二十代後半にして、氷織羊は実家の堅苦しさに気付いた。異常性にも気付いた。
この現代社会に今更うちの伝統だからと言って着物の常用を強要するだとか。こんなものは古式ゆかしいうちには似合わないと電子機器に消極的だったり。両親はスマホなんか持っていないし(氷織も高校生までは持たせてくれなかったが大学になり、自分で稼いだ金で勝手に買った)、家にテレビもパソコンもない(大学で使用するパソコンも今まで貯めて来たお年玉をはたいての自腹だ)。
風呂だっていつの時代から使っているんだと言いたくなる薪を焚べて湯を沸かすタイプの超旧式だし、エアコンはないから夏の暑さは簾や朝顔のカーテンでやり過ごす。だがお手洗いと台所だけはしっかりと文明開花と技術力の進歩が見られる。沢山のボタンのあるウォシュレット、三口のガスコンロ、電子レンジ。現代社会の技術力の凄まじさと便利さには両親も敵わなかったらしく、悔しそうに使い倒していた。
伝統やしきたりなどと言ってわざと時代の波に乗らないだとか、やる事なす事を制限するだとか。二十代も後半のくせに世間の事を何も知らない事が怖くなり、氷織は遂に家を出た。ICOCAと財布とスマホを持って最低限の荷物で家を飛び出した。着物しか持っていないけれど、大学に行くために購入した最低限のパーカーを着込んで、氷織は何も言わずに家出した。両親は金切り声で叫んで止めていたけれど、来たバスに乗って振り切ってしまえばこちらのものである。スマホを持っていないし、自分がスマホを持っている事を未だに知らない両親に、連絡の手立てはない。そうして氷織羊は古式ゆかしい実家を出て、一人で弾丸の上京を決めた。
とは言え本当に弾丸なので、行く宛などない。関東に知り合いはいるけれど、家に押し掛けるほどではないと言うか、別にそういう関係値だとしても押しかけたくはないというか。
とにかく、氷織には行く宛がなかった。あまつさえ雨まで降り始め、何ならとんでもなく豪雨で、折り畳み傘などもなく。行く宛もなく降り立った知らぬ町を歩き回っていた氷織は、どこかでとりあえず雨宿りでもしようかとフードを被り、走った。
「ほんま、最悪やわ!」
打ち付ける雨に全身びしょ濡れで、服も全身水を吸って重たい。こんな状態で入れてくれる様な店だって多分無くて、もう公園でもどこでもいいから屋根のある場所に行きたかった。それでも走りっぱなしでは体力が尽きてしまい、道の真ん中で立ち止まる。
乱れた息を整えても、呼吸をするたびに雨粒が鼻から口から入り込んでしまう。どうにも上手くいかないなぁと気分も身体も重くなって走る気力が段々と減衰して。もうその場に立ち尽くしたままただ雨に打たれ続けた、その時。
「………あの」
警戒心を隠さない、でもとても柔らかな声に顔を上げると。レトロな雰囲気の店先からこちらを伺う若い女性がいた。黒く艶々とした長い髪を流し、丸くはっきりとした目でこちらを心配そうに見つめている。
「大丈夫ですか?」
「………え、あ」
「びしょ濡れ…寒いですよね」
店先から屋根のあるギリギリのところまで出て、氷織に手を伸ばした。そんな彼女をぼんやりと見つめている氷織は、雨とか寒さとか、服が濡れて体にへばり付いた不快感とか、そんな些細な事は最早どうだってよくて。視界が先程よりも鮮やかになって、それからポッと全身が熱くなって、まるでレモンを齧った様な感覚に陥った。くらくらと麻痺していく。僕の世界が、可愛いに支配されていく。
「だ、大丈夫ですか?」
ぼんやりと動かない氷織の顔を覗き込んでくる彼女。下がった眉が可愛くて、氷織はハッとして。急いでコクコクと頷いた。
「あ、は、ハイ」
「傘は…?」
「ないです…家もないし…」
「えっ家?家っ!?」
冷静なフリをして動転している氷織は余計な事を口走り。彼女は驚いた様な声を上げた。
「〜っ、入ってください!お店の裏、私の家なのでお風呂、貸します!」
「えっ、でも、僕めっちゃ濡れてて…」
「だからでしょ!ほっとけないです!それにうちの店、基本人いないんで!」
湿り切った氷織の腕を掴み、引く。よろけて出た一歩は、グチョリと濡れた重たい音がして靴下を貫通し、指の間に水が染み込んでいった。
店内は古く可愛らしい内装だった。窓はステンドグラスで、可愛らしい花の様なライトが吊り下げられ、薄暗く雰囲気がある。ふかふかの椅子とテーブルの並んだ、絵に描いたようなカフェだった。居心地の良さも感じる。ただ、客は誰もいない。
そんな店の裏に通され、明らかに他人の家と言った空間で浴室に案内される。彼女はテキパキとバスタオルを用意した。
「これ使ってください!」
「う、うん、ありがとうございます」
「私は、えっと、男性用の下着と服を買いに行きたいん、だけど…」
その発言から現在彼氏や旦那等はいなさそうだなと思ったけれど。それを口にするのはあまりに気色が悪いので勿論黙ったままである。
「男の人って普段どこで買いますか…?」
「…下着類はコンビニでも売ってますよ」
「コンビニ…!服は?」
「最悪下着だけ買うてもろて、服乾くまでちょっと居させてもらえれば乾いたやつ着れます」
「じゃ、じゃあコンビニ行ってきます」
「………え、君一人暮らしやんな?」
「あ、はい」
「会ったばかりの知らんやつお家に一人にしてええの?」
指摘の内容は完全にうっかり頭から抜けていた様だ。『どうしよう…でも…』と困り果てる彼女に氷織は側に置いたびしょ濡れの鞄の中を漁った。
「…うわぁ、あかんなぁ。お札びちょびちょや…後で乾かさな…レシートもふにゃふにゃやわ…ほんま最悪」
「ど、どうしたの」
「これ」
氷織が手渡したのはマイナンバーと運転免許証、健康保険証にパスポート。持ち得る限りの個人情報を全て彼女に渡した。氷織的にも彼女に情報を知られる事は全く問題なかったし、自分の個人情報一つで信用が買えるのであれば、幾らでも提供するつもりだ。
「僕の個人情報。写真撮っといた方がええですよ。何かあれば通報して、これ全部警察に突き出してもろてかまへんからね」
「え、そ、そこまでは…」
「僕と君の間に信頼関係はないし、これじゃあ僕がめちゃくちゃ怪しいから、僕的にも身の潔白は証明したいんよ」
そう言われていそいそとマイナンバーやパスポートの写真を撮り。一つ一つのカードを丁寧に財布に戻した。
「後でお金は払うから、下着だけよろしゅう頼みます」
「う、うん!えっと、ひ、氷織、さん!」
「……あ」
「え、あ、はい!」
「あ、いや……ここまで世話になって何も知らへんっていうのも変やしね、君のお名前、とりあえず聞いてもええですか?」
そういうと彼女は『ああ!』と声を上げる。そしてにこりと笑って名乗った。
「潔世一です」
「潔さん」
「あ、私のマイナンバー見ますか?」
「…いらんよ。君は別に身の潔白証明せんでええんよ。自分、めっちゃ天然やんな」
氷織の指摘に潔はポッと頬を赤らめる。天然で、表情豊かで、ちょっと抜けてて危なっかしい。この数分で潔に惹かれまくった氷織は彼女が外へ買いに走った後、口を手で押さえて叫び声を上げる。
「─っ、あかん、めっちゃかわええ…!」
齢二十後半。上京1日目、上京生活0日の家出青年氷織羊は、そこで出会ったお人好しの女性にお手本の様な一目惚れをかました。
氷織がシャワーを浴びている間に彼女は帰ってきて、洗面所の閉じた扉を一度ノックして下着を置いて行った。氷織はシャワーで温まった身体をバスタオルで包み、下着を履く。コンビニの下着は生地も薄く、安っぽさが隠し切れていなかったが贅沢も言ってられない。
それからもう一つ、ビニール袋には入っていた。出してみるとそれはタンクトップで、こんな物まで売っているのかと驚きはしたが。
「………タンクトップってあんま身に付けた事ないんよなぁ」
彼女的にはキャミソールやブラジャー的な感じで買ってきてくれたのかもしれないが。男は往々にして上裸でも問題無い生き物ではあるので。無駄にお金を使わせてしまったと申し訳ない気持ちになったが、結局のところ後で自分が払うのでまあ良いかと開封した。
生地の薄いタンクトップとパンツを身に付け、念の為バスタオルを羽織っておく。それからドアを開け、潔を大声で呼んだ。
「潔さーん」
「はい!って、わあ!」
上半身は隠してるとは言え、下半身と足は丸見えでそれを見た潔はすぐに顔を背ける。すみませんと謝罪をしているけれど、セクハラっていう点で言えば多分謝るのは僕の方やな…と氷織は思った。
「ドライヤー使うてええですか?」
「あ、どうぞどうぞ!」
「あと、めっちゃ我儘でも申し訳ないねんけど、あったまる用のバスタオルお願い出来ますか?…湿ってて寒いから…」
「あ、わ、わかった!…毛布の方がいい?」
「あ、いや、どちらでも…」
「じゃあ毛布出してここ置いとくので!」
「あとタンクトップもありがとう」
「Tシャツもコンビニ売ってるって買いてあったんですけど、売ってなくて…気休めにしかならないかもですけど」
「いやいや、ありがたいわ。あんま若い女の子に下着晒し続けんのもあかんし、一旦ドライヤーしてきますね」
「あ、わ、ご、ごめんなさいっ……ちなみに、あの、私、氷織さんと同い年なので」
そう言い残してドアが閉められた。残された氷織は目をぱちくりとさせて、驚く。柔らかな顔立ちで年下だと完全に思い込んでいたのだが、まさか同い年だとは。あの幼い輪郭で二十代後半で、三十代が眼前に控えているとは年齢開示後の今でも思えず。女性って凄いなぁと感心した。氷織に女性経験は勿論の事ないので、彼女がかなり童顔な部類に入る事は知らない。
ドライヤーを終え、髪をサラサラにした氷織は洗面所のドアの前に畳んで置かれた毛布を羽織り、歩く。足音を聞きつけたのか、様子を見にきた潔に手招きされ、彼女の家のリビングに足を踏み入れた。
「ソファー座ってください」
「ええの?ありがとうございます」
「何かあったかいもの飲みますか?シャワーだけだと身体ってあんまりあったまりきらないですよね」
「あ、欲しい、かもです…あの、あと、敬語使わんでええですよ。僕に気ぃ遣わんといてください。むしろ遣うべきなのは僕やしね」
潔はそれならと言葉を崩す。ケトルに水を入れ、火をかけながら潔は声を掛けた。
「じゃあ氷織も敬語使わないで良いよ。そう言う堅苦しいのとか、なんかこそばゆくて」
「…わかった」
「コーヒーでいい?飲める?店にいっぱい豆あるから取ってくるね。氷織はなんか、コーヒーの味に拘りとかある?」
「…あんまり?味の違いよう分からへん。でもよく飲むよ。苦いと目覚めるから夜に仕事する時に眠気覚ましで丁度ええんよ」
「夜に仕事してるんだ。分かった、じゃあブラックで、普通に飲みやすい豆取ってくるね」
パタパタとまた店に戻り、豆の入った瓶を手にして戻って来る。それからミルに豆を入れてゴリゴリと挽き始めた。
「お店とかじゃ既に挽いてるものとか、機械で一気にガガガってやらんの?」
「大きなお店じゃそうだけど、人のいない個人店はそれを導入出来る資金も、活用出来るほどの忙しさもないかな…」
「え、あかん、堪忍や…」
挽いた粉をフィルターを敷いたドリッパーに入れた。まだお湯が沸騰していないらしく、可愛らしいマグカップを二つ用意して待つ。
「あ、自分で飲む感じでお湯沸かしてるけど人様に出すんだからちゃんと温度測った方がいいじゃん」
「ええよええよ。気にせんといてよ。僕に味の違いは分からへんから、何飲んでも美味しいで終わりやさかい。逆に申し訳ないわ、違いの分からへんやな客やね」
「いやいや、…でも、それならお言葉に甘えて。お客様に提供する様なちゃんとしたコーヒーって意外と手間なんだよね」
ケトルがピーと音を鳴らし、沸騰を知らせる。それからお湯をドリッパーに注ぎ入れた。すると下に置かれたサーバーにコーヒーが溜まっていく。サーバーがいっぱいになってケトルをコンロの上に戻し、フィルターを捨てて潔はサーバーとマグカップを持ってこちらに来た。
「お待たせ。ミルクとかは、入れたい気分?」
「潔さん入れる?」
「私は良いかな」
「じゃあ僕もええわ」
家主がいらないと言っているのに、取りに行かせるの申し訳ないし。そもそもブラックコーヒーが好きなので、別に入れるつもりもなかった。断りを入れると『そう〜?』と呑気な返事をして、マグカップにコーヒーを注ぐ。
「よし。どうぞ。熱いから気を付けてね」
「おおきにね」
少しふうふうと息を吹いて冷ます。そして一口コーヒーを啜った。程よい苦味が口に広がり、飲み込んだ氷織は息を吐く。
「あったかい…おいしい…生き返った心地やわぁ…」
「よかった。お菓子食べる?お客様に出す用のクッキー一応作って保存してあるんだけど、出す機会もそんな無いし、そろそろ処理して新しいの作り直さなきゃだから」
「…ええの?そんな、色々貰うてしまって」
「うん。むしろ残飯処理みたいな事させて申し訳ない」
謙虚にそんな事を言って自虐的に笑い。潔はまた席を立ち、店先にクッキーを取りに行く。まんまるの可愛らしいクッキーは白と黒の二色があり、おそらくバニラとチョコだろうと分かる。
「かわええ。いただいてええ?」
「もちろん」
「………あまくておいしい…」
「よかったぁ」
安心した様な声を上げて、潔もクッキーを摘む。素朴なクッキーを噛むたびにほんのりと優しい甘さが口に広がり、それがコーヒーと非常にマッチしていてたまらなく美味しい。心も身体も温まり、落ち着いてきた氷織は身体の力を抜いた。
「後で服とこのお代はお支払いするね。今ちょっとお札びしょびしょやから、乾かさせてほしいんやけど」
「いや、下着はともかくとしてコーヒーとクッキーはいいの!こんな雑なコーヒーでお金取っちゃダメだし!」
「なんで?美味しいのに。払わせてよ」
「ダメダメダメ!またお店来てくれたら美味しいので淹れるから!下着だけ!貰う!」
何度そのやり取りをしても無理とダメばかりで。彼女の意志はテコでも動かなさそうだった。これはもう無理だなと最初に折れたのは氷織で、少し不満そうに分かったわと頷く。
「…氷織は、家、ないの?」
「うん。今さっき東京来たばかりやさかい、行き当たりばったりやわ」
「なんでそんな弾丸上京を…」
「んー、生活を変えたくて?」
真実をはっきりと話しているわけではないが、別に間違った事も言っていない回答で何となく誤魔化すと。潔はタブーな雰囲気を勝手に感じ取って『そっか〜』と短く返答した。
「潔さんのお店、めちゃくちゃ雰囲気ええね。可愛らしいし、安心感もある。クッキーも美味しい」
「あ、ありがとう…!ここね、私のお婆ちゃんから譲ってもらったお店で、大切なんだ!サッカーがひと段落したら第二の人生はここで始めようってずっと決めてて!」
「サッカー?」
「私、サッカー選手だったんだ。女子日本代表とかにも選ばれてた」
氷織は目を見開いて、驚嘆の声を上げた。テレビなんて全く見ないので、そう言った事には非常に疎く、彼女がサッカー選手だなんて全く知らない。その事を謝罪すると潔は気持ち良く笑って手を振った。
「選手の顔と名前一致するのってスポーツ好きだけだから!大抵の人は忘れちゃうよ。で、引退して、お店してるの」
「ええね。頑張った分ゆっくりしてるんやね」
彼女は幸運と才能と、沢山の魅力が詰まったオーラを纏っていて。確かに神に愛されている子だと氷織は思った。こう言う強い気配のある人は大抵大きな何かを成し遂げるし、何者かになっている。
「君もあのお店もとても素敵で、ええ雰囲気やね。安心する、人が集まるべき場所や」
「…きみも…?…あ、えっと、ありがとう」
「なのにどうしてお客さんがおらんの?」
客が入ってもおかしくないというか、氷織からすれば客が入っているべきカフェなのだが、先程も今も客が入った様子も気配もない。それを聞くと潔も首を捻る。
「…分からなくて…」
「分からない」
「お婆ちゃんがやってた頃は繁盛してたんだよ。私もお手伝いしたし。でも、私が継ぎ始めてから上手くいかなくて…そりゃ近くの商店街がシャッター街になって人が少なくなったからって言うのはあるかもだけど、それにしても人が来ない…」
「んー…」
「コーヒーの事もお菓子の事も経営の事も頑張って勉強したのに…私って才能無いのかも…」
「そんなはずないよ。君には惹きつける才能がある」
僕が惹かれた様にねと脳内で付け足して。それはそうと、客が来ないはずがないと氷織は確信を持っていた。彼女は常時そう言う気配を纏っている。そしてあの店にも客が来る明確な理由がある。だから氷織からすれば、ここまで閑古鳥が鳴いている事があまりにも不自然で違和感なのだ。
氷織はコーヒーを啜りながら、少しだけ集中する。周囲の音に慎重に耳をそば立ててみる。ザァザァと激しい雨の音、雨がトタンに当たってパラパラと鳴っている。渦巻く人の気配、雨宿りする猫の気配。それから、一つの違和感。鳥肌の立つ様な悍ましさを感じて、氷織は目を開いた。
「………ちょっとお店の方から外覗いてきてええ?」
「い、いいよ?…いないと言っても一応常連さんはいるから、鉢合わせしたらごめんね。弁明はする」
「……今それあんま言わんといてほしかったわ。行きたなくなるやん」
「そもそも何で急に?」
「…ちょっと確認せなあかん事が出来てもうてね」
氷織は毛布に包まったまま立ち上がる。そしてビチャビチャの靴を突っかけようとした。それを阻止した潔がサンダルを渡し、言葉に甘えてそのサンダルを履く。そして店の方に出て、氷織は窓の外を覗いた。
「ふぅん」
少し覗いてすぐに帰って来た氷織はソファーに腰を下ろし、優雅にコーヒーに口をつける。彼の一連の行為が理解出来ないようで、潔は質問した。
「何を確認したの?何かいた?男の人とか」
「…んー、別にそうやないけど。どうして男の人やと思ったん?」
「え?」
「別に性別を限定する必要はないし、何なら人と断定するのも早いやんか。…何かあるん?」
潔は露骨に視線を泳がせた。楽しく饒舌に話をしていた彼女が、気まずそうに黙りこくってそっぽを向く。それで何も無いとは流石に思えず、氷織は潔の顔を覗き込んだ。
「何かあったんやね?」
「………こんな事、会ったばかりの氷織にする話じゃないんだけど」
ストーカーがいる。彼女はそう言った。結構前から、おおよそ一年くらいから、自分をつけ回す何かがいると。直接的に接触した事はまだ一切ないが、ポストに手紙が入っていたりしたらしい。それも別段性的な事等ではなく、ただ日々の出来事と自分への愛の言葉が綴られた気味が悪いだけの手紙で、よく聞く君は今日何をしていたねと言うような監視されていそうな文言も一切無いとの事だ。だが気持ち悪くて、怖くて、どうしようもないと。友達にも親にもこんな事相談出来ないと嘆く彼女の肩は震えていて、側にいてあげたいと思ったけれど。出会って数時間の氷織にその距離は許されていないので、大人しく座ったままだ。
「その手紙、ある?捨ててしもうたかな」
「…あるよ。一応取ってある。警察に証拠として提出出来るように」
「うん、偉いね。ええこや。良かったらそれ、僕に見せてくれる?」
奥から小さな収納ケースを持って戻って来た潔はそれを氷織の前に置く。彼女に一言断って便箋を一通手に取った。
「………なるほどなぁ」
「?」
「内容も見させてもらうわ、一応」
中に入っているのはたった一枚の手紙で。内容はやれ今日は惣菜がお買い得だとか、天気だとかつまらないものだ。本当に彼女への言及は何もなく、強いて言えば文章の合間合間に書かれる愛の言葉と、軽い妄想。結婚生活でも想定しているのか、少し気持ちの悪い虚構の羅列は目立っていたが。それ以外は何も無い。
「…うん、分かったわ。おおきに」
「警察、行った方がいいかな」
「…いや、警察は無理やね」
「……やっぱり実害が無いと動いてくれないか…」
「いや、そうなんやけど、そうやなくてね」
コーヒーを飲み終えた氷織はテーブルにマグカップを置く。それから顎に手を当て、考えていると。家の裏からガコンと音がした。
「郵便?ちょっと取ってくるね」
立ち上がった潔はいそいそと裏口へ向かう。それからすぐに小さな悲鳴が聞こえた。
「潔さん!?」
「ひ、氷織っ…!」
彼女の足元にあるのは地味な便箋だ。そう、先程潔に見せてもらったものと全く同じ、シンプルなものだった。
「…僕が開けるわ。潔さん、玄関鍵閉めて」
氷織の指示に素直に従い、開いたままの鍵を閉める。氷織は封を乱雑に開け、中身を確認した。その内容も先程と全く似たようなもので日々の出来事と変化が綴られたものだ。おそらく、同一犯で間違いない。内容をざっと確認して封筒に戻し、氷織は彼女の手を引く。
「戻ろか。ここおっても怖いやろ」
「う、うん」
震える彼女とリビングに戻り、ソファーに座らせる。本当は毛布の一つでもかけてあげたかったが、氷織が毛布を取るとタンクトップとパンツの変質者になってしまうため、それは出来ない事に非常に申し訳なさを覚える。
「潔さん、一旦落ち着いて息しよか。今のままじゃ気が逆立ってて冷静でいられへんでしょ?怖いのは紛れへんでも、少しはマシになると思うよ」
言う通りに潔は目を瞑り、ゆっくり深呼吸をする。氷織と手は繋いだままで、数分それを繰り返し、彼女は目を開いた。
「…ありがと。ちょっとマシになった」
「うん。手はどないしよ?そのまま繋いでて安心出来るんやったらそのままでいるけど」
「……繋いだままで、いい?」
「ええよ」
頷くと潔の握る力が強まった。落ち着いたとは言え、不安な事には変わらないらしい。彼女が繋ぎやすいように少し距離を縮めて座ってあげると、険しく皺の寄った潔の眉間が少し緩んだ気がした。
「…あのな」
「氷織?」
「僕、犯人の目星ついたわ」
「……………え?」
潔は驚愕の表情を浮かべる。それもそうだ。数時間前に会ったばかりの人間に何が分かるのか。元気付けるためにそんな冗談でも言っているのだろうか。でも今それで笑える様な精神状態ではなくて、やめてほしいと伝えようかと氷織の表情を見るが。茶化しているとは思えない程、彼は真剣な顔をしていた。
「君さえ良ければ今すぐにでも解決出来るで」
「…え」
「何とかしたい?」
氷織は大きな目で潔を真っ直ぐと見ている。彼女の答えをじっと待った。潔は困惑した様に目を泳がせ、でもその耳触りのいい甘い言葉に惹かれた。氷織の事をまだ信用しきれてはいないのに、そんな薄い希望に縋りたくなるほどに潔の精神は弱っていて。大きな瞳から自然に涙が溢れて、空いている手で乱雑に拭いた。
「出来るのであれば、お願いします…!」
「…出来るよ。僕なら出来る。嘘やない」
「お願い…!私もう怖くて、出歩くのも躊躇うの…!」
氷織の手を強く握って縋った。氷織はその手を握り返し、立ち上がる。
「手ぇ離して。ちょっと鞄取ってくるわ」
「わ、私も一緒に行く…!」
「…うん、今一人になるのは怖いなぁ」
氷織はへらりと優しく笑い、洗面所に向かう。そこからぐちょぐちょに濡れた自分のチェストバッグを掴んだ。
「…僕が今からやる事も見てる?」
「……ひ、氷織さえよければ。見ちゃダメだったら目瞑ってイヤホンしてるから」
「ええよ別に。隠してる事やないし。…仕事、やからね」
「?しごと?」
水を吸って重たい鞄を手にぶら下げ、潔を連れて店に出る。それから床に鞄を置いた氷織はその中に手を突っ込み、ゴソゴソと何かを確認した。そして急に声を上げる。
「ほんま、ごめんな。少し場所貸してくれるか?」
カタン。どこかで物音がした。それからすぐ、ガタガタと棚の中に並ぶグラスが一人でに揺れている。
「…へ…ひおり」
怯える潔は氷織が纏う毛布を掴んだ。それでもグラスはガタガタと揺れて、どんどん激しくなっていく。空気が冷たい。一瞬で店の中の雰囲気が変わり、酷く寒気のする不気味さを感じた。まるで心霊スポットの様な、ここにいたくない空気が渦巻いている。
「それが危ないのも、君が彼女を心配しているのも、僕が信用出来ないのも全部分かる。でも、君なら分かるやろ。僕なら解決出来るって。一瞬だけでええ。信じてくれへんかな。君と同じく、僕もこの子の事守りたいんよ。ほんまや」
「ひおり、誰と、話してるの?」
するとグラスの揺れはピタリと止まる。それから店の空気が元に戻った。実家の様な、居心地の良さが戻って来る。いつもの場所が急速に別の場所に変化した様な、不思議な感覚に潔は首を傾げた。
「…ありがとう、お嬢さん。少し借りるわ。大丈夫。誓って荒らしはせぇへん。綺麗に片付けたるわ。プロに任せとき」
そう氷織が言った瞬間、再び店の雰囲気が変わる。今までの暖かさはなく、かと言って先ほどの冷たさもない。ごく普通の空間と言った感じがした。だがしかし、店の扉が勢い良く開き、吊り下げられたモビールが激しくカラカラとなった時、感じた事もないような冷たさが潔を襲った。そして開いた扉の先にいたのは、気味の悪い男だった。
見た目を気にしていない様な男性がしがちな前髪の重たい無造作な髪と、ヨレヨレのパーカーを身に付けた眼鏡の男だ。傘もささずにずぶ濡れの男は異常なほどの猫背で店の中に足を踏み入れる。その瞬間、身の毛もよだつ様な感覚が全身を襲い、氷織に抱き着いた。
「や、やだぁっ…!氷織っ!」
「…うん、怖いなぁ。君にとって悪意のある存在は初めてやろうし。怖さが紛れるんやったら幾らでも僕に抱き着いとき」
毛布に顔を埋め、毛布越しに氷織の腰に手を回す。足がすくんで、全身が震えている彼女に優しい言葉を掛けつつ、氷織は鞄の中に手を入れた。
「……うーん、予想通りやね。…お前、言葉は通じるもんか?」
声をかけてみて、耳をすませてみると。男は何かをぶつぶつと呟いている。懸命に聞き取ろうと更に集中すると耳に入ってきたのは『ぼくのもの』と言う言葉だった。それを息継ぎもなく、ひっきりなしに小さな声で呟き続けている。会話は到底、出来そうにない。
「ぼくのものぼくのものぼくのものぼくのものぼくのものぼくのものぼくのものぼくのものぼくのもの」
「ま、想定内やね」
「や、やだ!やだやだ、来ないでっ…!近付かないで…!」
「潔さん、大丈夫。安心して」
氷織のやけに落ち着いた声に潔は顔を上げる。優しい耳触りのいい声に『氷織…?』と名前を呼んで返すと、氷織は少し口角を上げた。それから真っ直ぐとソレを見て、腕を肩の位置まで上げる。その手元に握られているのは銃だった。
「…へ、それ」
「僕がいる限り、君が危害を加えられる事はないよ。だから平気」
「氷織…?」
「人を怖がらせる悪い子はおねんねしよか」
氷織は何の躊躇もなく引き金を引いた。大きな発砲音と共に放たれた弾丸は真っ直ぐと軌道を描き、男の額ど真ん中に命中する。そして男は悍ましい声を上げた。人とは思えない様な獣の様な声を上げ、パタリと倒れる。
「〜っ!ひ、ひと、人がっ」
「死んでへんよ。大丈夫。これ、ゴム弾やで。触ってみ?」
氷織が弾丸を一つ、潔に手渡す。それを受け取って触れてみるとかなり柔らかな素材でできており、命を奪うものには思えなかった。
「うぅん」
そのうち倒れていた男が起き上がる。先程の様な君の悪い気配はなく、どこにでもいる普通の冴えない雰囲気で、彼は周りを見渡した。
「…え、あれ」
「うん、退治成功やね」
「…な、何をしたの?氷織」
「僕、祓屋やねん。化け物を祓う、それが僕のお仕事」
銃をすぐさま鞄にしまい、床に置く。氷織は潔の頭を一度撫でて、安心するように示した。
「もう終わったから安心してええよ」
「あれは化け物?お化けって事?幽霊?」
「うーん…まあ、どっちも?人以外のものなら何でも?今のは狐…なんやけど幽霊というよりかは神様って感じやねぇ。それが人に取り憑いて、人の心の弱い部分や汚い部分に漬け込み、増幅させる事で人がおかしくなったって仕組みやね。所謂狐憑きという言葉の語源であって、本来の意味」
「氷織はお化け退治屋さんって事…?」
「僕は人に害をなしているもんだけ相手にする。話の通じないタイプな。でも言うほど凶悪なものはおらんの。だから半分以上はぼんさんのとこ行くんよ」
「…?ぼん?」
「お坊さんやね。幽霊の悩みを解決して話し合いで成仏させるのがぼんさん、問答無用で叩き切って消すのが僕。生かしたまま良い方向へ導くか、魂を殺すかって話。ま、祓屋なんてほぼ裏社会の仕事やから、知名度的にもまずぼんさんに話がいって、そこでは対処出来ない案件が回ってくるっちゅー事やね。逆に僕らが出るまでもないものはぼんさんに回したりもしてるし」
「幽霊って事はもう死んでる人のはずなのに、また殺すってどう言う事?」
「死んだら僕らは輪廻道を巡ってまた何かに生まれ変わる。その輪廻道に魂を送るのが成仏。生まれ変わりの軌道に乗る事やね。でも僕らはその輪廻道に乗る前に悪さをする魂を消してしまう。要するに僕らに切られたらもう生まれ変わる事は出来ずに存在が消滅する。後にも先にも、存在が綺麗さっぱり無くなって、世界から生き物が一人、跡形も無く消えてしまうんよ。平たく言えば死刑。…ま、例えとしてはあんまりようないけどね。やから死んでも悪い事したらあかんよって話やね」
話が複雑だった様で微妙な顔で氷織を見ていた。おそらく大抵の人が全く触れた事ないし、知らない世界の事を一瞬で理解しろだなんて無理な話なのだ。『君さえ良ければ後でゆっくり説明したるからね』と優しく声を掛け、氷織はその場に座り込む男と対峙した。
「狐憑きは心が弱いか、業の深く、欲深い人間がよくなる。そして一度取り憑かれたら大抵はまたなる」
「……また、この人が取り憑かれて私のストーカーをするかもって事?」
「せやね。そもそも、君は人でも化け物でも色んなものに好かれるタチやし。ヤバいやつ寄って来やすいんよ」
ずり落ちかけた毛布を直し、氷織は男の顔を見つめる。ぼんやりと、痩せこけた不健康な顔色に、気弱そうに下がった眉。いかにも心の弱そうな男は、おそらく再発するだろうと確信する。床に落ちたゴム弾を拾いながら、氷織は男に問い掛ける。
「君、今まで何してたか記憶は?」
「……?え、あれ、何して…」
「今日の日付は分かる?」
男が口にしたのは大体一年前の日付で。潔に確認するとそれは所謂ストーカー被害が始まった日と全く同じだった。この男はその日に狐に憑かれ、一年もの記憶を飛ばしている。一年ずっと半ば眠った状態で彷徨い続けていたのだ。夢遊病の様なものである。正確な日付を伝えると男は絶句した。
「こうなる直前は何してたん?」
「…えっと、神社で、お参りを」
「どこの?何の神社?」
「家の近所の、稲荷神社」
「あー、稲荷神社はあかん。その神社、ちゃんと管理されてるもの?」
「…いえ、えっと、結構ボロくて、境内に雑草が生えてたりも」
「管理されてないと…じゃああかんわ。そのもう行かん方がええ。近付く事もダメ。ほぼ廃神社やで。祀られてる狐はもう半ば祟り神や、危険にも程がある。アンタの顔、もう多分彼らに覚えられとるよ。本格的に命が危ないからやめといた方がええ」
男は氷織の忠告に素直に頷く。男にもその神社がヤバそうと言う雰囲気は薄々感じ取っていたのだろう。これだけ話を聞けばおそらくもう立ち寄らないとは思うが、その神社から離れたところでいつかまた狐に憑かれる可能性は否定が出来ないので。
彼にそこで何を祈ったのか聞いてみると、男は潔を一瞬見て、何も言わなかった。だが氷織は願いの理由を薄々察して溜息を吐く。
「…はあ、人間ってほんまに面倒な生き物やね。欲深くて、下劣で、心の隙ばかり」
それを言ったら自分だって同じだし、潔の事が好きと言う部分ではこの男と何ら変わらないのだが。氷織は何度目かの溜息を吐き、口を開く。
「申し訳ないけど、その子を好きな気持ち、諦めてくれるか?」
「…………え?」
「婚約者が別の男に好かれてええ気になる男はおらんでしょ」
その言葉に目を丸くしたのは男と、それから後ろに立つ潔だ。氷織は這いつくばる男を見下し、見つめ続けていると。氷織の圧に押された男がヨロヨロと立ち上がる。
「……そうです!この人、私の婚約者なので、貴方とはお付き合い出来ません!ごめんなさい!」
潔はそう叫んで氷織の腕をギュッと掴む。身体を寄せる彼女に男もガッカリとした表情で、何も言わずに帰って行った。
「…ナイスアドリブやね」
「も、もう行った?来ない?」
「今後は分からへんけどとりあえず来ないとは思うよ」
すると潔は深い溜息を吐いて、全身の力を抜いた。氷織から手を離し、近くにあった椅子に倒れ込む様に座るとぐったりと目を瞑った。
「……はぁ」
「大丈夫?」
「ちょっと、理解の範疇を越えたと言うか」
「まあ、せやろね」
眉間を押さえて悩まし気な彼女を静かに見つめる。氷織からは何も言わず、潔の言葉を待った。こんな混乱している状況で、矢継ぎ早に何かを言ってもきっと彼女はキャパオーバーしてしまう。
「…私は、さっきみたいなヤバいやつに好かれやすい…?」
「うん。そうやね」
「…さっきみたいな事が頻繁に起こるって事?」
「今回のは僕がいる事によって誘き寄せて直接対決が出来ただけやけどね、今までも似た様な事あったんとちゃうかな」
潔にそう聞いてみると彼女は唸る。その微妙な反応はおそらく心当たりがあるのだろう。顔の血の気が引いて、不安で泣き出しそうな表情をする。
「あの人も、来るかもしれない?」
「せやね。もう来ないとは言い切れへんわ、正直」
「…氷織は、家ないんだよね」
「ない」
行くところなどどこにもない、無計画弾丸上京初日の氷織は家がないにしてはやたら元気良く返事をする。潔は氷織の手を両手で取り、包む。
「…氷織、お願いがあるの」
「うん」
「落ち着くまでここに住んで」
「えっ?」
氷織は言われた言葉が信じられず、潔を見るけれど。彼女は至って真剣な顔をしていて、本気の打診だと分かる。いや、潔さんの事は可愛いって思うし、正直めちゃくちゃ好きだけど、流石にこれは危険ではないかと何故か氷織が危機感を覚え、懸念した。
「…潔さん、僕、今日会ったばかりの男やで?」
「……で、でも、私の事、ああ言うのがいっぱい狙ってるって思ったら怖くて、一人でいるのちょっと嫌で…」
「お友達とかに一緒におってよって頼めばええんやないの?」
「で、でも、対抗手段持ってるのは今のところ氷織しか知らないんだって…それに、氷織の個人情報は握ってるから、何かあったら通報とか、すればいいかなって」
「……レイプの現行犯で通報したところで、あんま取り合ってくれへんと思うけどねぇ。強姦は映像とか、診断書とかそう言う確固たる証拠がないと相手にしてくれへんの、潔さんも分かるやろ」
「…わ、わかるけど…!でも、そう言う事危惧してくれてるって事はやらないでしょ…?」
「………やらへんけどね、いや、そうやなくてね」
彼女に完全に惚れている氷織からすれば、役得とも言えるが。それを喜ぶよりも見ず知らずの男性を自宅に居候させようとする無防備さがあまりにも心配だ。僕が何もしない保証なんて無いのにと氷織は思う。その懸念を氷織自身がしている時点で何だか何も起こらなさそうではあるが、実際そうかはまだ分からない。
「だ、だって家無いんでしょ?」
「ないけど」
「婚約者って名乗ってもらったら一緒に住んでても世間体はおかしくないし、危ない人も減ってくれると思うし…!」
「婚約者って名乗るん!?会って数時間の男と恋人って思われてええの!?潔さんは!?」
「で、でも、一人は怖い…ホラーとか苦手で…」
「ちょっと、もう、良い歳なんやからもっと冷静に考えて」
自分が得をするだけの状況で、潔を諭そうとする氷織は良い人である。そう思っている潔は、やっぱり安心するまで一緒にいてもらうのは氷織が良いなと更に感じた。氷織は依然として変わらず優しく潔の危機管理力と警戒心が全くないことへの危惧を説き伏せようとするけれど。潔が氷織の右手をしっかりと握り、困った様な顔で彼を見つめた。
「お願い氷織…!助けてほしいの。氷織しか頼れなくて…!」
「………っもー!しゃあないなぁ!」
きゅるんと可愛らしい顔をして、氷織を見つめる。貴方しかいないと手を伸ばし、縋る女の子を無碍にする事は出来なくて。それが気になっている女の子なら尚更振り解く事は不可能だ。いけないと分かっていても彼女に頼られてしまえば、氷織は断れなかった。
「ほんまに君って子は危なっかしくて見てられへんわ。ちょっとは警戒せんとあかんよ?僕やからええけどねぇ、世の中そんなに上手く行くもんやないんよ」
「やっぱやめる?」
「やめへんけど」
こうなれば欲に忠実なまま、もうごねる事もせず。心配の意を込めて説教をつらつらと垂れ流すのみ。
安堵の息を吐き、顔を綻ばせる潔に氷織は考える事も懸念も心配もやめた。自分にとって都合の良すぎる展開に、後々何か大きなトラブルや天罰が降りそうな気がしてならなかった。だがそれで日和る氷織でもないため、居候を断る事などなく。上京0日目にして初対面異性との二人暮らしが始まってしまったのだった。