それは両の手から溢れて止まらない幸福だった

俺の女の子はちょっと我儘で、気が強くて、優しい。猫みたいに気分をコロコロと変えて振り回してくるのに、俺は不思議と嫌だとは思わなくて。イライラもムカつきも確かに感じるのに、結局最後に心の底から湧き上がるのは愛しさばかり。あまりにも全身に馴染む感情に、俺は毎日浸る。それはその子が奥さんになっても変わらなかった。
俺の両親と同じくらい優しくて愛に溢れていた彼女の両親から、大切な娘さんを貰い受け。今まで名乗ってきた潔という名字を雪宮に変えて。人前で初めて雪宮世一と名乗った俺の妻は名前を言うたびに照れくさそうに笑った。俺はそれがたまらなく可愛くて、意味もなく隣で赤くなった。
「だらしない顔してんなよ、剣優」
穏やかな顔をして発せられる少し強めの言葉だけど、棘は無い。もう俺の事を雪宮とは呼べない彼女から発せられる、ぎこちない俺の名前が耳に届いて。強そうでカッコいいと思っていた俺の名前が、さらに魅力を増した様に思えて。世一といると自分の事をもっと好きになれる気がした。別に元々嫌いでは無いけれど。それ以上に毎秒彼女への愛を更新し続けた。
神様が決めた出会いだとしたら、それはそれでナイスジャッジだし。神様が決めてない出会いだとしても、俺の手で手繰り寄せた努力の幸せだから誇らしい気持ちで。結局神様がどうであれ、俺と妻は変わらない。
「しょうがないでしょ、奥さんが可愛くて仕方ないから」
「……ばーか」
結婚から一年経てど、俺は何も変わらなくて。変わらず彼女の事が大好きで、時折結婚出来たのが信じられなくなるくらい大好きだ。
時はあまりにも速くて、緩やかには過ぎてくれなくて。一分一秒と妻と過ごす時間が減っていくのが口惜しい。
いろいろなところに旅行をして、何気ない日々も写真に残して、近所のスーパーに行くだけで手を繋いで。そんな大切に過ごす日々が、結婚三年目で変わった。子供が出来た。
俺の目の病気は別に遺伝性ではなくて、突発性のものみたいだが。それでも遺伝の可能性は否定が出来なくて、子供を作る事にはあまり賛成出来なかったのだが。気が進まない俺に歩調を合わせてくれた妻との子供が欲しいとやっぱり思ってしまったから。
それでも時折俺は後悔に苛まれる。一緒に入るベッドの中で、泣きそうになりながら弱音を吐く。子供を腹の中で育むのは母親で、父親に泣きそうになる権利なんてないのに。
「遺伝しちゃったらどうしよう。この子がそれで夢を諦めたりしたら…?俺のせいで好きに生きれなかったら」
「…大丈夫、とは軽率に言えないけど、剣優のご両親がしてくれたみたいに私達もこの子の事、支えてあげよう。一番の味方でいてあげるんだよ。それで、剣優は救われていたでしょ」
目の病気で泣き崩れる俺を。玄関で崩れ落ちて動けなくなった俺を、抱き締めてくれたのは俺の両親で。俺の目に気を遣って、目に良い食べ物を作ったり、偏光レンズのメガネやサングラスを買い過ぎなくらい買ってくれたり。その気遣いがこそばゆくて、でも嬉しかったから。もうとっくのとうに答えは出ていたんだと知って、俺は妻を抱き寄せた。
「…そうだね」
俺がメソメソするなんて、世の妊婦さんに見られたら大バッシング間違い無しだけど。世一は『ダセェなぁ、メソメソすんなよ』と彼女らしく悪態を吐きながら、その手は優しく俺の背中を撫でてくれた。どうか、どうか神様。この子は俺が感じたみたいな絶望を、感じる事のない人生を歩めますように。
お腹の子供はあまりにも健康的に育ちすぎ。普通の胎児よりもはるかに大きく成長していると医者から言われ、二人で笑った。『デカいところは剣優似かな』って大きなお腹を撫でる彼女に、俺は『女の子が大きくてもあんまり意味無くない?』と苦笑いで返す。『健康的で良いじゃん。カッコいい女の子になるね』と言葉を返した彼女の大きなお腹を俺も撫でて。
「どんな子でも一番可愛い娘だよ」
「そりゃそうだわ」
「世界で二番目に可愛い女の子だね。ちなみに一番は」
「私でしょ、ハイハイ。ありがとありがと」
「同率一位でもあるけど、敢えて順序をつけるのであればね」
「わかったわかった」
それから、妻は出産間近で病院へ入院した。彼女のいない家は寂しくて、結婚前はこんな一人の生活だったのかと信じられない気持ちで。俺の世界に色を付けていたのは彼女だったんだと感じた。花火が綺麗に見えるのは、夏の空が美しく思えるのは、ベランダに置いた鉢植えのパンジーが鮮やかなのは妻がいるからだった。
俺も仕事があるから行けない日も勿論あるけれど。なるべく病室に通って彼女と話をした。俺の両親が世一の顔を見にこっちへ来る話だとか、未だ迷う子供の名前とか。話をするたびに返事をするみたいに妻の腹を蹴る娘に二人で笑って。出て来たらいっぱいお話ししようねと声を掛けた。そしたらまた腹をぽこんと蹴って、妻が吹き出した。
「かまってちゃんなの、剣優に似てるね」
「………俺別にそんな構ってって感じじゃないだろ」
「え?うそ〜。全然毎日私に構ってほしそうだから」
正直それは否定が出来ないので。少し恥ずかしそうに、拗ねるみたいな素振りをしてみると。『そう言うとこじゃない〜?』とのんびり彼女が笑った。
分娩室のドアの向こうで、彼女が頑張っている。悲鳴みたいな叫び声が時折聞こえ、それから低く唸る。立ち会い出産は恥ずかしいから絶対に嫌だと拒否され、締め出されている俺は無論、応援しかする事がないので。ドアの前の椅子に腰掛けて祈る他ない。神様なんて信じないと昔に決めたくせに、やっぱり神様に縋る癖は抜けていない。
お願いです神様、妻と子供が無事でありますように。妻の苦しそうな声は、出産が命懸けである事を物語っていた。時折席を外して自分の両親や義両親からの連絡に対応し。友人達からの心配のメールに返信しつつ、妻の無事を願っていると。妻の苦しそうな声が止まり、部屋の中が騒ついて。それから微かに赤子の声が聞こえた。
分娩室のドアが開いて、生まれた事を知らされ。案内をされて部屋に入った俺は汗だくでげっそりとした妻を目にして、焦った様に駆け寄った。
「だ、大丈夫?」
「…しにかけた〜」
「し、死ななくてよかった…」
「あは、あんま顔見ないで〜…今すごい疲れてるから〜はずかし〜」
疲れてようがなんだろうが、妻が可愛いのは変わらないから恥ずかしがる必要なんてない。疲労し切った表情で照れ臭そうにはにかむ妻はやはりいつもと変わらず可愛かった。
「私のことばっかじゃなくて、子供のこと見てあげてよ」
俺は彼女の横に寝かされた、タオルに包まれた小さな生き物を見る。しわしわであまりにも小さな人間は、初めて触れた外界の空気を堪能しているのか、覚束ない様子で口を開閉する。俺は看護師さんに触れて良いか一度確認し、頷いたのを見て手を伸ばす。指の腹で赤ん坊の頬を撫でると少しだけ頭を動かした。
「普通の子より全然おっきいんだって」
「……女の子なのにね、おっきく生まれて、ほんとに可愛い子だ」
ニコニコと嬉しそうな看護師さんに『お父さんも抱っこしますか?』と聞かれて頷かないはずがなく。彼女を包むタオルごと手渡され、人間とは思えない軽さを全身に感じ。空気を掴む様に手をぎこちなくグーパーする娘が愛おしくて笑った。
「お疲れ様、世一。ありがとう」
「うん」
「ゆっくり休んでね」
「ありがと」
「お前が生まれてもやっぱりパパの一番はママかなぁ」
「今言うことじゃねーわ、ばか」
照れ臭そうにへにゃりと笑う妻はやっぱり世界で一番可愛くて。腕の中の大きいけど小さな君が大きくなっていくところを、そんな妻と見守れるのが堪らなく嬉しくて。そんな俺の人生を神様が決めていても決めていなくても、これから先も幸せなのは変わらないんだろうなって、そう思う。

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