高い煙突から煙がもくもくと上がって、黒い煤が屋根に降る。肌に感じる熱と鼻腔を掠める臭いが私を蝕んでいった。慣れているのに、慣れない。私にとっては日常に過ぎないのに。
コツンコツンと足音がして立ち上がる。客人かと外に出る重たい扉を開けると、そこにいたのは青年だった。
黒い髪の、おそらくアジア系であろう青年。日本人だろうか、中国人だろうか、私には違いが分からない。私は彼の後ろに目をやる。金属が錆びた古い台車の上には一人の若い男が乗せられていた。固く閉じた目と、乾き切って色の無い唇はもう心がこの世に無い事を指し示している。
私は青年の言葉を待った。ジッと彼の目を見つめていると、青年はズボンのポケットから封筒を出す。やたらと分厚いそれを差し出して、口を開く。
「燃やしてください」
「…彼をか」
「そうです」
「この国の人間ではないな?」
「日本から来ました」
日本人の青年は目を伏せたまま応える。封筒を握る指が僅かに震えている事に気付き、私はそれを見ないふりでやり過ごした。
私は彼の手にある封筒を受け取り、中を見る。分厚いそれには案の定、紙幣がたんまりと詰め込まれていた。
「明日焼こう」
「断らないんですね」
「だから彼を連れて日本を出たんだろう」
彼は生きているうちに日本を出て、見知らぬ土地で死ぬ事を選んだのだろう。彼の決断を無碍にするなんて事は私には出来なかったし、青年は金を払っているのだから断る理由もない。
「こちらにおいで」
彼の遺体を布一枚敷いただけの床に寝かせる。そのすぐ横に青年は腰を下ろした。
「コイツが燃えるまでここにいて良いですか」
「構わない」
「ありがとうございます」
「一室空いている。君の部屋を用意しようか」
「いいです。ここで」
「夜は冷えるぞ」
「不要です」
だらんと力の無い彼の手に青年は触れる。指の間に指を入れ、キュッと掴んでみるが彼が握り返す事は当たり前にない。
私はただ『そうか』と答えた。それ以上の言及をせず黙る私を横目で見て、青年はまた彼に目を向けた。
冷たくて暖かい火葬場に、普段とは異なる何者かがいたとしても私は仕事をしなければならない。ボロボロの遺体と共に現れた女と子供に一礼をして、私はその遺体を火葬炉に入れた。
パチンとスイッチを入れると路の中はごうごうと燃え上がる。崩れ落ちる女と、その女を不思議そうに見つめる子供。二人の背に手を置き、立ち上がる様に促して待機室へ案内をした。
私が火葬場に戻ると、青年は橙に光る火葬炉の小窓をぼんやりと見つめていた。明るい日の光が青年の黄色の顔を照らしている。
「人が燃えるところは初めてか?」
「火葬は初めてかもしれない」
「どうだ」
「彼が見ている」
中で燃えて黒くチリヂリになっている遺体の目がギョロリとこちらを見ている。皮が燃えて肉が見える凄惨な様子を意にも介さず、静かに眺めていた。
「日本も火葬だろう。どうしてここへ?」
「日本ではダメです。俺は最期まで一緒にはいられないから」
「何故燃やす?埋葬なら土葬もある」
「土に埋めて肉が溶けて、地球を構成する栄養素の一部になって、コイツがまた誰かのための存在になる事が耐えられない」
彼はきっと徳の高い人生を送っていて、沢山の人から愛されていたのかもしれない。ただその反面、沢山の人から利用され、裏切られて、酷い思いをしてきたのかもしれない。私は彼の事を知らないから、全て憶測でしかないけれど。そんな彼が青年といる事を選んだというのなら、彼の最期も灰になるのを待つ今も、心は十分に満ち足りていると思うのだ。
青年は火葬炉の小窓から初めて目を逸らした。自分の爪先に視線を動かし、俯く。私はその様子を見て、静かに火葬場から離れた。彼は何も言わず、動く事もなく、立ち尽くしたままだった。
焦げ付いた臭いが風に攫われ、火葬場から無くなっていく夜。黒い空に星が輝いて、揺らぐ川に写っていた。月明かりだけが差し込む薄暗い火葬場で座り込む青年の隣に腰を下ろす。パンを一つ差し出すと青年は軽く礼を言ってそれを手に取った。
「君達に家族はいるのか?」
「いない。いたらこんなところにまで来ない」
「それもそうか」
青年はパンを一口齧る。ゆっくりと咀嚼してゴクンと飲み込んだ。
「彼も明日には黒焦げになって、灰になるんだ」
「……」
「今の姿をちゃんと見てやれよ」
彼の青白い肌を青白い光が照らして、最早作り物の様にも思える。開かない瞼の奥には美しいガラス玉でも嵌められている様な気がして、どこか神聖に思えた。
これ以上の声かけは不要だと思った。私は青年の肩に手をポンと置き、立ち上がる。火葬場の硬い床を一歩ずつ踏み締めて、風に誘われる様に外に出た。スゥと息を吸い込むと夜と水の穏やかな匂いがする。死の臭いもこれだけたわやかで、円かであれば良いのにといつも思う。
街に靄が掛かる朝方、彼を台に横たえる。人がまだ目覚めていない、世界が一番凪いでいる時間に彼を殺したいと青年が希望した。
台を火葬炉に押し込めて、分厚い扉を閉めた。彼の身体が狭い炉に入っていく最中、青年が僅かに手を伸ばし、ゆっくりとおろされたのを私は押し込める合間に見た。彼の少し開いた口から吐き出た真っ白な息は、朝の冷えた空気に消えていった。
「俺がスイッチを押しても良いですか」
「スイッチを?」
「日本では、そうなんです。親が死んだら子供が火葬場のボタンを押す」
「…君がしたいならすれば良いが」
青年が前に述べた言葉は何一つ間違っていなかった。本当に青年が彼を殺しているみたいだ。日本という国は遺族にとって随分と残酷な弔い方をする。
青年は一つ呼吸を置いて一歩前へ踏み出す。それから着火のボタンに手を置いた。流石に躊躇うかと後ろから様子を見ていたが、思っていたよりも随分とあっさりと青年はボタンを押した。掌で固いボタンを押し込むとボッと着火の音がした。それから少し待つと扉の内側がパッと明るくなって、小窓からはメラメラと燃え盛る火が見え始めた。
パチパチと火の粉が弾けている。彼は淡々と明るいが眩くない業火の海に飲まれ、溺れていた。可愛らしい色の短髪が炭になり、黄色い肌を蝕んでいく。皮がダラダラと溶け始め、中の赤い肉が見え始めても、青年は目を逸らさなかった。
「本当は、日本でも点火ボタンは押せません」
「そうかい」
「遺族が火葬場で押すボタンはダミーで、火葬前の準備が終わったので火葬して大丈夫だというただの合図だそうです」
それはそれで酷い話だと思う。準備が終わったから大切な人の身体を燃やしてくださいなんて馬鹿な願いを好き好んでする人間は稀有だろう。
青年は火葬炉の小窓から中を見ている。火にくべられ、まるで生きているかの様にピクリピクリと動く遺体。彼は黒く煤け始めた顔に残る真っ白く正気のない目で、青年をひたすらに見ていた。
「よかった、コイツの最期が俺で」
「…そうか」
青年はそれだけ言って黙って燃える炉を見ている。穏やかに細められた目からは涙がツゥと伝っていた。それでも、青年の表情を見ていると涙の理由は悲しさではない様に思えてしまうのだ。
骨は砕いて、灰はかき集めて瓶の中へ。かつて体格のいい男だった彼は、こじんまりと青年の両の腕に抱かれている。青年は私に向かって深く頭を下げて『ありがとうございました』と言った。
「金を貰ったからな」
「それじゃあ、俺はこれで。…お世話になりました」
出会って一日の青年との別れはあまりにもあっさりとしていた。頭を下げて立ち去る青年を私は止めないし、止める権利もないし。
私と青年の関係は、いつもと何ら変わらない。大切な人の最期を見届ける客と、淡々と火をくべるだけの送り人でしかないのだから。私はきっと、この青年の事も今までの依頼人と同じくして時間と共に記憶が薄れ、断片的に忘れていくのだろう。
高い煙突から焦げ付いた臭いと煙が上がる。彼の黒い煤がもくもくと吹き出ては、いつもの如く、しんしんと屋根に降り積もった。