「これ、持って来てあげたから!」
「…いや、頼んでないですけど」
見知らぬ女が小さな紙袋をこちらに突き出している。千冬は緩んだエプロンを結び直しながら、呆れ顔でそう言った。
女は千冬に紙袋を無理矢理渡そうとしてくる。彼はそれを頑なに受け取ろうとせず、ギュッと拳を握り締め続けていた。
「ねぇ、受け取ってよ」
「いやいや、困る困る。つかマジで良い加減にしてくれよアンタ」
「何で?ただのパウンドケーキなのに」
「手作りだろどうせ。本当勘弁してくれ。俺一度もアンタに頼んだ事ないだろ!」
千冬に強く言い返されても女はめげない。『どうして』、『なんで』を繰り返して、千冬と押し問答を続けていた。
「だから!もう何度言っても分かんねぇなぁ!その得体の知れないケーキなんかいらねぇってんだろ!」
「得体の知れなくないでしょ!」
「知らねーよ!つかそれ持って帰…っておい!床に置いて行くなよ!おいテメッ…女!」
話の進まない状況に痺れを切らし、遂に女は強行突破に出た。ペットショップの床に紙袋を置いて店を出て行ったのだ。名前の知らない女を呼び止める術を千冬は知らない。女性に対して声を荒げる事は非常に少ないが、自分勝手で得体の知れない女には優しく出来る訳もなく、強い口調で叫ぶのだった。
「…女って…」
「アイツまた来てたな〜」
「そろそろサツっすかね…」
女が立ち去り、いそいそと出てくる場地と一虎。二人をキッと睨みながら、千冬は長い溜息を吐いた。
「別に開店一番に店に来る事自体は不法侵入じゃないし、食ってはねぇけど多分プレゼントに毒仕込んでるとかでもねぇだろうし、業務時間外に纏わり付いてる訳でもねぇから通報は難しいんじゃねぇの」
「ですよね〜。実害が無いんだよな〜」
「厄介な女だワ」
女は別に店や住居に不法侵入してる訳ではなく、ペットショップの開店直後に店に来て手作りのプレゼントを手渡しているだけである。ストーカーされている訳でも、何か具体的な害を与えられた訳でもなく、ただ店の営業時間中に物を押し付けてくるだけなのだ。そのプレゼントも渡されるたびに捨てているし、中身は知らない。そんな女を警察に突き出せるかどうかなんて彼らには判断が出来なかった。
「アレ三十超えてるよな多分」
「まあ、俺らももうすぐアラサーだしお似合いじゃねぇか?」
「あのタイプ婚活垢とか作ってモテ女の極意とか呟いてそ〜。キモ!」
「何なら千冬と付き合ってる事にしてリア充ツイートしてそうだよな」
「分かるわ」
「何だよそれ…とんでもねぇ虚言だよ…」
「ツイッターってそう言う場所だからな」
「目に見えるものが真実とは限らない。何が本当で何が嘘か。…コンフィデンスマンの世界へようこそ」
「死ね一虎」
スパンと一虎の尻に蹴りを一発。彼もその蹴りを交わす事なく甘んじて受けた。場地は既に飽きたのか大欠伸をしている。
「あの女をどうにかするにはどうすりゃ良いんすかねぇ…」
「アー?彼女作れば?」
場地の雑な返答に千冬は頭を抱えた。こうしてあの女の様に言い寄ってくる女は過去にも何人かいた。千冬はそれなりにモテている。だから彼女なんて作ろうと思えばきっと簡単に作れるのだけど、作らない、と言うより作れない理由は彼にある。それを知っている場地と一虎は、無理だとこうべを垂れる千冬に『ダメだこりゃ』と呆れた。
「………いや」
頭を抱えていたが、ふと、何かを考えついたのか顔を上げる。その目は何だか据わっていて、恐ろしかった。犯罪を犯す前の人の顔と良く似ている、一虎は何とも冗談と笑い飛ばせない様な事を思った。
「…作れば良いんだよなぁ」
二人は何だか凄く嫌な予感というか、誰かにとって良くない雰囲気がした。
それから数日後、店に呼び出されたのは武道だった。ショートパンツにパーカーと非常にラフな格好で現れた彼女は、欠伸をして眉間に皺を寄せながら『仕事休みなのにぃ』と唇を尖らせていた。
「何なんだよー、もう。休みの日に朝早くからって非常識すぎない?」
「お前の常識なんざ知るか。俺たちは出勤なんだよ」
「問答無用で呼び出した側が死ぬ程偉そうでウケる」
「ウケんな!コイツ何なんすか!」
据わった目の千冬と対峙する武道は額を押さえた。その後ろで一虎はゲラゲラと笑っている。
「俺だってストーカー女に疲れてんだ…」
「あー、それまだ終わってねぇんだ。それはまじでお疲れ。な?帰って良い?」
「帰って良い訳ねぇだろ!」
「えっ、何で怒鳴るの?ヤバない?」
「タケミっち!恥を忍んで頼みがある!」
嫌な予感がした。武道はじっとりと千冬を睨み、身構える。肩からずり落ちそうなパーカーを直して一歩後ろに下がった。
「俺の彼女になってくれ!」
「嫌っ!」
叫ぶ千冬に武道は叫び返した。間髪入れず断られた事に目を丸くし、千冬は『えっ』と困惑する。しかしすぐにハッとして首を振った。
「あっ、悪い!そうなんだけどそうじゃなくて、助けてほしいんだよ!ストーカー女撃退するために彼女をフリをして欲しいっていうか…ごめんちょっと欲が先行しすぎちまって…」
「ほぼ告白だろそれ」
「素直だよな〜、アイツ」
「もっと嫌なんだけど」
彼女は腕を組み、顔を顰める。『助けてと言えば頷いてくれるのでは』と浅はかな事を考えていた千冬はゆっくりと瞬きをした。武道は溜息を吐いて首筋を撫でる。
「流石に男女間のエトセトラに巻き込まれんの嫌なんだけど。流石の私も馬には蹴られたくないし」
「だから、そう言うのじゃねーって!俺から散々話聞いてんだから分かってんだろ!」
「そう言うのじゃなくても男女間のそう言う問題って事には変わりないだろ!しかも相手がストーカー女って…私にも嫌がらせの被害来たらどうしてくれんだよ!手刺されても、銃で撃たれても平気な顔してた私だけどさぁ!何でもかんでも出来るとか怖くないとか思ったら大間違いだからな!普通に怖いよ!そんな変な人っ!関わりたくないもん!」
「それが普通だよな」
「そりゃ武道も女子だしな」
千冬は何も言えなかった。返す言葉がなくて、黙ってしまう。俺が守ると返した所で武道とずっと一緒にいる訳ではない。お互い離れている事の方が多いのだ。一人でいる時に狙われたら千冬は何も出来ない。今の所何の実害もない女だからと言って、その女が完全に安全とは言えないのである。
千冬は盲目なところがある。例えば武道を少し神格化していると言うか、神聖なもの、高尚なものとして見ている節がある。助けてと言えば助けてくれる、ヒーローの様な人だと勘違いしているところがあった。けれど彼女は普通の弱くて泣き虫な人間で、か弱い女だった。
気まずそうに目を逸らす武道をジッと凝視する千冬。ストーカーを何とかしたい、彼女のフリをしてほしい、それは確かに目的だった。しかしそれが『本当の目的』ではないし、上手くいかなかった時の策も講じている。
「…申し訳ないけど、もう帰るね。頼りたいなら警察にでも頼って。相談するだけでも全然違うと思うし。私がどうにか出来るものじゃないよ」
踵を返した時、店のドアが開いた。良いタイミングで顔を出したのは例の女だった。話だけを聞いて顔なんて知らなかった武道も、ピリついた千冬の様子を見て何となく察した様だった。
「…千冬くん、その子何」
「やっぱ来たか」
「水曜には絶対顔出すなコイツ」
「行動読み易くてありがてーわ。バカで良かった」
彼が女に言うはずのない暴言に武道は千冬の顔を凝視する。黙って女を睨んだまま前に進んだ千冬は、武道と女の間に入って目の前に立ちはだかった。
「…そのさぁ、嫌がらせやめてくんねーかな。絶妙に警察にも言いにくいレベルだし、困ってんだよ俺」
「嫌がらせじゃない!」
「…俺からしたらそれは嫌がらせなんだよ!」
千冬は強い口調で言った。何だかかつて不良だった頃を思い出して少し心がざわついた。一般の人に向ける殺意じゃない。そう思って彼を止めようと千冬の肩に手を伸ばした。しかしその手は千冬に取られ、グイッと引かれる。
「へっ!?」
「俺彼女いるから本当、そう言う馬鹿げた事やめてくれ」
わざわざ水曜日を狙ったのはこのためだった。上手くいかなかった時、もう無理矢理既成事実を作ってしまう、それが千冬の作戦である。千冬は言わずもがな馬鹿なので、大した事は考えられない。結果、最終的に力技で押し込む事にしたのだ。そして武道が流され、本当に自分と付き合う様に仕向けて行く。それが目的である。ストーカーは勿論良くないが、それをダシにして好きな女の子と付き合おうとする千冬も千冬である。
千冬に肩を抱かれ、どう考えても自分が千冬の彼女だと勘違いされる状況で、武道は『はぁ?』と声を上げた。武道は千冬の手を乱暴に払って、ストーカー女がいるなんて事は関係なく、叫ぶ。
「何言ってんの!?」
「…昨日喧嘩した事まだ怒ってんの」
「はぁ!?意味分かんねぇんだけど!」
「ごめんて」
「ふざけんな!謝んなら手離せよ!私帰る!」
家で気持ち良く寝ているところを叩き起こされ、急な召集に律儀に応じた武道は完全な被害者だった。しかし絶妙に噛み合ってない様で噛み合っている会話がどうにも面白くて、二人の後ろで呑気にも一虎と場地は笑っていた。それも非常にムカついて武道の機嫌は最低だった。
唖然とするストーカー女も、ストーカーされてる千冬も、一向に助けてくれない後ろ二人も全て見捨てて帰ろうと思った矢先、肩に置かれていた手が動いた。それは彼女の顎をグッと掴んで、顔を上げさせる。『えっ』と口を開いた彼女に千冬は静かに顔を近付けた。そして武道に軽く口付ける。
「…っ!」
「これで許してくれる?」
唐突なキスには流石に一虎と場地も言葉を失った。当事者の武道はピタリと固まり、完全に石化している。満足そうなのはただ一人、彼女を巻き込んだ千冬だけだった。
「…〜っ、〜っ!」
「………なに」
『信じられない』と言う言葉が顔から伝わってくる。驚きすぎて言葉が出ず、パクパクと口を動かす彼女に、千冬も少し慎重になる。言葉を選んだ結果、短くなった応対に外野二人は頭を抱えた。
武道はポソリと呟く。そこにいつもの明るさや元気さはなくて、覇気の無い声で弱々しく言った。
「…なんで…こんな人前で………」
彼女の選んだ言葉は絶妙だった。本当に千冬の彼女とも取られかねない台詞だった。そして女はその言葉を完全に真に受けた。真に受けて、何だか気まずくなって、静かにそそくさとその場を立ち去ったのである。
逃げ帰った女を尻目に、千冬は『タケミっち…?』と顔を覗き込む。そんな彼を武道は思い切り突き飛ばした。そしてその場にヘナヘナと座り込み、少し大きなパーカーの袖で目を擦った。
「付き合ってないのに、キスされたぁっ…」
いつもは威勢のいい彼女らしからぬ弱々しい声で、武道は静々と泣いていた。涙で袖がどんどんと濡れていく。しゃくり上げる彼女に面の皮が分厚い千冬は寄り添おうとするけれど、それは阻まれた。それを阻んだのは他でもない、場地と一虎である。
「お前何様で彼氏ヅラしようとしてンの。あんな事して喜ぶヤツなんか少ねーだろうが。少女漫画の読み過ぎなんだよ」
「…妹分泣かされて黙ってられる程お利口さんじゃねーんだよなぁ、俺」
「同意の無いものならキスでも裁かれんのかな〜」
「……責任は取ります。絶対に」
「そう言う問題じゃねーんだよ!バカタレが!」
店は既に開いているにも関わらず、千冬の腹を蹴り、ボコボコにする二人。そんな二人も武道の『アンタらだって笑ってるばかりで助けてくれなかったのに何なんすかぁ』と言う言葉に、完全に動きを止めるのであった。