「ねぇ、オマエって本当に大人しいな。もっと暴れてもいいんだよ?」
カフェの一角、小さなテーブルのソファー席で可愛い顔をした女性が大きなお腹を摩っていた。ポッコリと出たお腹は肥満と言うには膨らみすぎている。
彼女のテーブルには食べかけのチーズケーキと湯気の立つココア。ココアって平気なのかな。カウンターで注文する女性を見つめてそう思った。
妊婦がカフェインを過剰摂取する事はいけないと何処かで聞いた。私はただのバイトで、ココアにカフェインが含まれているかなんて知らない。だから大丈夫ですかと確認を取る事も出来ないし何も言えない。申し訳なかった。
代わりにと言ったら何だけれど、席までお持ちしますよと笑い掛ければ女性は嬉しそうに笑った。ありがとう、お願い出来る?と微笑む女性はまさに『お母さん』だった。ヤバい。実家のママ思い出す。今度バイト代奮発してディズニー連れてってあげよ。
「子供は元気が一番なのに、大丈夫かなぁ。」
そう言って唇を尖らせる女性はまるで少女の様だ。表情豊かで器用で凄く可愛い人だなぁ。この数分で私はこの女性に夢中だった。
平日お昼過ぎの、少しだけ暇になった時間。カフェの隅でお茶をする妊婦を観察してにっこり。今日店長いなくてよかった〜。お客様をあまり見つめるなって怒られちゃうもんね。
「会いたいねぇ。」
お腹の中にいる小さな生命にそう呼び掛けて、女性はチーズケーキをパクリと食べる。本当に美味しそうに頬張ってくれるのだからこちらも売り甲斐がある。私売ってるだけで作ってないけど。
カランと入り口のモビールがなってドアが開く。ほぼ惰性でいらっしゃいませと声を上げた。バイトにも慣れてくると挨拶もモビールの音に反応して反射的に口をつく。客の顔をいちいち確認しない。まるでフラワーロックの様な適当な挨拶だ。
気紛れにドアに視線を向けるとそこには黒髪のイケメン。いや、癖毛の癖が本当に強いけれど。顔は良い。ドラマに出てそう。
イケメンは誰かを探しているのかテーブル席をキョロキョロと見渡す。そして安心した様に顔を綻ばせた。ワオ、イケメン。
そのイケメンスマイルの先には先程の天使みたいな妊婦さんがいた。イケメンは女性に軽く手を上げるし、女性は嬉しそうに手を振り返す。可愛い。夫婦なんだろうな。
イケメンもとい旦那さんは突然と女性へ顔を近付けるものだから私はドキリとしてしまった。え、キス?こんな自然に?ここは海外?
すると女性は旦那さんの口を手で押さえて止めた。
「やだ、恵のばか。」
おわ、キューンてした。これが萌えって奴?少し顔を赤らめた女性はこの可愛い言葉の後で家と間違えんなと頬を膨らませる。すると旦那さんは瞬時に耳を赤くしてごめんと謝罪した。いや、マジで間違えてたの?てか家ではしてんのか。仲良しだなぁ。良いなぁ。
「仕事大丈夫だった?怪我してない?」
「おう。平気。」
「そっかそっか。気を付けてな。」
「おう。悠仁は?体調平気か?」
「大丈夫!健康そのもの!」
「良かった。」
ほわりと綻ぶ女性の顔。下がった目尻が可愛い。
旦那さんの表情は私からでは見えないけれど締まりのない表情でもしてるのかな。まぁ、そうだよね。だってこんなに可愛い奥様だもの。
「ココア飲み過ぎんなよ。」
「へ?なんで?」
「糖質取り過ぎんのもダメなんだよ。ちゃんと先生の話聞いてんのかオマエ。」
「聞いてるけどカフェインとかお酒ダメしか覚えてない。」
「あのなぁ」
「だって恵がいるもん。」
その一言で旦那さんは黙った。そりゃ黙るし許すわ。可愛いものね。
「この子あんまりお腹とか蹴らないんだ。どっちにも似てないね。」
「俺似だろ。」
「何処が?」
「大人しいところがだろ。」
「全く以って大人しくないし自分で言うのがダメ。恵くんマイナス一億点!」
そう言ってケラケラと笑う女性。旦那さんの肩も僅かに上下しているからきっと笑っている。
「でも先生は大丈夫って言ってんだろ?」
「そう。大きくて元気だって言ってた。そう言えばあの女医さん、最近息子さん反抗期だって。」
「……オマエはまた他人の事にズブズブと」
「浸かってない!話聞いてただけ!」
ムッとした様な表情だ。この女性は俗に言う人誑しって奴なのかもしれない。
「そうだ。また出張入った。五条さんが融通利かせて何とか一泊二日にしてもらったけど日帰りは無理だった。悪い。」
「良いよ。会えないのは寂しいけど、釘崎とか津美紀の姉ちゃんとか助けに来てくれるし。」
「ありがたいな。」
「ね。釘崎また料理上手になってた。何で彼氏出来ないんだろうね。」
「釘崎だからだろ。」
「怒られるよ。」
女性はココアのコップを傾けてゴクンと飲む。まだココアは熱かったらしく肩が小さく飛び上がった。
「ふぅ。そろそろ行こっか。」
「飲み終わったのか?」
「うん。」
「ほら、手。立てるか?」
旦那さんはそう言ってすぐに手を差し出した。ナチュラルにそんな事をするものだから私は感心してしまった。よく出来た旦那さんじゃん。良いの捕まえたねお姉さん。
「よっ、と…ありがと。お腹大きいの動きにくいね。」
「こうして誰かに助けられるオマエもそろそろ見納めだな。」
「えー。」
「足元気を付けろ。椅子とかテーブルに足引っ掛けんなよ。」
「はーい。」
トレイごと食器を持ってきた旦那さんはゆっくりと歩く女性を気遣いながら片付けようと片手でトレイを支えて紙ゴミを捨てた。
「やりますので置いたままで大丈夫ですよ。」
「ありがとうございます。」
「お姉さんご馳走様です。また来ます!」
旦那さんの後ろからヒョイと顔を出す女性。やっぱ可愛いな。いや、旦那さん凄いイケメンどうしよう。
でも私はバイト中で店員なんだから、冷静に。店員として対応しなきゃ。狼狽えてる場合じゃないんだから。
「是非いらっしゃってください。」
手を振る女性とその言葉に小さく会釈する旦那さん。腕を組む微笑ましい後ろ姿にありがとうございますと一礼した。
可愛い人達だったなぁなんてしみじみ思ったり。また来て欲しいななんてほんのり思ったり。
「…よし。」
あの夫婦にほんの少しだけ元気を貰ったのだから後一時間程の勤務も頑張っていこう。今ならどんなクレーマーにだって屈しない気がする。
私は制服のエプロンの緩んだ結び目を結び直す。空手の帯を締めるみたいにギュッと結べば何となく目も覚めた気がして、少しだけ新鮮な気持ちでレジカウンターに戻った。