風邪と看病

ピコンとスマホが鳴った。テーブルに適当に置かれたそれを手に取り、カコカコと操作する。その通知音はメールの着信を知らせる音だった。
メッセージを送って来たのは長らく交際状態にある彼氏である三ツ谷隆だった。『ねぇ』と言う二言に始まり、その下に数回に亘ってメッセージが連なる。
『ねぇ』
『俺、一人暮らしじゃん?家に誰もいないだろ?』
『そんで今日仕事も休み取ってさ』
その言葉に武道はドキリとする。え、これは俗に言うお誘いとやらでは?シチュエーション的にそうだよね。女だからと言って性行為に興味が無いかと言われれば、そんな事はない。人並みに興味はあるし、相手が好きな人ならば尚更。期待させる様な言葉に少し緊張しながら言葉を返す。
『と、言うと?』
自分から言わないのは恥ずかしいからであった。別に武道は普段からそこまで隠さないタイプではあるし、性行為をしたいと言うのならそれとなく伝えて来た。けれど執拗に性に貪欲で卑しい奴だとは思われたくはなかったため、隆側に言葉を促した。するとすぐさまピコンと通知音が鳴って返信が来た。
『風邪で高めの熱出したので看病しに来て』
「おい」
思わず声を出してツッコミを入れてしまった。微かに緊張していた心身から力が抜けていく。いや、期待した私が馬鹿だった。それに変に恥をかくだけだったので下手に言わなくて良かった。武道はカタカタと文字を入力し、メッセージを送り返す。
『ただの病欠でしょ』
『変な言い方すな』
語尾にはしっかりと怒りマークを数個添えた。先輩とは言えど、数年分交際していればお互いにそんな壁も取り払われてしまう。実際に会った時にはまだ敬語は抜けきっていないが、電子機器を介したやり取りでは案外フランクだ。
『期待した?』
『かわいいね』
『でもごめん』
『わりと風邪』
『割と風邪って
『たかしくん、平気?』
『へいきじゃない』
『平気じゃない』
『いや、二回言わなくても』
『変換し直しただけです〜』
メッセージを見る限りでは元気そうだが、実際はそうでもないのかもしれない。付き合いが長くなるにつれてしょうもない事で呼び出してくる事も増えたので、この男の呼び出しはあまり信用ならない。もしかすると案外ピンピンしていたりするのだろうか。
『見てこれ』
そう言って送られて来たのは体温計の写真だった。写真の中の体温計が表示している温度は三十八度を超えており、中々の高熱である。おそらく本当にしんどいのだろう。今回の呼び出しは緊急性があってSOSじみたものでもあると確認し、武道は返事を送った。
『やば』
『スマホ見てて辛くないの?』
『クラクラして吐きそうですけど』
『寝てなさいよ大人しく』
『薬飲んであったかくして寝て』
『だから武道看病しに来てよ』
『三十八度超え普通に動くのキツいし』
『えー、私看病とか分かんないし』
『風邪で一人はさびしいから来て』
『ぶっちゃけ看病は別に期待してないから』
『は?めっちゃムカつくじゃん』
『分かった。じゃあ乾杯な介護してみせるから首洗って待ってろ』
『介護じゃなくて看病』
『どういう誤字?』
『完璧の所も乾杯って間違ってますけど』
『決闘すんのか?』
『ツッコミどころ多いんだよ。身体怠いのに笑わせんな』
『とりあえず待ってるわ』
『冷えピタ買って来て』
『分かった』
やり取りを終えて武道は立ち上がる。風邪で床に臥している彼のために人肌脱いでやろうとヨレヨレの部屋着を脱いだ。そして外行き用の服を着て鞄を手に持つ。隆の家に行く前にまずはドラッグストアに立ち寄ろうと頭の中で数回唱え、武道は外に出た。
ドラッグストアで冷えピタやその他必要そうなもの(インターネット調べ)を集め、家に向かう。自分の所とは違って清潔で小綺麗なアパートの前に着き、目的地のドアの前でボタンを押す。
「こんにちはー!武道です!隆くん来ましたー!」
近所迷惑にもならず、隆の体調にも障らない様にボリュームを多少絞って呼び掛ける。一応声は掛けたものの、武道には合鍵があるため入るだけならそれを使えばよかった。ただ幾ら見知った間柄だとは言えども無言で入られるのもどうかと思い、こうして声を掛けたのである。
鞄に入れた合鍵を取り出し、ガチャリと鍵穴を回す。するとドアは開いて武道は中に入って行った。
「お邪魔しまーす」
たけみちぃ?」
奥の方から熱に浮かされた気怠げな声が聞こえて来た。メッセージ上では割と元気だったが、実際に会うとそうでもないらしい。それが分かる証拠として、声にあまりにも覇気が無かった事が挙げられる。部屋からヨロヨロとした足取りで顔を出した隆の目はいつもよりトロンと垂れており、とても眠たそうだった。
「思ってたより辛そう
「来てくれてありがとう
「あーあー、もう喋んなくて良いすよ。病人は寝てろ寝てろ」
「たけみち今日もかわいいな」
「はいはい。大人しく寝てて」
出迎えに来てくれたは良いものの壁を支えに辛うじて立っている様で、直立していてもふらふらと危ない。危なっかしい男の腕をギュッと掴み、倒れない様に支えてやりながらベッドに押し込む。ゲホゲホと咳をして寒そうにしていたため、端に寄せられていた毛布を隆の上に掛けた。
「とりあえずマスクしよ」
「だり〜
「はい、怠いのは分かったから隆くんもマスクして」
ビリビリと個包装を破り、隆にマスクを手渡す。うんうんと苦しげに唸りながらも、彼はマスクを着けてくれた。
「これ、頼まれてた冷えピタです。はい」
「えー武道貼って〜
頼まれていた冷えピタの箱をテーブルに置けば、隆は武道をジッと見てそう言った。武道は息を吐きつつ、箱を開けて紙の袋を一つ手に取る。上部をビリビリと開封し、冷えピタを一枚摘んだ。粘着部分に貼ってある薄いビニールを剥がし、隆に言った。
「貼るんで前髪上げてください」
「はい」
はい、これでよし」
薄紫と黒の派手な髪を手で上げる。その額を丸出しにしている様子が何だか可愛くて不覚にもキュンとした。ぺたりと冷えピタを貼ってやれば、苦しそうだった隆の顔も心なしか緩んだ様な気がした。開けた紙袋にはもう一枚、未使用の冷えピタが残っているため、紙袋の開け口を折り畳んで箱に戻した。
「冷えピタ、そこのラックに置いときますね」
「んー
ここまで弱っている隆を見るのは武道も初めてだった。彼が働きすぎて疲れ切っている姿はもう何度も見た事があるけれど、こうして病気でふにゃふにゃしている姿は見た事がない。隆はあまり酷い病気をしない人だった。上げてボサボサになった前髪を直してやりつつ、武道は口を開く。
「てか隆くんなら『風邪うつるから看病来なくて良いよ』とかって言いそうだったのに、なんか意外」
「一人じゃ寂しい彼女に看病されてみたかった………
「自分の風邪使ってここぞとばかりに夢叶えていってる訳っすね意外と元気そうで良かったです」
「頭ふわふわする」
「それを楽しむ余裕は無さそうだけど」
ベッドで横たわる隆を見て武道は立ち上がる。手に下げて来たビニール袋の中からペットボトルを取り出してテーブルに置いた。
「一応スポドリも買って来ましたから。飲みたかったら飲んでくださいね。別に水で良いなら私が持って帰りますけど」
「ちょうだい」
「キャップ開けるんで起き上がってくださいよ。寝ながら飲み物飲めないでしょ」
買って来たスポーツドリンクのキャップを捻る。その間に隆は重たい身体を動かしてのそのそと起き上がった。
「はい。溢さないで」
……うま
「良かった。薬とかは飲んでます?」
「イブ
聞いてもいない薬の名前を呟いて来たが、とりあえず飲んでいる様で良かった。万が一と思って市販の風邪薬を買って来たのだが、これは武道の常備薬となりそうだ。
「それで隆くん、さっきからしつこくて申し訳ないんですけど答えてもらっていいすか?」
「ん?」
「おかゆとおうどん、どっち食べたいですか?」
「飯?」
「はい。もうお昼時ですしね、食欲無くてもご飯は食べましょ。そうしないと治るものも治らないっすよ」
「飯かぁ
食べる気はあまりしないらしい。『そっかぁ』と微妙な表情で固まっている。それでも食べない分には治るものも治らないと思っているため、武道は作るつもりでいた。料理は苦手だがどちらも基本冷凍だし、出来ずとも困らない。
うどん」
「ちょっと手間のかかる方選んだな
「作って武道」
「分かりました。まあ、めんつゆは付いてるし大丈夫だよね」
「えー」
「えーって」
「全部作って」
「レベル高すぎ。私には無理です」
「やだ
「子供じゃないんだから」
「じゃあそれまで料理頑張って次倒れたらレベル高いの作って」
「ハードルを上げるな。それに二度も三度も倒れないでくださいね」
……まあ、二度目の風邪より近い内に過労で倒れるかもしれないし」
「その風邪も多分過労のせいでもあるでしょうよ。黙って寝て」
過密なスケジュールで納期に追われ続ける仕事なのだから仕方はないかもしれないが、それでも隆の働きぶりは少し心配になる程だ。おそらく今回の熱風邪も日々の疲労や過労による衰弱が関わっているのだろうと武道は思った。
「一応レトルトのおかゆも何パックか買って来たんでそこのバスケットにしまっておきますからね。何かあったら食べてよね」
「んー
間延びした声がして武道は息を吐く。買って来たおかゆのパックを貯蓄用の食べ物が入っているバスケットにしまい、それをラックに戻した。
レジ袋に入ったレトルトのうどんセットを取り出し、キッチンに立つ。開封して裏の説明書きを読みながら鍋やら何やらの準備を進めた。
「たけみち〜
「何ですか?飲み物なら枕元にあるでしょ」
「さびしい」
「寝ろ」
「俺が寂しくない様になんか話して」
「バラエティーでももっとマトモな話の振り方するっすよ」
「たけみち〜」
「大人しく寝ろって」
具合が悪いはずだし、現に酷く具合は悪そうなのに一向に黙る気配がない。顔もポッと赤いし、目もしっかり開いていないのにどうして口はそこまで回るのか、武道も半ば呆れ顔である。
「吐きそうってメッセージ送って来たのにそんな喋って平気なんすか?」
「スマホの画面見る方が辛い」
「そうだとしても喋るのも辛くない訳じゃないでしょ。お喋りも良いですけど風邪は食べて寝ないと治らないっすよー」
「おー
「怠そうな返事するなら黙って寝てくださいよ」
あまりにも五月蝿い男を見て、隆のベッドの側まで来た武道は冷えピタの貼ってある額をペチリと叩いた。力は全く込めていないため、痛いはずがないのだが隆はこれ見よがしに『いたっ』と呟く。だが武道は相手にせず、キッチンに再び戻った。
「えーと、袋から凍ったままのおつゆと麺を出して鍋に入れるとあ、先にお湯沸かすのか」
「レトルトでミスんなよ」
「外野うるさいっすよ」
開封しようとしていた手を止め、鍋に湯を入れた。計量カップで説明書き通りの分量を測り入れた。それを火にかけて武道は手元のスマホを弄る。
「え、なんか皆からLINE来てるじゃん。何?千冬、三ツ谷のとこ行くなって。呼び捨てじゃんウケる。めちゃくちゃ不敬罪」
「あー……それ、多分俺」
何したんすか」
「ツイッターに体温計の写真載せた」
……まあ、私今日ツイッター見てないですしそれは知らないですけどもそれでどうして千冬とかマイキーくんとかが私の所にLINEするの」
「発熱。過労か?体重すぎ。とりあえず可愛い彼女に看病してもらう」
なんですかその文章は」
「投稿文」
「書くなそんな事」
「アイツらにマウント取ってやりたくて〜
「この病人タチ悪
ガラケーからスマホに変えようが、隆の機械音痴具合は相変わらずだった。未だに見慣れない機能に首を傾げ、下手に弄って訳の分からない事態になるなんて事はある。しかしそれでも確実に以前より使いこなせる様になっていた。それはきっと仕事柄もある。
仕事をする上で、SNSの利用はそれなりに必須であった。そこで同国や海外の同業者達とコミュニケーションを取ったりもしていた。SNSやスマホに触れる時間が比較的長くなり、必然として操作方法を覚えたのだ。最初は操作どころかそもそもアプリのダウンロードの方法が分からず、全て武道にやってもらっていた隆が今や一人で写真と文章を投稿するに至っている。その成長には感心だが、操作を覚えた結果、やっている事はただのリア充マウントで何も可愛くない。
「皆さんだから軽くあしらってくれますけどね、そう言うのやめなさいよ。友達いなくなりますよ」
「どうせツイッター鍵掛けてて昔馴染みのヤンキー共しかいねぇし」
「普通に学校のお友達とかと繋がってないんすか?」
「ねーな。俺暴走族所属の不良だったから絶妙に浮いてたし」
「手芸部の人には慕われてたじゃないすか」
「何でだろーな。部活はガチだったから?」
「隆くん優しくてイケメンだから女の子にモテてただけでしょ」
「ヤキモチ?」
「焼いてねーわ」
隆は少し残念そうに声を上げる。どうやらヤキモチを焼いて欲しかった様だ。武道はそんな男に肩を竦め、スマホを置く。フツフツと熱されていく水の様子を見て麺の袋を開けた。
「麺とつゆ入れて二分くらい茹でる、と」
「武道は俺がモテていいわけ?」
「え、別に良いっすけど、私以外の誰かと付き合える気でいるんすか?どうせマジギレ弍番隊隊長モードの隆くんと真っ向から言い合い出来るの私くらいしかいないでしょ。あんな般若相手にしたらまともな女の子は怖くてすぐ別れます」
「マジで偶にだろ。普通の喧嘩で声荒げねぇわ。そもそも弍番隊隊長モードにさせる程俺を怒らせる武道が悪いって言う結論にはならないわけ?」
「さーせん」
「おいこら」
心の無い返事をしながら引き出しを開け、菜箸を探した。長い箸を手に取り、鍋の中に投入した麺とつゆの塊を湯掻く。
「じゃあ俺は武道以外と付き合う事は不可能って訳だ」
「そうっすよ。私以外の女の子に隆くんの彼女は務まらないかな」
「まあ、それなら別に良いか……あと千冬の呼び捨ての件については怒ってたって伝えとけ」
「あ、ちゃんと聞いてた」
鍋の中の麺を湯掻きながら笑う。隆はコンロの前に立つ彼女を眺め、その視線を天井に戻した。大きく息を吐いて目を瞑る。
うどんってトッピング何だろ。ネギと、かまぼこ?隆くんうどん食う時何入れてるんすか」
「ネギと卵とわかめ」
「おー、卵かぁ。とりあえず冷蔵庫拝見しますね〜」
一人暮らしにしては少し大きい様な冷蔵庫を開き、中を確認する。卵とネギを手に取ってわかめを探した。
「わかめ無いな〜」
「ごめん、乾燥わかめ切らしてるかも」
「あららなんかないかな
手に持った卵とネギをシンクに置き、再び冷蔵庫を開ける。そこで椎茸を見つけて隆に声を掛けた。
「椎茸ありました」
椎茸の下処理ちょっとめんどいぞ」
「じゃあやめよ」
「刻み海苔ならあったはず」
「あ、じゃあこれ入れときます」
刻み海苔の入ったパックを手に、コンロの前に戻った。大きな椀を棚から出して鍋を傾ける。お椀の中にスープと麺を一緒に流し込み、そこに卵を割り落とした。ネギと海苔を振り掛け、頷く。
「隆くん出来た〜」
「おー」
「起きて食べないと麺伸びちゃいますよ」
「起こして〜」
「もー
出来たうどんをテーブルに置く。怠そうに手を伸ばす隆の腕を掴み、引っ張り起こした。
「全部食べれなかったら残してくださいね」
「わかった」
パチンと手を合わせ、『いただきます』と言った。テーブルに置かれた箸を持ち、麺を挟む。そしてゆっくりと麺を啜った。
んー
「どう?」
「ふつーにうまい」
「まー、全部レトルトですからね。どうですか?食べれそう?」
「分かんねーけど食べる
「うん」
チロチロと麺を啜る隆を横で眺める。半開きの重たそうな目と、彼のゆったりとした咀嚼を横目に微笑んだ。
「武道は食わねーの?」
「私は後でどっか食べに行こうかなって」
「そっか」
心配していたが、何だかんだうどんは完食寸前であった。空になっていくお椀の中を覗き込んで安心した様に小さく息を吐く。あまり食べる気は無さそうだったが、食べてみると少し考えが変わったのだろう。最後の一口を食べ切り、つゆをゴクゴクと飲み干した隆は手を合わせて『ごちそうさま』と言った。
「お粗末さまです」
「ありがとな。美味かったよ」
「はい。じゃあマスクして寝ましょ。薬飲みます?大丈夫ですか?」
「薬はまた夕方飲むよ」
「分かりました。隆くん眠そうですね。ご飯食べたら眠くなっちゃったかな」
「やめろよその言い方赤ちゃんみたいじゃねぇか……
「今の状況だとそんなもんですよ」
ベッドに寝転んだ隆に毛布を掛ける。ポンと一度、胸元を叩いてやると隆は子供扱いするなと弱々しく睨んだ。だが表情は弱々しく覇気が無いため、迫力は無い。
「たけみち〜
「何すか。私今から洗い物するんですけど」
「武道これからどうすんの?」
「え、帰りますけど」
泊まんねーの?」
「泊まるって何も用意して来てませんし、明日仕事なんですよ私」
「えー
「えーじゃない」
武道の答えを聞いて不満そうに眉を顰める。そんな彼へ対し、特に言葉を返す事もなく洗い物を勧めた。
「ていうか洗い物したら帰りますからね、私」
んー
「寂しそうな声出さない。隆くんちゃんと寝て食べてさっさと風邪治してくださいね」
「ん
「そしたらまたお泊まりしに来ますから」
!その時は好きな物作るよ」
嬉しそうに言うその言葉にくすりと笑い、スポンジを握る。洗剤を泡立て、食器や調理器具をスポンジで擦った。
「じゃあ帰る前にキスして」
病人は大人しく寝ててくださいよ」
「キスしたら治るから」
「治んねーわ。万が一にも風邪移るの嫌なのでパス」
「移ったら看病してあげるから
「こちとら年間休日数ギリ百日程度の接客業ですよ。休みは命取りです」
………武道さぁ、仕事辞めようぜ。流石に。武道の方が過労で倒れそう」
「結婚したら考えるので今はまだ辞めません」
彼女の仕事のブラックさに隆も頭を抱える。年間休日数が百日行くか行かないかなど、危ういにも程がある。今すぐにでも辞めて欲しい気持ちだが、武道は聞いてくれそうにもない。彼女の過酷な労働環境に頭を悩ませたところで何だか熱が酷くなって来た様な気がして隆は目を瞑った。
武道は洗い物を終えたようで、キッチンペーパーで手を拭いてキッチンから出て来る。そして横になる隆のベッドサイドに蹲み込み、話し掛けた。
「洗い物終わりました隆くん」
「ありがとう
とりあえず私帰りますからね。安静に寝てくださいよ。彼女マウントも程々に」
……
「不満そうな顔しても帰りますからね」
「折角来たんだからキスくらいしろよ」
「アンタが呼び出したんだよ。偉そうにすんな。何度も言ってますけど病人は大人しく寝ててください」
隆は悲しそうな目をして武道を見ている。その目にじっと見られていると何だか可哀想になってきて彼女は溜息を吐いた。熱に浮かされ、顔を赤くして気怠そうな雰囲気の隆の手をギュッと掴み、顔を覗き込む。
はぁ。したらちゃんと寝ますか?」
「ねる
隆くんの弱ってたり困ったりする顔に弱いんだよなぁ、私」
良い事聞いた」
「やべ、いらん事言った」
思わず口を滑らせ、苦虫を潰した様な表情をした。悲しげな顔から一転してへらへらと笑う隆をじとりと睨み、照れ臭そうに目を逸らす。
武道はマスクを着けたまま顔を近付けた。そしてそのまま頬に唇を押し付けた。
「はい!これが限界!」
……悪くないな
「はい、寝て!おやすみ!そんで私は帰ります!元気になったらLINEちょうだい!」
うん、おやすみ。ありがとな」
早口で捲し立て、鞄を手に玄関へと駆けていく武道。そんな彼女の後ろ姿を見送り、声を掛ける。玄関からパタパタと忙しない足音とドアの開く音、ガチャリと鍵を掛けた音が聞こえて隆はくすりと笑った。
彼は恥ずかしそうな武道を思い出し、ニヤニヤと浮かれた表情をする。思い出し笑いが落ち着いたのか、深く呼吸をすると隆は呟く。
「寝るか」
冷えピタも僅かに冷たさが引いていた。そんな絶妙な冷たさを感じながら、布団に体を沈める。目を瞑ってゆっくりと呼吸をした。するとすぐに意識を手放し、隆は眠りにつく。彼が再び目を覚ました時にはもう、熱は下がっていた。
熱が下がり、数週間して隆の家に泊まりに来た武道に沢山の料理を振る舞い、最大限甘やかした。多くの料理と最高の待遇に困惑する武道を写真に撮り、SNSにアップした所、友人達からの連絡の通知でスマホが凄い事になり、隆が電源を落としたのは言うまでもない。
そしてこれ以降、自分の困り顔に弱いという情報を得た隆はその弱点をここぞとばかりに使う事となる。『そんな顔しても絆されないんだから!』と息巻きつつも、武道は結局懐柔されて言う事を聞いてしまうのだった。

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