庭に座り込んだ小さな少年は赤くなった膝を見つめて、傷口を指で突いてみる。ピリリと痛みが走り、首を窄めた。
「いてぇ〜…コケた…」
ふわふわの芝生で、何もないところで躓いて転んでしまった。そのはずみで地面に膝を打ち付け、擦りむいた。膝から血が流れて、足を伝う。白い靴下に血が滲みないよう、掌で拭いた。
「れお?」
「ん?よいち」
「けがしてる?」
メイド服に見立てた黒いワンピースと白いエプロンをつけた小さな少女が声を掛けた。擦り切れた膝を見た彼女は玲王の傍らにしゃがみ込む。
「大丈夫?痛くない?」
「…いたい」
「わ、わ!まってね!」
肩からかけた小さなポーチの口に手を突っ込み、ゴソゴソと中を探る。それからハンカチを手に取った。
「傷口拭いていい?」
「ハンカチ汚れちゃうよ」
「いいの!大丈夫!」
ハンカチを玲王の膝に押し当て、優しく傷口を拭く。擦りむけた傷にハンカチの布が擦れて、ピリピリと痛んだ。
ある程度拭き取った後、血で汚れてしまったハンカチをポーチに仕舞い込み、絆創膏を手にする。少し大きめの絆創膏の裏を剥がし、傷の上に貼る。
「よし!これで大丈夫!どうしたの?転んだ?」
転んだというのが恥ずかしくて。『別に…』と言葉を濁す玲王に潔は笑う。
「れお、立てる?」
「うん」
立ち上がった潔は玲王に手を差し伸べる。その手を照れ臭そうに取り、彼はゆっくりと立ち上がった。怪我が恥ずかしくて口数の少なくなっている玲王を潔は優しく微笑み、その様子に気付かないフリをして彼の手を握る。
「れおが怪我しても私が絆創膏貼ってあげるから」
だから大丈夫だよと言葉を続けて。恥ずかしいけれど彼女の優しさがとても嬉しかったから。玲王は黙って潔に手を引かれ続けた。
幼い頃は簡単に手に触れられる様な、近しい距離にいたのに。あの頃の親密さは、今の潔と玲王にはない。
男達の間をパタパタと走り回りながら、必要以上に呼び止める声にくすぐったそうに笑って。すっかり特別扱いで可愛がられてしまっている幼馴染みの背中を一人眺め、玲王は大変長い溜息を吐いた。
「潔かわい〜よね」
「男ばっかの空間に女一人だからそう見えるだけだろ」
「唯一潔に構ってもらえない男の負け惜しみ?」
「見苦しいぞ玲王〜」
凪からのストレートな物言いと、一般通過千切の余計な野次が飛んで来て玲王はダメージを負う。
「話し掛けても一言で返されて会話終了だもんね」
「続けようとしても愛想笑いでどっか行かれちゃうもんな」
「俺らとはめちゃくちゃ会話してくれるのにね」
「俺達はタメで話してるけどお前は敬語だもんな。でも良いんだろ?お前にとってはメイドだし」
「お前ら何がしてぇんだよ!?俺の事嫌いか!?」
耐え切れず叫ぶ玲王に二人はケラケラと笑う。それから『ごめんごめん』と謝る気のない謝罪をした。
「ここまで徹底的に避けられてるってなるとやっぱ玲王の事が根本的に嫌なんでしょ」
「いや、俺はなにも」
「って玲王は思ってても潔からしたら本当に嫌だったかも」
「お前が良くても潔がダメだったらそれはダメだな」
「約三年間、連絡途絶えたのは今までずっと離れたくて、満を持して離れたんじゃなくて?嫌になったんだよ多分」
「好きな子いじめる小学生かよ玲王、ガキくせぇ〜。そんなんやったら十中八九嫌われんのにさ」
「いじめてない!何もしてない!別に好きじゃない!」
そう叫び、玲王はまた長く息を吐いて。死んだ様な目をして彼方遠くを見つめた。焦点があっていそうであっていない、不安定な目だった。
「………謝ろうにも、逃げられるから二人で話せねぇんだよ」
「じゃ、修復不可能だ」
「もう諦めな?別に好きじゃないんだろ」
「…っ別に好きじゃねぇけど、このままだと後味悪ぃし、別に、好きじゃねぇけど!久しぶりに会ったんだったら話したいし、…いや、そりゃアイツのお婆さんとか叔母さんには世話になってるし、無碍にしたら御影のメンツが潰れるから」
などとつらつら言い訳を並べているけれど。本当はめちゃくちゃ好きだし、構ってほしいんだろうなぁと二人は思うし、皆も思っている。わざわざ口には出さない。
メソメソしたりイライラしたり、感情が忙しい玲王を眺めて面白がりつつ。練習を再開するかと立ち上がった彼らだったが。入口の方をふと見た凪が片手を上げた。
「おーい潔〜」
「ん?どうしたの凪、入り用?」
「いや、見かけたから声掛けた〜」
「もー、はいはい」
仕方なさそうに笑った彼女は、にこやかに凪に手を振り返す。千切にも練習頑張ってねと目ざとく声をかけるが、玲王に対しては一瞥して気まずそうに目を逸らすのみ。その対応の差で普通に傷付き、玲王はその場に倒れそうになる。
「なあ潔、玲王って最近オーバーワーク気味じゃないか?」
千切の急な振りに玲王も潔も驚いて小さく声を上げる。凪だけは飄々とした態度で援護射撃の言葉を続けた。
「心配だからなんか言ってあげてよ」
「…え」
「俺らが言っても聞かないし」
『言った事ないだろそんな事』とは横槍を入れず。この申し出は玲王が得をするものだったため、しっかりと黙って事の顛末を見守った。
そう言われた潔は気まずそうに視線を泳がせ、それからキュッと口を閉じる。小さく深呼吸をしてから肩からかけたタブレットを手に取り、慣れた手つきで操作した。
「…確かに最近は練習時間が以前の記録と比べて格段に増えていますね。全身の疲労が数値にも出ていて、寝ただけでは疲れが取り切れていないみたいです。練習したいお気持ちは理解出来ますが、それが重なれば大怪我につながる恐れもありますので、少しお控えになられた方がよろしいかと思われます」
「………ウン、アリガト…」
確かに何か言ってあげてとは言ったし、実際に何か言ってはくれたけれど。そうじゃないんだよなぁと二人。それでも忠告してくれた事には変わりなくて、趣旨とは違うとは言えずにカタコトで礼を述べた。無論、それに玲王が黙っているはずもなく。
「…あくまでもデータに基づいてなんだな」
「…………なにか、問題がございますか?」
「お前は心配じゃねぇの?俺の事」
「…進言はさせていただきました」
「………もう良いわ。そういう態度なんだな、お前」
それ以上言葉を続けたそうだったが黙った。彼女に背中を向け、玲王はゴール前へと歩いて行ってしまう。潔はその様子を悲しそうに見つめた後、無言でその場を去った。二人の間に挟まれた凪と千切は気まずさに目を合わせて、ため息を吐く。
「どっちも悪いかもな」
「こりゃ修復不可能だね」
つっけんどんな態度で機嫌悪そうに彼女に接してしまう玲王だが、その後すぐ落ち込む。練習はサッカーにだけ集中出来るものの、練習が終わって夕食となったタイミングで、彼女に対する自分の態度を強く後悔するのだ。箸で料理を摘みながら、どこか泣きそうな顔でいる玲王に一同ほんの少しだけ気を遣っているのは本人には秘密である。
「………感情的になりすぎた…」
「もう良いわだもんな」
「潔って玲王っちにずっと冷たいよね〜、なんかしたの?」
「蜂楽、その話何度もしてるからもうやめてあげて」
「そう言うところが理由なのだとしたら会話するたびに嫌われてる可能性あるだろ…」
「でも別に好きじゃないんやろ?じゃあええやん」
「……本人ちゃんと凹んでるんやから、あんまそういう事言わんといてあげてよ。ほんま烏は面白い事言わはるね、カラスに人の心の理解はまだ難しいんやろか」
「京都人から言われてるぜ」
「でも玲王くんもあんま女の子にいけずな事言うのやめた方がええよ、僕には出来へんね。よういわんわぁ」
京都節全開で玲王に追い打ちが掛かる。何とも言えない表情で、彼はテーブルにおでこを擦り付けて黙り込んでしまった。
「……あー…なんか、ほら、楽しい事でも考えたら?」
雪宮の雑なフォローに周囲の何名かが思わず吹き出す。顔を上げた玲王はコイツ適当すぎるだろと思いつつ、素直に回想する。
「…世一、よくお菓子作ってくれてたんだよ。父さんと母さんには内緒ねって人差し指立てて笑いながら、秘密基地で食ってた」
「秘密基地?」
「秘密基地つっても、俺ん家の庭の隅にある小さな用具倉庫に勝手に入り込んでただけ。多分そこにいる事、大人にはバレてたけどばあや達が結構気を遣って俺の親近付けないようにしてたみたい」
「秘密基地ってなんかかわいいな」
「玲王も子供時代はちゃんと子供だったんだね〜」
「…誕生日の時、世一がちっさいケーキ作って来てくれて、二人で食ったんだよ。それが一番嬉しかったかも。その後両親と食事してケーキ食ったけど、食事もケーキも全然入んなかったな。普通にお腹いっぱいで、世一のケーキの方が美味しく感じた」
柔らかな雰囲気でその話をしている玲王を見ていると。今ではあんな感じの二人でも、本当に仲が良かったのだろうと思った。きっと連絡が途絶える前まではそんな感じだったのだろう。だが久々の再会で態度が変化して、玲王も現実を受け入れ切れていないのかもしれない。
「………お前らは良いよな、世一といい感じに会話できて」
「俺達にそれ言われても」
「潔次第だしね〜」
そうとしか言えず、素直に言葉を返す。それを受けて玲王は更に深く深く溜息を吐き、頭を抱えてしまった。思い出す楽しい思い出も彼女との事で、態度に後悔したり、悩んだり、潔の事で感情を上下させて。あの子の事が本当に好きなんだろうなぁと誰もが思っていた。勿論誰も言葉にしようとはしない。
公式のフィールドよりも幾分が狭いフィールドで。玲王は一人、練習していた。夜も更け、風呂に入ったり部屋でゆったりしている者も多い中、玲王は顎に伝う汗を拭った。
彼がこうして身体に負荷を掛け続けるのは焦燥感ただ一つである。凪に置いていかれ、自分以上の実力者達が台頭する中で、自分が埋もれていくのを感じたからだ。風呂に入って眠ったところで翌朝大して疲れが取れていないのは指摘されるまでもなく、自分でも分かっていた。それでも玲王はやらなければならなかった。無理をする事で自分を落ち着けていたのだ。
蹴ったボールがゴールポストに当たり、跳ね返る。足元へ転がっては爪先に当たって回転が止まった。玲王は長く息を吐いてしゃがみ込む。もう身体も足も重たくて、それでも動かなければいけないと言うある種の強迫観念の様なものを感じて。震える膝を叩いて立ち上がった。
「………れお」
柔らかな、落ち着いた声音が聞こえて振り返る。いつものメイド服を脱いで部屋着の様なラフな服を着た彼女が立っていた。
「…世一」
「身体、重いでしょ、もうやめなよ」
「………お前なんでここにいるの?夜は併設してる職員用の寮にいるんじゃねぇのか」
「あ、…ハンカチ、置き忘れちゃって、アンリさん達に黙って来ちゃった。すぐ戻る予定で」
「…………不用心だなお前…」
こんな男しかいない空間で、誰の監視もそぞろな真夜中に何をされるかなんて分かったものじゃないのに。その自覚があるのかないのか、キョトンとした顔の彼女は玲王の側に駆け寄った。
「膝笑ってんじゃん。…こんな環境で、あんな人達がいるんじゃ無理するのもしょうがないけど、身体が悲鳴を上げてるなら休んだ方がいいよ」
「…どうでもいいんじゃねぇのかよ、俺の事なんか」
「どうでもよくないよ」
心底心配している様な顔で、玲王をじっと見つめる。昔みたいな潔の優しさに玲王は思わず手を伸ばし、彼女の手を取った。
「玲王が怪我するのも無理するのも、私はずっと心配だよ」
玲王に掴まれた手を解いて、今度は潔が手を取り返す。握った玲王の掌は薄い擦り傷があり、潔はその傷の上に丁寧に手を重ねた。
「だから今日はもうやめよう。身体壊れちゃうよ。そしたら試合だって出れない。凪に近付く事も出来ないでしょ」
玲王は長く溜息を吐いて。不貞腐れた子供の様に唇を尖らせ、渋々と言った様子で分かったと従えば。顔を上げた潔は目尻を緩ませた。
「………心配だったか?」
「うん。私には怪我を治療する事と、無茶を止める事しか出来ないから、どうしても玲王の悩みを根本的解決出来るわけじゃないし」
広がった傷口に絆創膏を貼ってもらう事がどれほど嬉しかったのか、彼女は知らない。それしか出来ないのではなく、彼女だからこそ嬉しい事だと玲王は思っている。
「…はー、じゃあもうシャワー浴びて寝るわ」
「湯船浸かれるなら使った方がいいよ!疲労の回復度合いがシャワーとはまた違うみたい!」
「はいはい。お前も早く戻れよ。夜中にブルーロックに侵入なんてバレたら絵心に何言われるか分かったもんじゃねぇだろ」
「あ、う、うん」
潔は玲王から手を離す。離れていく彼女の温度が惜しくて追い駆けそうになるけれど。その気持ちをグッと堪えて彼女を送り出す。
「玲王」
「ん?」
「大丈夫、玲王ならうまくいく。だってこんなに頑張ってるから。私は知ってる」
「…………おう」
「またあした」
そう言ってパタパタと駆けていく彼女。力強い大丈夫が心に響いて、全身の緊張を解していく。興奮気味の脳が冷めて、沢山あった話したい事を次々と思い出して。追い駆けようと踏み出してしまった一歩に気付いて立ち止まった。
「…そういえば、敬語」
本当に彼女は連絡が途絶える前の様な優しい話し方をしていて。今までの頑なな態度が何だったんだと言うくらい砕けていた。
彼女のその変容に玲王は違和感を覚える。そんな短期間で頻繁にコロコロと態度を変えるのは不自然だと思った。潔は何かを企んでいるのか、それとも何かに加担させられているのか。何とも言えない不安感に潔が出ていったドアを心配そうに見つめた。