「潔さん」
柔らかな声に振り向く。声の主である氷織は穏やかな様子で微笑んでいた。笑ってるとより一層美人というか、可愛いよなぁ。氷織の顔を凝視しながらそんな事を呑気に思っていると彼は何言ったりと近付いてきた。
「どうしたの氷織、何かあった?」
「それは問題ないんやけど。重そうやね、それ」
「ん?あー、これ?」
潔が両手で抱えるものはブルーロック内で利用されているウォーターサーバーの替えのタンクである。元々ここの支配人の様な役回りである絵心の知り合いであった潔は、彼の推薦でブルーロックプロジェクトの手伝いに来た。片やかつて自分が女子サッカー選手として国内外で経験した事を伝達するリアリティーのあるトレーナーとして、片や自身の怪我の経験から得た知識で選手が施設内で怪我をしてしまった際に簡易的な治療を施す者として。学生という立場上、形式的にはインターン生という事ではあるが、内部での役割はマネージャー兼トレーナー兼絵心の補佐という何足もの草鞋を履いていた。
実際その選手としての経験や彼女のギラついたサッカー欲が何人もの選抜学生達の心を動かし、良い方向へと導いたのだからある意味ではブルーロックの影の立役者である潔だが勿論、マネージャーとしての業務は容赦なく課せられる。やれ物資の補填に行けだの、計測したデータに矛盾があるからこの目で確かめてこいだのとやはり相手は絵心、中々の酷使っぷりであった。もう一人の絵心の補佐、連盟職員であるアンリよりサッカーに詳しく、上手く、そしてインターン生なのだから尚更。幼少からの知り合いなのに一切容赦のない扱いに潔も少しだけイラついていたのは秘密だ。
現在は絵心の指示で消耗品や日用品の補填であったり、こうしてウォーターサーバーの中身を変えたりしている。女子高生一人にこんなに大きく重量感のあるタンクを変えさせようとするなんてそこそこ鬼畜じゃないかと文句の一つでも言いたいところだが、口答えをすれば倍返しされるのでグッと堪えて黙って作業をしていた。
本当はすごく重くて、誰かに手伝ってもらえたら本当に助かるけれど、目の前にいるのはブルーロックに参加し、日々世界の強者達と戦い自分の価値を上げるために血反吐を吐く選手である。こんな無駄な事をやらせて怪我でもされたらたまったものではない。
そう思った潔は『重くないよ〜』と笑ってやり過ごそうと口角を上げた。しかしそう言葉を紡ぐより前に、氷織は潔の腕の中にある大きなタンクに手を掛けたのである。
「持つわ。貸して」
「え、いや、だいじょぶ」
「そんな重いモン持ってる女の子、普通やったら無視出来ひんやろ。何もせえへんのは流石にめっちゃ最低やん」
「そんな事ないと思うけど」
「ええねん。こう言う力仕事は男に任せとけばええわ。貸し、潔さん。持つでそれ。細っこい女の子の腕して、痛めてしまうわそんなん」
タンクの底を両手で抱えた氷織は半ば無理矢理潔の手元からそれを取っていく。重さのある荷物がなくなって腕の開放感は計り知れない。腕が無理やり引っ張りれている様な痛みが少し引いていく。腕のピンと張り詰めた感覚を解すために何度か関節を曲げれば、段々と元に戻って来た。
「めっちゃ重いやんか。絵心も無茶言わはるわ。女の子一人でこれはあかんやろ」
「大丈夫?」
「大丈夫やで。問題なしやわ」
「ごめんね…」
「こう言う時はありがとうの方がええと思うよ」
「氷織ありがとう」
「どういたしまして」
にこりと軽く微笑んだ氷織はタンクを持って食堂に向かう。潔はそんな男の後ろを申し訳なさそうな顔をして着いて行った。
「タンク持って往復するまでに誰もおらんかったの?」
「うん。会わなかった」
「何や。誰かしらと会うてたら、それってソイツは女の子が重い荷物持ってんのに無視したって事やから僕がしばいたろかなと思ったんやけど」
「会ってないからだいじょぶ〜。ありがとう氷織」
「それならええわ、別に」
タンクの中からタプタプと重たい水音がする。腕全体に掛かるズンと非常に重量感のある感覚は女の子にはあまりにも酷だなと氷織は改めて思う。幾らマネージャー業も頼んでいるとはいえ、そこら辺は上手いこと配慮してやれよと感じるけれど、その訴えはきっと選手側からは出来ないものだと思うので何も言えずにいた。
「…なんかさぁ、氷織って」
「んー?」
「可愛い顔してんのに結構男子だよね」
「よう聞くわその言葉。それめっちゃ言われんねん」
「やっぱそう?あ…、嫌だった…?」
「たかが雑談やし、別に嫌やないよ」
「良かった。意外と背高いとことか、喉仏とか、こう言う重いものひょいって持っちゃうとことか、すげー男子って感じがする」
「男子やからなぁ」
「なんかドキドキしちゃうなぁ」
ピクと身体が僅かに跳ねる。くすりとはにかむ彼女を一瞬見て、そっと目を泳がせてから口を開いた。
「…そうなん?」
「うん。國神とかがそれやってもめっちゃ有難いなってなるだけでドキッとはしないけど、氷織がやるとなんかね〜。顔可愛いのになぁ、超男子じゃん!みたいな。ギャップ萌えってやつ?」
「ギャップ萌え」
「多分ギャップ萌えだよね、これって。だからちょっと見直しちゃったりするんだ、意外とカッコいいじゃんって」
「………かっ、こいい…」
氷織は小さく彼女の言葉を繰り返した。髪に隠れた彼の耳はポッと赤く染まっており、潔の言葉で照れている事が分かる。そんな事などつゆ知らず、彼女は氷織の横で軽快に笑った。
「頼もしいし優しくて、すごいね、氷織。サッカーも上手いし!」
純粋な気持ちで褒められる事に全く慣れていなくてとてもこそばゆいけれど、満更ではなくて。氷織は耳をポッと赤らめて目を逸らした。
「…せやろか」
「ふふ、うん!てか氷織も部屋で休みたいでしょ?早く行って交換しよ!」
「……いや、僕は別にゆっくりでええよ。……えっと、重いし、これ」
「あっ、そっか!ごめんっ!なんか急かしたみたいで…」
「気にせんといて」
ゆっくり行きたい理由も、なんなら彼女に話し掛けた理由だって折角二人きりで話せるからなんて下心だ。純粋な好意や善意では全くない事にほんの少しの心苦しさを覚えるが、彼女には何も伝わっていない。
気になる女の子から褒められて浮き足立たないはずもなく。浮ついて上がりそうになる口角をギュッと引き締め、氷織は潔の横に並んで歩くのだった。