今日、旦那の秘密を覗いてしまった。忘れたくてちくわの中身を覗いてみたけれどちくわの穴には何も映らなかった。
家に帰り、ソファーに座る。混乱する頭を落ち着かせるためにゆっくりと息を吸った。
「あれは…」
もしかしたら見間違いかもしれない。もう一度確認してみようと今日撮った写真を見る。スマホに写された写真を見てもやはり事実は変わらない。一周回って冷静になってしまった武道は思わず頭を抱えてしまった。
「カクちゃんだぁ…」
母から美味しいと評判のお取り寄せの煎餅が来たから少し分けてあげると言われ、夫である鶴蝶と住む横浜から実家に帰った。母からそれを受け取り、自宅へ戻ろうとした矢先に住宅街の何処からか怒号が聞こえたのだった。ここで怖気付いて素直に帰っていれば良かったものの、彼女の心に湧き上がってきたのは恐怖心ともう二つ、好奇心と善性だ。特に後者に関しては困った人を助けたいと言う武道の生来の性根である。彼女はずっと助けて欲しがっている人を見捨てる事なんて出来なかったし、自分の損得関係なしに誰かのために動いていた。
そうして怒号の方向へふらりと立ち寄った武道。着いたのは日陰でジメついた陰気臭い場所であった。そこに建てられているボロボロのアパートの一室で男達が大声を上げている。遠くから見えた彼らは高そうなスーツを着た強面の男達であった。何をしているのか、それは火を見るよりも明らかだと思う。聞こえてくる大声からも察するに、家主がどう考えても真っ黒な所から危ないお金に手を出して、その返済の催促なのだろう。要するに借金の取り立てだ。
これには武道も辟易とした。流石に何も出来ないし、子供はいないにせよ夫がいる身として下手に関わってはいけないと踵を返そうとした。学生時代は無茶しいで有名だった彼女だが、危機感がない訳ではないのだ。
帰ろうとアパートに背を向けた矢先、一つの声がして彼女は足を止めた。その声はあまりにも聞き覚えがありすぎた。武道はすぐさま物陰に隠れ、様子を覗き見る。アパートの前、自転車などが置かれている空間に引き摺り出されたおそらく債務者であろう男。くたびれたシャツを着た小汚い男の事などどうだって良い。問題はそう、その男の目の前に立つ高級そうなスーツを着た男。
「…カク、ちゃん…?」
艶々の黒髪に左右で色の違う瞳、そして大きな傷跡。その男はまさしく武道の夫、鶴蝶本人であった。見間違いなんて事はない。何故なら朝、あのスーツを着た鶴蝶を確かに送り出したからだ。今日も今日とて『いってらっしゃい』と言えばすぐさまキスをせがんでくるしょうもない絡み方をされた覚えがある。
鶴蝶はくたびれた男の腹を蹴り飛ばした。男は痛みに蹲り、咽せる。しかしその様子を鶴蝶は酷く冷たい──まるでゴミでも見る様な目で見つめていた。
武道は耐えられなかった。やってる事もその表情も全て全て、どう考えたって『マトモ』じゃない。何も見なかった事にしてその場を去ろうとした彼女だが、好奇心か何なのか、たったの一枚、スマホでその様子を撮影し、全速力で駅まで逃げては電車に乗って横浜の自宅へ駆け込んだのだった。
武道は電気も点けない薄暗い部屋で額を押さえる。スマホの写真が見せるどうしようもない事実に武道は打ち拉がれていた。
「えぇ…カクちゃんって普通のサラリーマンって言ってなかったっけ…?何だっけ…どっかの商社…だったかな…」
商社マンだってもしかしたら人の腹蹴ってゴミみたいに見下す仕事するかもしれないし。いや、するわけねぇだろ。どう考えてもその道の人だろうがよ。何ならデカい声上げてた強面の男達もカクちゃんには腰が低かった様な気がするし。もしかしてウチの旦那、その手の組織のそこそこ重要なポストだったりして。何それ、冗談って言ってよ。
落ち着きたくて仕方がなかった。気が動転している武道は薄暗いキッチンでちくわを探し、徐ろに一本取り出して穴を覗いた。そうして武道は今日一日で夫の秘密を覗き、そしてちくわの中身も覗いたのだった。ちくわを覗きながら『さかな、さかな』と小さく口ずさんだ。
「…………スゥ…今後私ははん…いや、反社って言うのやめよう。怖いお兄さんの仕事してる旦那とどう付き合えと?」
思春期の娘息子と付き合うよりも難しい超難題。この問題に対して最適解が出せたらきっと東大合格も夢じゃない。
「うーん、知っちゃったからには何と言うか、巻き込まれないために離婚した方が良い気がするけどなぁ」
もう小学生からの付き合いである大好きな幼馴染み鶴蝶。彼ももう長らく武道の事が好きなのに未だに飽きる事なく鼻の下を伸ばす始末。浮気なんて疑う余地も無いし、何なら指摘する非もない。それで言えば武道も鶴蝶への好意も愛も今の所、尽きる気配もない。しかし武道も人間だった。社会の裏側にいる人間を人並み程度には怖いと思うし、そんな事に巻き込まれたくはなかった。
武道はちくわを食べながら考える。しかしどうしても妙案は出て来なくて鼻から長い息を吐いた。
「逆に離婚したら殺されるかもしんない…いや、カクちゃんに限ってそんな事は無いだろうけど、いやいや、可能性として?まぁ、カクちゃんだからそんな事無いとは思ってるけど?」
長い交際期間を経て、やっと結婚してまだ二年とちょっと。来年くらいには子供作りたいねなんて話していた矢先に衝撃の事実が発覚してしまうとは。反社…いや…怖いお兄さんの仕事してる父親とかどう考えても子供可哀想じゃねぇか。どう言う神経して子供欲しいとか言ってたんだカクちゃん。流石反社。違う、怖いお兄さん。カクちゃんてもしかしてナチュラルサイコパスだったりする?全然知りたくないけど。
ちくわを頬張りながら天を仰ぐ。何も思い付かない。武道の中では離婚イコール死の式が既に成立している様で、頭の中で何度も離婚を切り出してはその度に惨殺された。いや、カクちゃんはそんな事しないけども。否定すらも声が震えていた。
「…まだカクちゃんが人殺してるとかは分かんないしね。いや、あの目は確実にヤってる。ダメだわもう」
男を見下す冷たい目が脳裏に浮かぶ。そんな目、私見た事ないです。いや、普段からそれされても困るけど。カクちゃんって本気でキレた事ないから分かんないけど、もしかしたらマジギレしたらあんな感じなのかもしれない。知りたくないけど。怒らせないようにしよ。
「もしかしたら温泉旅行に行った前日も、海外旅行に行った次の日も、何なら午後から夢の国に行く日の午前中にこう、何かヤバい事してたのかもしんないね。夢も魔法も無く、あるのは絶望と血肉ってか?あー、うるせ〜!」
彼女がそう叫んだ時、突然インターホンが鳴った。誰だろうと腰を上げ、通話のボタンを押す。
『ただいまタケミチ』
武道は叫んだ。情けない声を上げて仰け反った。通話ボタンを押していたせいでその情けない声が少しだけ鶴蝶に聞こえたらしく、彼は戸惑ったように『え、何?』と眉を下げていた。
『あの…出来れば鍵開けて欲しいんだが…』
「アッ、ごめん!」
玄関に駆けて行った武道は急いでドアを開けた。大丈夫、大丈夫。だってほら、いつものカクちゃんじゃない。何も心配ないでしょ。
ギュッとノブを握ってドアを押し開ける。ジャケットを腕に掛けて立っていた鶴蝶は武道を見てへらりと笑った。
「ただいま」
「あ、お帰り」
「何か部屋薄暗くねぇか?」
「えっ?あ、ああ〜…寝てた…」
「タケミチ疲れてんのか?今日外食する?」
「えっ!いや、良いです!大丈夫!」
やっぱあの時の男の人、カクちゃんだよなぁ。あの時見たスーツと全く同じ物を着た男が目の前にいる。何だかちょっと緊張してきたなぁ。鶴蝶と言えば挙動不審の妻に心配そうな顔を見せる。
「お前大丈夫か?何か今日おかしくね?」
「おかしくねぇ!です!」
「あっ…そうすか…」
「おかしくないから!心配しないでカクちゃん!」
「お、おお…そうだ。ごめん、ズボンちょっと土で汚しちゃってさ、クリーニング出したばっかなのに本当ごめんな」
武道は恐る恐る鶴蝶の足元を見る。ズボンは彼の言った通り、裾が土埃で汚れている。いや、理由知ってるから。アンタが債務者蹴って作った汚れでしょうがよ。まあ、そんな事言える訳もなく、『ふぁい…』と細い声で返事をした。
「………うーん…タケミチお前本当に大丈夫か?」
「大丈夫!とりあえずカクちゃんは手洗いうがいして風呂入って着替えて!」
「もう風呂沸いてんの?」
「沸いてない!」
「何これなぞなぞ?」
実際人を蹴って汚れたのはズボンの裾だし、鶴蝶は今日に関しては何もしていないかもしれない。しかし武道は何にせよ、とりあえず体を綺麗にして欲しかった(尚、風呂は沸いていない)。
鶴蝶から受け取ったジャケットを手で払い、ハンガーに掛ける。そうして手を動かしながら、とりあえずリビングの電気を点けようとスイッチの方へ歩いていく鶴蝶の背中に呼び掛ける。どうしても聞きたかった事だ。おっかなびっくり、少し怯えながらも武道はどうしても自分の好奇心を抑えきれずにいた。
「カクちゃん仕事どうだった?」
「ん?順調だぞ」
何をもって?人の腹を蹴ってゴミみたいに蔑む事が?ヤバ。電気を点け、手を洗おうと洗面所に向かう鶴蝶に武道は懲りずに追及する。
「カクちゃんってお仕事何してるの?商社だっけ?営業?」
「ん?ああ。いや、まあ、営業に回される事もあるが、基本はオフィスワークかな」
「ああ、そうなんだー」
めちゃめちゃに嘘!じゃあ外にいた今日は営業だったりするんか?人をボコって取り立てる営業があってたまるか。オフィスワークなのも彼が部下を従える程のポストであるからだろう。やだよぉ、夫がそっち系の偉い人とか。だから家もアメリカの邸宅ぐらいデカいしスーツも私の服もブランドばっかりなんだね。稼いでるから、そう言うお金で。てか何食わぬ顔で息するみたいに嘘吐いたな。鶴蝶は変な嘘を吐かないと信じきっていた武道にはショック極まりない事であった。
「あー、そうだ」
「えっ!何!」
「声デカ…」
彼女の声の大きさに苦笑した鶴蝶だが、彼は鞄に手を突っ込み、ゴソゴソと何かを探す。そして大きな手に収まった一つの小箱を差し出した。
「これ、プレゼント」
「んぇ…?」
「開けて」
武道は小箱を開ける。爪を箱の隙間に入れ、上蓋を開けた。そこに入っていたのは赤い宝石のネックレスだ。鶴蝶はそれを手に取り、武道に一歩近付く。
「ちょっと良いか?」
「えっ、あ、うん」
鶴蝶は後ろに手を回し、ネックレスの金具を止めた。武道の首元で赤色の宝石が揺れる。
「うん。似合ってる」
「何で赤色なの?」
「え、だってヒーローの色は赤色だろ。武道にぴったりじゃん。それに俺の好きな色だし」
「うん…」
「良く似合ってるよ、可愛い」
鶴蝶は武道の頬を優しく撫でる。武道の目は大きく見開かれ、顔はもう真っ赤に染まっていた。抑えきれなくなった気持ちを彼女は大きく叫ぶ。
「あああああ!もう、好きぃぃ!」
「あ、おう。ありがとな」
何でもない日に突然プレゼントを買って来たり、毎日毎日何かしら褒めてくれたり、何なら家事も手伝ってくれたりしてどう考えたって鶴蝶はとてつもない優良物件。簡単には手放せるはずもなく、吐き出した絶叫と共に抱き着く。離婚についてはまた今度考えておこ。そんな雑な結論で締めて武道は何も考えずに鶴蝶に甘えた。