春の気配がする

ぱちり。目を覚ました潔はぼんやりと滲む視界の中、ぼぅと正面を見る。じんわりと焦点の合い始め、世界がそれぞれの形を成した時、彼は自分の状況に気付いた。
「おはよ」
隣には蜂楽がいて。潔の隣を守る様にして座っている。もたげていた首は蜂楽の肩の上にあって、潔は寝起きにしては急いで首を起こした。
「ごめん…」
「いいよん、そんくらい」
蜂楽は何でもない様に笑って手を振る。折角座席の一番端に座らせてもらっているのに、右側にある仕切りではなく、わざわざ彼の肩を使うだなんて。何だか少し恥ずかしくて小さな声で再び謝罪をすれば。蜂楽は穏やかに笑った。
「潔なんか今日ずっと眠そう」
「あー…なんか身体重くてさ〜、頭がぽーっとすんの」
「具合悪い?言ってくれれば遊ぶのやめたのに」
「いや、そういうのじゃなくてな、うーん、季節的なもの?この時期はいつもそうなんだ。だからこの程度で休んでたら何も出来ないよ」
意識が戻ったとて頭は上手く動かなくて。ぼんやりと霞がかった様な感覚に長く息を吐いた。
電車の窓からは陽の光が差し込んでいる。温かな日が降り注いで、車内の空気を温めていく。それは形のない気体に温度と重さをもたらして、潔の頭にずっしりと降り積もっている。この過ごしやすい気候だって、彼にとってはそう感じる。寒いよりも暑いよりも暖かい方が好きなのは間違いないが、微細な不快感だけはどうしたって好きになれない。だがその重苦しさが潔にとっては変化の知らせであった。
「好きじゃないけど、春だなって思う」
「春?」
「春が近くなるといつもこうだから」
穏やかさの中にある身体への負荷は、風流とも言えるもので。五月病とも違うこの気怠さは、季語と言っても過言ではなかった。勿論、体調不良を受け入れて好んでいる訳ではない。何も無く、健康であるならそれに越した事はない。
「そうなんだ。大変だね」
「はは、蜂楽は元気そうでいいな」
「うん、俺は元気!」
ガッツポーズをして見せる蜂楽は体調不良とは対極にいそうで。羨ましいなと潔は思う。サッカーをする上でも完全な健康体は圧倒的なアドバンテージなので、自分の性質を呪う事もあるし、蜂楽や健康的な戦友達を羨む事だってあった。
「でもさ、なんか潔が弱ってるとこちょっと新鮮で面白いね」
「…人が体調悪くて苦しんでるところにお前…」
「別に悪く言ってるつもりはないよ〜。ただ可愛いと思って、弱々しくて」
「悪く言ってるように聞こえるよ、それ」
呆れた様に息を吐けば。蜂楽は『ふふふ』と楽しそうにはにかんで。潔の腕を優しく掴んだ。
「眠たかったら寝ていいよ。目的地までまだだし」
「今どこだ?」
確認しようと思えば表示を確認する事は出来たが。何となく蜂楽に甘えてみれば、彼は嫌な顔一つせず駅名を答えてくれた。ありがとうと礼を述べつつも堪らず小さく欠伸をすれば、蜂楽は優しげに潔を見つめて、落ち着いた声で言葉を続けた。
「俺の肩でも膝でも使って良いよ。その仕切りより俺の方が寝心地いいでしょ?」
「膝は使わないし、言うてお前も大分硬い」
蜂楽もスポーツ選手なのだから、身体はしっかりと鍛えているのだから。ギュッと引き締まった筋肉が詰まるその身体が柔らかいはずもない。
とは言え文句を言いつつも、仕切りよりは断然蜂楽の肩の方が安心する。呼吸のたびに僅かに上下するところだとか、布越しに感じるほんのりとした体温だとか。蜂楽の生に触れるたびに心が穏やかに凪いでいく様な心地がするのだった。
だからと言って公共機関で甘えるのは憚られるため。『いいよ』と言って断って、仕切りに頭を預けようとした。だがそんな言葉を無視して、蜂楽は顔に手を回し、自分の肩へ強引に引き寄せてきた。
「ちょっと」
「はい、おやすみ」
「蜂楽」
「潔っていつも強い!って感じだから、俺にこうやって弱いとこ見せて甘えてくれんの、結構嬉しい。いや、めっちゃ嬉しい」
確かに蜂楽には特別甘えている自覚は潔にもあった。一番信頼出来るからこそ、彼の優しさに真っ先に頼ってしまうのだ。図星の指摘をされ、蜂楽の肩に頭を乗せながら恥ずかしそうに下唇を少し食む。
「俺もそう言うので優越感感じて満足してる訳だからさ、遠慮なく寝てもらって」
「何だよそれ、お前がめちゃくちゃ自分勝手なだけじゃねぇか。強欲。エゴイスト」
「はいはい、良い子はねんねしな〜」
それは日本昔話じゃないかと突っ込みたかったけれど。蜂楽の肩の安心感に絆されて、ゆっくりと目を瞑る。
あまりに心地よい春の入り口の光に、じわりと暖かくなる車内と。起きているのが煩わしく思う、鬱屈とした不調と。赤子をあやすゆりかごの様な振動はまんまと潔の意識の手を引いて、連れ去って行った。

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