武道が死んだと聞いても千冬は然程驚かなかった。今は日向もマイキーもドラケンも皆が生きており、それぞれが幸せに暮らしている。
その結末に辿り着くまで、武道は何度もタイムリープをした。その度に仮死状態になり、着々と身体を壊していった。仮死と蘇生を繰り返せばその分身体への負担が増える。それは死んでも仕方がないと納得している自分もいた。
彼の死をひどく感じたのは葬式の時だった。笑う彼の遺影と棺の中に横たわる遺体を見て初めて、今が彼との今生の別れであると実感した。彼はこれから火葬され、骨と灰になる。
全員が幸せに暮らすには武道の死が必要なのか。これだけの命を武道はたった一人で守りきり、あたかもその代償の如く死んでしまった。それはあまりにも不条理だった。
そんなのダメだろ。沸々と湧き上がる怒りにこの身が焼かれそうだった。皆のために彼一人が死んだと言う事実も遺憾ではあったが、武道への好意を言わずに日向との行く末を見守っていたと言うのに彼女の事も幸せに出来ないまま死んでしまったのだ。発散のしようのない怒りに苛まれ、千冬は唇を噛み締めた。その瞬間、唐突に視界がブラックアウトした。
*
パチリと目を覚ます。千冬は何故だか実家の自室のベッドに横たわっていた。先程まで俺は武道の葬式にいたはずで、それで?
訳が分からずに首を傾げる。幼い中学生の身体を起こして辺りを見回しているとグラリと景色が歪む。強い眩暈がした。
『松野千冬』
「え、誰?」
聞いた事のない女性の声がした。しかし辺りには誰もいない。どこからの声だろうかと無駄に目を凝らしてみる。
『私は女神です』
「…ちょっと何言ってんのか分かんねぇわ。疲れてんのかな」
『信じずとも構いませんよ。私が今から話すのは揺るがぬ事実ですから』
自信綽々な女神(?)の言葉を訝しげな顔で聞く。声の主は未だに現れず、全く分からない。
『私はかの青年、花垣武道のその心に惹かれ、世界を書き換えました』
「…?」
『世界のシナリオを書き換えた上で巻き戻しました。そう、松野千冬。貴方が中学二年生の、彼と会う前の時間まで』
「…いや、いやいや、ツッコミどころはすげぇあるけど…とりま何でそんな事したんだ」
『花垣武道が平和に生き、旧世界で真実を知り、孤独に彼を支えた貴方にチャンスを与えたかったからです』
「何が目的だよ」
女神は凛と言葉を紡ぐ。それがさも常識であるかのように、普遍的で抑揚のない声で。
『そもそも橘日向を巡る稀咲鉄太との確執は花垣武道が男性で無ければ起きなかった事』
「それが、何だよ」
『私が手を加えた世界の書き換え事項はただ一つ、花垣武道の性を変える事』
「そんな…」
『彼女がかつて彼であった事を知るのはこの世界で貴方のみです。松野千冬』
「た、タケミっちの意思も知らずに、勝手にタケミっちの人生書き換えたのかよ…!」
『ええ。でも彼女にも、無論貴方にもデメリットはないはずです』
確かにそうだった。武道自身も元々女性であると言う認識ならば困る事は無いだろう。そして千冬自身も武道が日向と結ばれる事が無い以上、感情を持て余す必要も無いのだ。
『花垣武道が女性である事で貴方がその好意をひた隠しにする理由も無くなりました。橘日向とは親友ではあれど恋人ではないのですから。花垣武道に対してどう行動するのか、それは貴方自身の問題です。私が干渉する事ではない』
「…これが、俺への褒美って訳かよ」
『はい。たった一人で花垣武道のリベンジを理解し続けた貴方が、今度はリベンジをすべきなのです』
女神の言葉が全身を駆け巡る。この世界でなら、武道が女性と言う世界線ならば千冬にも武道を幸せにする権利がある。千冬はゴクリと大きく喉を鳴らした。これが、女神が俺に与えたチャンスであり、この気持ちのリベンジなのだ。
「……考えさせてくれ」
『勿論。どうするかは貴方次第。まぁ、貴方では無くとも花垣武道は幸せになれますがね。彼女が誰と結ばれるのか、ルートの分岐は沢山ありますから』
「え」
『それでは、松野千冬』
それ以降、呼び掛けても女神は出て来なくなった。言いたい事だけ言って放っておかれた俺の気持ちを考えろよと地団駄を踏む。それに何だ。武道と結ばれる可能性があるのは千冬だけではないと言う。勝手に世界を書き換えて松野千冬のリベンジだと謳ったくせにあまりにも無責任だ。考えれば考える程苛々してくるが、そのストレスもリビングから聞こえてくる母親の『早く起きないと遅刻するわよ!』と言う怒鳴り声に掻き消された。
女神は千冬が武道と出会う前に世界を巻き戻したと言った。それならば千冬はまず、武道とどう接触すべきかと言う事を考えねばならない。武道が女性である以上、東卍をきっかけに接点を持つ事は難しいはずだ。
「…意外とムズイのか?この乙女ゲーム」
少女漫画で見たような、見ていないような。乙女ゲームの様な千冬の世界は思った以上に複雑らしい。
「お、千冬」
顎に手を当て、考え込む千冬の後ろから肩に手を回したのは場地だった。千冬は彼に気付き、勢い良く頭を下げる。
「何だよオマエ、難しい顔して」
「いや、別にそんな事は」
「あ?隠すのか?…はは、もしかして女かぁ?」
揶揄い半分の場地から目を逸らした。その些細な反応に目敏く気付いた場地は口元に湛えた笑みを更に深めて千冬の頭をぐしゃぐしゃにする。
「くーっ!オマエにも春が来たのかよ!生意気だな千冬ぅ!」
「くっそ…やりにくい」
「で?何だよ。付き合ってんのか?」
「……いや、まだ…」
途端に場地は顔付きを変えた。ニヤついた顔を引き締め、眉を吊り上げる。
「オマエ!男が奥手でどうする!情けねぇなぁ千冬!東卍の風上にも置けねぇ!」
「…マジすか……」
「待ってるだけじゃ何も始まんねぇしクソダセェだろ!男なら動いてビシッと決めるのが常識だ!」
「待ってる、だけじゃ…だめ、……」
「おー。女だって受け身な男は願い下げだろうな!」
「……待ってるだけじゃ何も始まんねー!」
校門で千冬は大きく叫んだ。そして唐突に場地の腕を抜け、学校とは逆に走り出す。
「お、おお?」
残された場地は目を白黒させながら困惑に眉を下げた。
記憶を辿り、武道の学校までの道を全力で走る。こうして疾走するのは何年振りだろうか、ひどく息は上がるし疲労が溜まっていくのが分かる。それでも千冬は走った。待っているだけでは何も始まらないのだから。
武道の中学に着き、息を整える。膝に手をつき、深く呼吸をした。ふと、千冬は顔を上げる。
視線の先、そこには彼女がいた。性別は違うけれど雰囲気は紛れもなくその人だった。千冬は再び駆け出す。そして武道の手首を掴んだ。折れそうな、ひどく細い手だった。
武道は驚いた顔を浮かべて振り返る。綺麗に切り揃えられたベリーショートの髪が揺れた。
「え、だ、だれ」
「──っ東京卍會、壱番隊副隊長!松野千冬!」
腹の底から声を上げた。響き渡る声は気持ち良いほどの青空へ溶けていく。
「俺は、ずっと、ずっと前から!あなたの事が好きです!」
千冬が赤い顔を上げてみると目の前の武道も熟したリンゴも顔負けの真っ赤な顔をしていた。