結婚したくないと言ったら両親は顔を真っ赤にして怒鳴った。それでも結婚したくはなかったので、女学校を卒業後、少しの荷物とこの身一つで出て行ってやった。行動力には自信があった。
そこからは職を転々とした。まずは工女として働き、お金を貯めた。肉体労働で辛かったが、体力と精神力には大いに自信がある。過労で死んだり、耐え切れず夜逃げする少女がいる中、武道は一人一生懸命に働いた。無遅刻無欠席、愛想もよく仕事も真面目に取り組むその姿を見た上司からは無事好かれ、給与に少し色を付けてもらったり食料を恵んでもらったりした。他の少女達には無い高待遇で申し訳ない気がしたが、生きるためなのでしかたがない。
そうして稼いだ金で良い着物を買い、カフェの女給へ転職した。理由は給料が良いから。良くしてもらった職場の上司には申し訳なかったが、何かあったら頼ってくれと言われたので悪くは思われていないのだろう(尚、転職理由は誤魔化したため本当の事は知らない)。
工場とは違い、身なりも綺麗で美しい女性が大勢働いていて、その中で成り上がっていくのは大層大変だったが、武道は懸命に頑張った。愛想を振り撒き、男の肩に優しく触れる。すると徐々に常連客がついてくれる様になった。
それなりにやり甲斐も感じていたところで、武道は女給の仕事を辞めた。理由は二つあった。一つは常連客同士が武道を巡って殴り合いの喧嘩を始めたから。武道を気に入っている客は厄介者が多いらしい。武道を巡って遂に客同士で殴り合いをし始めてしまった。そのせいでカフェの椅子とテーブルが壊れた。
二つ目に常連客でかなり羽振りの良い中年の男に妾にならないかと執着された事。断り続けたら、妾にならなくて良いから身体の関係にはなってほしいと言われ、思わずビンタをしたら店にとんでもないクレームを入れられたから。要するに武道につく客が店に迷惑を掛けたため、事実上のクビとなった。それ以前に老いた男の手垢を付けられる嫌悪感に耐えられなかったので、遅かれ早かれ辞めようとは思っていた。
そうして三度目の再就職。選んだのは金持ちの使用人。所謂女中だが、雇用主は軍の偉い人。流石に結婚が嫌で家を飛び出し、今まで独身で、これまで二度仕事を辞めて一人で生きてきたなんて事は言えない。なので夫に先立たれ、子供にも死なれてしまい、夫無し子無しの女はいらないと家族からも縁を切られ、一人で生きる他ないと堂々と嘘を吐く事にした。
しかし武道は素直で演技が下手である。でっち上げた悲しい過去をあまりにもあっけらかんと語るものだから、主人は彼女をおかしく思い、大層気に入って雇ってくれた。その雇用主の名は黒川イザナ。若き天才士官として名高い青年であった。
武道にとって家事は一番苦手な仕事だ。しかし生きるためにはやるしかないため、ミスをひたすら誤魔化しながら仕事をした。こうして親元を離れ、職を転々としながら生きて、もう彼女は二十代も後半。世間的には行き遅れどころか、愚物だけれど、武道は今日も健やかに強かに一人で生きている。そんな毎日を過ごす中、武道に四度目の転機が訪れた。
今日は客人が来るらしい。どうやら主人が大層可愛がっている弟分だと言う。そう共に働いている女中仲間が噂していた。まあ、私には関係無いよなぁなんて呑気に欠伸をして今日もゴシゴシと洗濯を進める。井戸の前にしゃがみ、洗濯板で衣服をゴシゴシと洗う。冬は手が冷えて冷えて辛いけれど洗濯物は嫌いではない。料理よりは数段マシであった。
手を泡だらけにしながら着物を手洗していると、男性の声が聞こえる。主人以外の男性の声だ。きっと彼が例のお客人なのだろう。低くて綺麗な声をしているなと洗濯をしながら気溢れていると突然、会話が止まった。聞こえなくなって少し残念に思ったが、続いてドタドタと人が走る音が聞こえた。そして後ろの引き戸がガラガラと開いた。近距離で聞こえた音に驚き、武道は振り返る。そこにいたのは軍服に身を包んだ体格の良い男だった。
「…は……タケミチ」
「───え」
男の口からは何故だか自分の名前が発せられて、武道は目を見開く。洗濯の手を止めて思わず立ち上がった。
知らない。顔に酷い傷の付いた男なんて。こんな人がいたらきっと覚えているはずなのに。困惑する武道の方へ駆け寄ってきた男は彼女の頬をツゥと撫で、顔に喜色をたたえた。
「タケミチだよな!?」
「…あ…」
「あっ、す、すまない…」
変わって彼は眉を下げ、申し訳無さそうな顔をする。パッと手を離し、彼女から一歩下がった。
「会えたのが嬉しくて、つい…」
「………いっ、いえ……」
「イザナが新しく雇った女中ってお前の事だったんだな。…でもタケミチって俺と同い年だよな…結婚したら女中にはならないだろうし、…タケミチってもしかして結婚」
「……お客様、足袋のままでは汚れてしまいますよ。旦那様もお待ちでしょうし、どうかお戻りくださいませ」
誰だか心当たりは全くないが、彼は自分の事を知っている様子だ。そんな事はどうだって良いとして、こうも邪推(とは言え全てが真実である)されて黙っていられるほど淑やかな女ではない。さっさと黙ってくれと言う意味も込めて失礼を承知ながら言葉を被せた。
すると彼は黙り込む。対して武道はそんなに酷い事を言ったかと動揺した。彼は武道に酷い事を言われて絶句したのではなく、堅苦しい敬語で身分の違いを突き付けられて言葉が出ないのだが、武道は知る由もない。
「おい、急に走るな」
イザナが追い付き、彼の頭を叩く。固まってピクリとも動かない男に訝しげな目を向けつつ、武道の方を見た。
「お前、コイツに何かしたか?」
「…いえ……中へお戻りになられてはとお伝えしただけですが…」
彼の様子に武道も困惑した。事実だけを端的に告げる以外何も出来ずにいる。
「何してんだ鶴蝶」
「…あ、いや…申し訳ありません…少し、衝撃が……」
「ここには俺とお前しかいねぇんだから敬語は良い」
「あ、おう……」
イザナと男、鶴蝶は上司と部下と言う立場であるが親しい仲らしい。敬語を外して何やら言い合っているが、武道にはさっぱりだ。困ってしまって立ち尽くすが、自分には関係の無い話だと割り切り、仕事に戻ろうとした。洗濯物を進めないと終わらないからだ。
二人を尻目にしゃがむ彼女の腕を鶴蝶は掴む。その手は非常に優しかったが、武道はやはり知らず知らずのうちに何かしてしまったのではないかと身体を強張らせた。
「タケミチ、俺の事覚えてないか?」
「……えーっと…」
「そりゃ確かに、もう離れて十…八年?くらいだが、…いや、でも俺達は幼馴染みで」
幼馴染みと呼べる様な人は山本タクヤしかいない。そんなタクヤとももう十一年ほど会っていなかった。鶴蝶なんて名前に心当たりはなく、言葉を詰まらせる他なかった。
「ぶ、文通だってしてただろ。…俺が養子に取られてからはもう忙しくて手紙書く暇なくて自然消滅したけど…」
「……大変申し訳ありません…心当たりが…」
「知らねぇってよ」
「…うぅ…」
悲しそうに唸った鶴蝶はキュッと口を噤んだ。何だか可哀想だったけれど、知らないものは仕方がない。にこりと愛想笑いを浮かべて仕事に戻ろうとするとイザナから仕事に戻るなと言われた。
「…いえ、あの、そろそろ洗濯物を終わらせませんと、乾きませんし次の仕事にも取り掛かれないと言いますか…」
「話終わってねぇだろ」
「話はまだ終わってない!」
鶴蝶とイザナの両方に言われ、武道は黙る。ほぼ涙目の鶴蝶は彼女の濡れた手をキュッと掴み、困惑する彼女をじっと見つめた。
「タケミチ、お前は結婚してないんだよな?」
「…………………あー…」
「まあ家庭に入らず女中奉公してるからな。コイツの過去がどう言うんだかは知らねぇけどお前に話したコイツの話多分、全部嘘だと思う」
「…ああ、まあ、タケミチだしな…」
イザナが言っているのはおそらく、女中として雇ってくれとお願いするために語った真っ赤な嘘達の事であろう。やはり嘘だとバレていたのか。そうは思っていたけれどイザナ雇用主の口から直接言われると動揺する。額に汗をかきながら目を泳がせていると鶴蝶は武道の顔を覗き込み、目線を合わせようとした。
「ならば俺と結婚しようか」
「………は?」
「…なかなか情熱的だじゃねぇか、カクチョーも」
思わず語気の強い言葉が出て急いで口を閉じた。結婚しようって何?どう言う事なの。大混乱の彼女に鶴蝶はニコニコと笑いながら続けた。そんな中、イザナはどこか合点のいった声を上げる。
「…ああ、もしかしてこの女があの」
「あーっ!バカ!言うなっ!」
その声を掻き消す様に鶴蝶は大声を上げた。突然何なんだこの人はと不審な目で鶴蝶を見る。照れ臭そうに頬を赤らめた鶴蝶は興奮気味で言った。
「過去の事は後々思い出していくとして、ほら…その…タケミチはさ、俺と同い年な訳だし、世間一般で言えば〜…あまりこう言う言い方はしたくないが行き遅れ、だろ?」
「二十六なのお前。二十って言ってたじゃん」
年齢のサバを読んでいた事までまんまとバラされ、赤っ恥だ。だがイザナの発言によれば、自分の童顔を利用して何とか誤魔化せてはいたのだろう。二十六だけど二十歳のフリは全然いけるんだなぁと謎の自信がついた。
こんな事を言われたらもうここには残れない。雇用主にとんでもない嘘を吐いて騙しで働いていたのだ。立腹間違い無しである。仕方ない、またどこかで適当に誤魔化して働くかと息を吐いた武道に鶴蝶は畳み掛けた。
「大尉になって上官の許しも出た事だし、両親…養父母な?二人にも結婚しろって耳にタコが出来るくらい言われててな?でも俺としては女性はあまり得意ではないし、そんな中でタケミチがいてくれたら俺は本当に嬉しいし心強い」
「……………いえ、私は」
「タケミチだってもう行き遅れとは言われなくなるだろ?世間からの冷たい目からも逃れられるし、損はないとは思わないか?」
「いえ!あの!私は結婚いたしませんので!結婚が嫌になって実家飛び出して来ましたので!どなたとも一緒になる気はございません!私は一人で生きます!」
そう強く宣言したが、何だか虚しい。武道だって別に結婚したくない訳ではない。厳密に言えば実家を飛び出したのは親の決める相手と結婚したくはなかったからだ。自分で納得出来る相手を見つけられたらその人と結婚したいとは思っていて。しかしそんな人が現れなかったからこそ、武道は今、一人なのである。行き遅れがすぎてなんならもう結婚願望は薄れつつあった。
彼女の言葉に再び衝撃を受け、鶴蝶は涙目で黙る。彼の手が緩んだ隙にスッと自分の手を抜いた。そしてとりあえず目の前にある仕事をさっさと片付けようと洗濯桶の前にしゃがもうとした時、再びイザナから黙ってそこに立っていろと命令された。
「お、俺は、タケミチが今までどんな人生を歩んできたのかは知らないが、お前が人生で出会った男の誰よりも優しくするし、丁寧に扱う!武道の事は命に変えてでも守ろう!」
「いえ、……いえ…」
「言葉に困ってんな」
「それに地位も、俺の顔も!それ程までに悪いものではないだろ!」
「まあ、男としてはかなりの優良物件だな」
「………いえ、恐縮ではございますが、…あのっ、…本当に結構です…」
「拒否されているな」
「なっ…ど、どうして!この世を生きる大抵の女性は皆、何も知らない男と縁を結ぶのが普通で」
「私はそれが嫌で家を出たのです。自らの人生を自らで歩みたい、殿方様にとっては非常に傲慢なのでしょうね。女如きが、でございましょうか」
「あっ…すまない…そんなつもりはないんだ。クソ…何と言えば良いのだろうか…」
「何を言われようとも、よく知らぬ貴方様と契りを交わす事は致しかねます。第一、貴方様と釣り合う様な身分ではございませんし、二十六の行き遅れの女子など、御両所様が許すはずもありません」
「まあ、確かに」
「イザナはうるさい!」
言葉ごとに茶々を入れるイザナを鶴蝶は怒鳴る。彼にそう言われたイザナは、ムッとした顔でつまらなさそうにそっぽを向いた。
「そもそも敬語をやめてくれ。堅苦しいのは嫌いなんだ」
「そうでもねぇだろ」
「俺の何がそんなに嫌なんだ…俺達は幼馴染みで、本当は知らない仲などではないし、タケミチの事は本当に尊敬しているし、欲しい物は何だって買ってやれると言うのに」
「貴方様が、と言った話ではございません。貴方様にとっての私は知り合いでも、私にとっての貴方様は知らない人、なのでございます。その事実が揺るがない以上、私は何を言われても頷きはしません。それに先程も述べさせていただきましたが、私達は身分が違いすぎます。貴方様も結婚相手はもう少し慎重になって選ぶべきかと存じます」
「本当にな」
両者一歩も引く気配がない。二人が静かに言い合う中、イザナは手を上げる。鶴蝶がそれに気付いて『何だよ』と首を傾げればイザナは気怠そうに口を開いた。
「お前、どうせ懐に『例の文』を忍ばせているんだろ?それを見せてやれば良い話だ。上手くいけばこのバカ女も思い出すかもしれねぇし」
「タケミチはバカじゃない!」
「あの、終わらないので洗濯に戻ってもよろしいでしょうか」
「おい空気読め今」
「タケミチ、今じゃないだろ」
声を揃えて言われ、武道は黙る。女中の仕事は家事なんですけどもと言葉を挟む事も出来ず、死んだ目で静観した。
ガサゴソと文を探す男はふと手を止める。イザナがどうしたと聞けば、鶴蝶は赤い顔で言った。
「いや、そう言えばとても恥ずかしい言葉が並んでいるものだから、見せても良いのかと…」
「書いたのソイツだろ」
「だからこそだ」
「………あの、見せた所で思い出す可能性はありませんし、そもそもいつ頃の文でしょうか。子供の頃に書いたものであれば例え結婚の約束が書かれていても、そこに抗力はないでしょう?」
武道に言われ、鶴蝶は黙ってしまった。手に取った文を静かにしまい、何かを考え込む。イザナは面倒臭そうに二人を眺めていた。
「結婚してやれば良いじゃねぇか。それとも運命か何かでも信じているのか?」
「お戯れを。人に言われるのが嫌いなだけでございます」
「じゃあ今俺に雇われてる事も嫌なのか?」
「それは私が選んだお仕事でございますので」
「そうか…」
鶴蝶は何か、合点がいったような声を上げる。顔を上げると今度は武道ではなく、イザナに身体を向けた。
「イザナ」
「あ?」
「俺はこの女が欲しい」
イザナは鶴蝶らしからぬこの乱暴な言い方に目を見開く。対して武道は彼が自分の何に執着しているのか分からずに怪訝な顔で首を傾げた。
「俺に譲ってはくれないか」
「………別にまあ、鶴蝶がこう言うのも珍しいし、譲ってやっても良いんだけどな。親にはどう言うつもりだ。行き遅れで身分違いの女なんか許すはずもないだろ」
「それは上手く言える。そもそも俺の両親は身寄りのなかった俺とイザナを引き取って育ててくれた優しい人だろ?子供が出来ないから子供を貰うにしても、孤児には寄り付かないだろうし、それが二人だなんて優しい人しかない」
「話で同情を引いて押し切ろうとでも言うのか」
鶴蝶はにこりと笑った。その笑顔を見てイザナは溜息を吐く。何だか訳が分からないまま話が進んでいるような気がして、武道は眉間に皺を寄せた。
どうせ冗談か何かなのではと密かに信じていたものはすぐに裏切られた。ある日突然、イザナと鶴蝶に連行され、連れて行かれたのは鶴蝶の家。何の説明もないまま彼の両親らしき人と対面してご挨拶。
自分はとある家に嫁いだが、子供が出来ずに嫁ぎ先からも実家からも追い出されてしまい、困っていたところをイザナに拾ってもらって女中として働いていた真っ赤な嘘を鶴蝶はペラペラと話していた。同じく(ではないけれど)子供の出来なかった奥様は涙まで流して同情してくれた。ごめんなさい。そんな幼馴染みと運命の再会をし、結婚しようと思ったと。それを聞いた彼の父は自身がキネマ好きと言う情報もおまけに付けて、感銘を言葉で表しながら大賛成された。気は確かか。
よくもまあ行き遅れの女なんかと結婚するのを了承してくれたなと思う。悪い人ではなさそうだけれど、とんだ変わり者なんだろうなと感じた。
不機嫌そうな顔をしている訳にもいかず、武道は訳が分からないながらもただニコニコと笑っていたけれど、横で嬉しそうに談笑している鶴蝶を見ていると何だかムカついて仕方がない。両親を上手く丸め込み、拒否権もないままに話が進む中、武道は鶴蝶を睨み付ける事ぐらいしか出来る事がなかった。