パッと目を開くと、古臭い電車の中にいた。木製の車内に向かい合わせの椅子がずらりと並んでいる。ここはどこだと疑問に思うよりも先に、自分の目の前の席に虎杖が腰掛けている事に気付く。彼は車窓に向けていた顔をこちらに向けて、にこりと笑う。
「遅いお目覚めで」
「どこだよここ」
「…伏黒なら多分分かってるはずだけど」
虎杖にそう言われて、考える。自分が眠るよりも前、自分の身に何が起こったのかと思い出そうとするも、現状何も思い出せる事はなかった。意識を手放す以前の記憶が、濃い霧に掛かって不鮮明なのである。
答えを探す様にポケットの中を弄っていると。小さな紙切れが指先に引っ掛かった。摘んで取り出すと、それは古めかしい切符だった。
「…?買った覚えがない」
「銀河ステーションでもらったんだよ」
「…行った覚えがない」
本当に何も覚えておらず、切符を片手に首を傾げる。印字された文字は滲んで読めず、切符の体を成していない様な気がするが、この何のヒントもない紙切れと睨めっこしたってこれ以上の進展はないと判断し、再びポケットに戻す。
「お前にも切符があるのか」
「なくした」
「多分それ良くないだろ」
「そうかな」
車窓に広がるのは深い夜空と、無数の星ばかり。銀河の輝きは辺りを一等強く照らしている。時折どこかへ停車し、誰かの降車を待った。もう悲しいことなどないという誰かに宛てた励ましがどこからか聞こえる。その言葉を聞いていると、何故だか不思議とそう思う様な気がして。伏黒は久々にひどく穏やかな気持ちになった。
「眉間の皺がない伏黒って久々に見たかも」
「……まあ、これまでの事を思い返せば穏やかでいられる日なんて少なかったけどな」
電車はガタガタと揺れ、線路を辿っている。心地よい揺れと、どこからともなく聞こえる聖歌が穏やかに伏黒を包み込んだ。
(コイツとこんなに穏やかな日々を過ごすのだって久々だ)
虎杖はどこか寂しそうな目で窓の外を眺め、時折伏黒を見て笑う。何でもない事で、特別さなんてどこにもないのに、伏黒にとっては人生の長でも有数の落ち着いた時間だった様に思う。
(ずっとこうなら良いのにな)
そう思って、ハッとして。修羅の道に自分の身を置いたのは自分の選択でしかなく、そんな事を考えてはいけないと眉を吊り上げる。けれど老若男女の清い歌声に、最早そんな気持ちもすぐに小さくなった。ふと窓の外に視線をやれば、大きな川のその奥がぼんやりと赤く光っていた。微かに見える朧げな光を見ながら、頬杖をついた。
清流の中の様な空間で、伏黒は息を吐いていると電車はゆっくりと速度を落とした。そして小さな音を立てて駅に停車する。
いつの間にか伏黒の背後にいた車掌が乗客に対し、降りる様に促した。大切な人が待っていますと言葉を添え、ゆっくりと降りていく乗客に頭を下げる。
訳が分からず困惑する伏黒にも、車掌は降りましょうと声を掛けた。そう言われれば、ここが目的地な様な気がして、伏黒も立ち上がる。
行こうと目の前の彼を見れば、虎杖は依然として窓の外を見ていた。ここで降りろと言われているのに、彼に降りる気は毛頭無さそうで。伏黒は虎杖の脛を蹴った。
「え、いたっ」
「降りるぞ馬鹿、降りろって言われてんだろうが」
「俺の行き先ここじゃないんだよね」
「は?」
そう言って目を細める虎杖に首を傾げると。不意に会話に入ってきた車掌も彼の言葉に同意を示す。だって皆降りるんだろ。そう言えばその言葉にも車掌は頷いた。どっち付かずなその態度にお話にならないと会話を早々に放棄した伏黒は、虎杖の腕を掴む。
「お前も来るべきだと思う」
「俺の行き先は川の向こうだよ」
川の向こう。赤い光が煌々と輝く場所だ。美しいと思うのに、何だか近付いてはいけない様な気がして。伏黒は『いや』と首を振るも虎杖はやはり静かに笑って。伏黒の手を振り払った。
「俺はここに乗る人の分、身体を灼かれなきゃいけないから」
「だから、それはお前だけのせいじゃ」
「そうだとしても俺は、俺がそうしたいと思ってるよ」
そう言って虎杖は伏黒を一瞥し、深海の様な暗い目を窓に向けてぼんやりと座っていた。そこから動かないまま、幸せになれよと伏黒に言葉を送る。外から聞こえる賛美の声は、ただ伏黒だけを待っている。