神の様に思えた。どうでも良いと思うのならばいっそ殺してくれと邪神に縋った。けれど一向に死は訪れなくてきっとこれが地獄なのだろうと私は咳のしすぎで痛む喉に空気を流し込み、無理矢理呼吸をした。そのせいでまた咳をする。喉の奥から吐き出された血が床を汚した。
それでも祖父だけは私の事を可愛がっていた。体調を崩した時は仕事を早く切り上げて帰って来てくれる。しかしギャンブル好きのせいか多額の借金を背負っており、祖父は近隣からは疎まれているらしい。そんな事は別にどうだって良い。私にとっての祖父は厳しくも優しい親代わりだった。
風邪というわけでも花粉症というわけでもないけれどマスクを着け、フードを深々と被り高校へ登校する。自身の弱い身体を鑑みて家から近い高校を選んだ。だから今はゆっくりと通学路を歩いている。気味の悪さに通行人がチラチラとこちらを見ているが特に気にはならなかった。
風に吹かれるたびに身体を震わせ、咳をこむ。突然強い眩暈がして塀にもたれかかった。ふつふつと感じる吐き気を堪えるために目を閉じ、息をする。
「虎杖」
聞き覚えのない男性の声で自分の名が呼ばれた。目を開け、驚きで顔を上げる。そこにはスーツを着込んだ男性がいて、こちらを見てうっとりとした表情を浮かべていた。
だれ
「会いたかった。ずっと探してたんだ」
そう言うや否や、彼は私を抱き締める。どれだけ思考を巡らせようとその男性に覚えは全くなく、ぎゅうぎゅうと締まる腕の力の強さに眉を顰めた。
「女だったなんて、それはどれだけ探しても見つからないはずだ。虎杖、虎杖
彼は私の名前をしきりに呼んだ。何とも言えない心地の悪さに黙り込む。
「虎杖、着いて来てくれ」
は?」
「学校なんて一日くらい休んでも問題ねぇよ」
知らない人には着いていけない」
「俺は禅院恵だ」
残念だけど、知らない
「とりあえず来てくれ。勿論酷い事はしない。約束する。だから虎杖、お願いだ。一緒に来てくれないか?」
そう頭を下げて懇願されれば私は断れない。差し出された手をおずおずと取れば目の前の彼は笑った。
連れて来られた場所はとても大きな館だった。自分の住む古民家とは似ても似つかない。横に立つ彼をチラリと見ると安心させる様に優しく微笑んだ。
「虎杖はこれから俺の婚約者になるんだ」
……何で、あたしなんか」
「オマエだからだよ、虎杖」
奥の部屋に通され、彼にエスコートされソファーに座った。身体が沈む、見るからに高そうなソファーだった。
「オマエの祖父の借金を返す事を交換条件にオマエの嫁入りの権利を貰った」
祖父がそんな事であたしを売る様な人間とは思えないんだけど」
「お爺さんは今のボロ屋じゃオマエの身体は悪くなっていく一方だと嘆いていた。今は、身体が弱いんだな」
「昔から身体が弱くて」
「そんな病弱も治る様な生活環境を与えてやってくれとお爺さんのお願いだ」
……そう」
「彼の生活援助はさせて貰う。お爺さんの事は安心してくれ」
「ありがとう」
私は頭を下げる。借金を肩代わりしてくれた挙句に生活の保証までしてくれるだなんて頭が上がらない。彼は気にしないでくれとまた笑った。私は誰かに優しくされる程、出来た人間ではない。
「貴方は、変わった人。あたしを娶ってどうするの」
「守らせてくれ」
「何から?」
「全てからだ」
「全て?」
「俺に守らせてくれ。どうか、大人しく守られてくれ」
「あたしを守っても利益なんてないし、そもそもあたしを娶ってもきっと得なんてないよ。歓迎だってされない。顔に傷のある女なんて醜いだろ」
……誰かにそう言われたのか?」
彼の纏う空気がツンと冷たく張り詰めたものに変わる。肌を刺す雰囲気の中、私は息を吐く。そのまま空気が私の肌をつん裂き、切り裂き、殺してくれればと思った。
「まぁ、いい。虎杖に怒ったって仕方のない事だ」
「変な人。会ったばかりの人間のために怒れるんだね」
「オマエもそうだろ」
他人に蔑まれる事を、見捨てられる事を望むくせに人の事は好きだった。私は世界も人間も嫌いになれないのに嫌われる事を望む、中途半端な人間だった。他人と大した干渉をして来なかったから、他人の事で怒れるかどうかなんて分からない。
「一週間後には婚約発表をするからドレスを着てオシャレをしよう」
「似合わないよ」
「きっと似合う」
彼は私を見てまた優しく笑った。その優しさが痛い。存在を望まれている様だった。これでは死ぬ事が許されないではないか。
早く死ねと言わんばかりに咳が込み上げてくる。ゴホゴホとすればする程止まらなくなって喉の奥から吐き気を感じた。彼は私の隣に座って背中を摩っている。その手を払いのければ幻滅してくれるだろうか。いや、私には出来ない。私はもう他人を傷つけたくなかった。
咳が止まり、口を押さえていた手を見る。そこにはベッタリと血が付着していた。その血を私がマジマジと見るより先に彼はティッシュを取って拭き取る。
ごめん」
「辛かったら言ってくれ。我慢すんな」
……うん」
きっとどれだけ症状が酷くなろうと、何か病気に罹れども告げる事はないだろう。体の中の猛毒が私を巣食ってくれるのならそれでいい。
「とりあえず部屋で休め」
「うん。お言葉に甘えさせて貰うな」
ゆっくりとソファーを立ち、彼の案内の元部屋に向かう。一歩ずつ足を踏み出すたびにクラクラと小さな目眩を感じた。

*****

教卓の隣で無愛想に真顔を見せる彼に私は驚く事もなく下を向いていた。彼と私は同い年だったのか。昨日は随分と年上に感じたが、学生服を着ると確かに年相応さを感じる。
空には分厚い雲が掛かっている。絵に描いた様な曇天で、頭がズンと重い。薬を飲んで来たにも関わらず、酷い頭痛が頭のみならず身体をも支配していた。
彼の自己紹介の声も先生の話も、チャイムの音でさえも頭痛に阻まれ聞こえない。頭を抱え、机に顔を押し付け目を瞑る。
「虎杖」
………ぜんいん、さん」
名字で呼ばれるのは好きじゃない。恵とは呼べないか?」
恵」
「大丈夫か?」
「うん」
「嘘だな」
意識はグラつき、喉元から吐き気を感じる。耐えるために握った拳は小さく震えていた。彼はその手を優しく握り、私の背中を摩る。
教室は静まりかえっていた。来たばかりの格好良い転校生が化け物を甲斐甲斐しく看病しているのだ。その異様な光景に誰もがただ見るだけで何も言えなかった。
「早退するか?」
「いい少しでも出席日数稼いで、酷い時にちゃんと休める様にしたい」
「今は酷い時じゃないのか?」
「大丈夫」
頭は痛いし気持ち悪いけれど息はちゃんと吸える。冷たい空気は簡単に喉を通っていった。
彼もそう言う私に何も言えず、席へと戻っていった。辛うじて耳に入って来たチャイムの音に気付き、重たい身体を上げる。チャイムから少し遅れて教科担当の教員が入って来た。
重い身体に鞭を打ち、昼休憩まで何とか耐える。もう身体は限界で机に倒れ込んだ。光と音の全てを遮断し、大きく息を吸って吐くこの瞬間が一番楽だった。
彼は級友達に囲まれ、質問攻めにあっている様だった。聞き耳を立てる程の元気は無いし、別段興味も無い。
「ねー、虎杖サン」
耳元から女性の声がした。辛うじて顔を上げて横を見ればそこには大して話した事もない女子生徒が取り巻きを連れて立っていた。
「禅院さんと知り合いなの?」
……
「寝たフリなんかしてないで教えてよ」
「知り合い、だと思う」
「本当にそれだけ?知り合いにしては随分と親し気ね」
「そんな事ないよ」
「あっそ。良いわね。貴方みたいな傷モノがあんなイケメンと関係持ってるって。人生イージーそうで羨ましいわ」
頭の痛さに彼女の言葉の三分の二程が耳から抜けて消えていく。何を言ったのかほとんど覚えてはいないがきっと私を貶す言葉を放ったのだろう。言葉の棘が深く刺さっていく。きっとこの人達は私が死んでも何事も無く毎日を過ごしてくれる。
心地良い疎外感と惨めさに息を吐き、目を瞑った。ただその後すぐに聞こえた人が倒れる大きな音に『えっ』と零し、顔を上げた。
尻餅をついた彼女は頬を押さえていた。訳が分からないと言う顔で見つめる先には恵がいて、冷たい顔で彼女を見下していた。
「オマエ如きが虎杖を貶すな」
「はは?貴方、何様のつもり?」
その言葉には答えず、恵は顔の向きを変えて取り巻きの女子生徒の元へ歩いた。そして何の躊躇も無く彼女の首を掴んだ。その手にギリギリと力を込める。
っは、あ」
「ちょ、な、何してんの!?殺す気!?」
「ああ」
「ああって!」
手に入った力は一向に緩む気配が無い。女子生徒は苦し気に喘ぎ声を上げる。教室の空気が凍り付く。恐怖で誰もその行動を止める事は出来ず、手の力は強まるばかりだ。
私は勢い良く立ち上がる。強い目眩を感じたがそれを堪え、恵の元に縋り付く。
「誰かのためでも、他人を傷付けちゃダメだ」
……
私が言うと恵は手を離した。女子生徒は咳き込み、床に座る。
「恵が、あたしの事大切に思ってくれるのは、嬉しいけどだからって、他人を傷付ける事が、正当化される訳じゃ無いでしょ」
……優しいな、オマエは」
私の首筋を撫で、安心させる様に優しく微笑む。そして座り込む女子生徒に向き直った。
「さっきはすまなかったな」
……あ、わ、私こそ、ごめんなさい」
二人が謝る中、私は耐え切れずに倒れた。恵のセーターの裾を握り締めて教室の床に座る。恵はそれに気付いてしゃがみ、私の顔を覗き込む。
「真っ青じゃねぇか」
「あと、二時間だから、耐えれる」
「無理して倒れたら元も子もないだろ!保健室行くぞ」
恵は私を抱き上げ、問答無用で保健室へと連れて行く。正直、耐えられると言ったものの体力も意識も限界だった。恵に揺られながら目を瞑っているといつの間にか眠ってしまった様で、目を覚ました時に見えた光景は保健室の白い天井だった。
頭は痛いけれど寝たせいか少し体力も回復したため、教室に戻る。教室のドアを開けた瞬間、クラスメイトは一斉にこちらを見て目を逸らした。あんな事があったらそれは注目もされるだろうとたかを括り、自分の席に着く。
「虎杖、大丈夫か?」
「ちょっと、良くなった。運んでくれてありがと」
「そうか。今日は早く帰ろう」
うん」
安心した表情をして自分の席に戻ろうとする恵を止める。何だと振り返った彼に軽く頭を下げた。
「あたしのせいで貴方を悪者にしてごめんなさい」
「どうして、オマエが謝るんだ」
「恵まで、あたしみたいに除け者にされる必要なんてない」
「そんな事どうでもいい。でも、オマエがそんな悲しそうな顔をするなら控える」
「そう、して」
それだけ言うと私は席に着いた。チャイムまでの後数分をぼんやりと過ごす。汚く消されて薄く残った黒板の文字を何となく見つめていたせいか、私の後ろでクラスメイトに睨みを効かせて圧を掛ける恵には気付かなかった。
帰りは送迎の車に乗って帰る。隣の席には恵が座っており、私の膝に掛けられたブランケットを直した。
ねぇ、恵」
「何だ?」
「何の躊躇いもなく人の首を絞めれるんだな」
「そうだな」
昨日、説明された。どうやらこの禅院家は日本の裏社会を牛耳る、所謂ヤクザらしい。家にいた人や車を運転する人の厳つさから何となくそうではないかと感じていたため、別に驚きもない。
……あたし、前世ですげぇ沢山他人を殺したみたい」
「虎杖」
「嘘みたいな話だけど、多分本当。何となくそう思う。あたし、恵が思ってる程良い人じゃないよ」
「そんな事ない。俺は、俺の良心を信じてる。俺が助けたんだから、オマエは善人だ」
ねぇ、恵。あたしを殺してくれない?」
私の言葉に恵は頭を振った。肩を掴み、縋り付く様に頭を垂れる。
「どうして、そんなの、前世の話だろ今は、人殺しなんかしてないだろ」
「うんでも、前の世で殺した人達への償いはしきれてないと思う」
「そんな事ない、そんな事ないんだ虎杖。どうして、どうしてまた死のうとするんだ、虎杖、やめてくれ、嫌だ虎杖、オマエは死んで良い人じゃない」
「生きてて良いとも思わないんだ」
「こうして生まれ変わったのに、俺はまた沢山奪われるのか?」
「生まれ変わった?」
「人なら、俺だって殺した」
それは、前世の話?」
半笑いでそう聞いた。冗談だと思った。しかし恵は首を振り、真剣な顔で言う。
「二ヶ月前」
…………は?」
「現当主から譲り受けたコルト・ガバメントで、撃ち殺した。二ヶ月前に、五人」
……え、ま、待って、本当に?」
「そう言う仕事だったんだ。後、半年前に三人、十ヶ月前には一人。これはトカレフでぶち抜いた」
うそ……
首を振って否定してみるけれど恵は首を振らなかった。冗談だと笑う素振りも見せず、ジッとこちらを見つめている。
「俺はオマエが思ってる程良い人間じゃない。分かるだろ?手は真っ赤だし、死んだ人間の顔なんかいちいち覚えてない。きっと殺した人数だって一年経てば忘れる」
「そんな、命は軽いものじゃ
「オマエがその程度で死ぬんだったら俺も死ぬ。だから、俺を生かすためにオマエも生きてくれよ。共犯者として、俺と生きてくれ」
共犯者。共犯。私達は同じ。言葉が心に響いていく。ひどく安心する言葉だ。
「共犯、ね」
私は目を瞑る。『分かった、生きる』と頷いた。少しだけ息がしやすくなった様な気がした。

1つ前へ戻る  TOPへ戻る