友達以上恋人未満

散らばった衣服を集めてテキパキと下着を身に付ける。パチンとブラジャーのホックを止め、胸の形を整えた。そして服に袖を通す。
少し固いベットの中で九井はそれを見ていた。先程まで熱烈な行為に及んでいたと言うのに、彼女はその余韻に浸らず、同衾する事もなく帰ろうとしている。何だかモヤモヤして九井は思わず声を掛けた。
なあ」
「はい?」
「帰んの?」
「あー、ハイ」
花垣は質問に短く答えを返しながら、慌ただしくズボンを履く。ムッと顔を顰めてから『何で』と聞けば、彼女は困った様な顔をして答える。
「仕事っす。結構忙しくて」
「あー」
仕事と言われれば引き留める事も出来ない。実際彼女の仕事は忙しいし、不定休なのだ。今日は土曜だからと言うのも通用はしない。花垣の言い分が帰るための言い訳なのか、本当の事なのか分からなくて九井もその後の言葉を続けられなかった。
服を全て着きった花垣はソファーの上に無造作に置かれた鞄を手に取る。そして九井に一言挨拶をしてそそくさと部屋を出て行った。
……行っちまった」
彼女のよそよそしく素っ気ない態度には九井もおかしいと思っている。何か気に触る様な事をした覚えないのだけれど。もしかしたら無自覚にしてしまったのかもしれない。早急に原因に気付いて早めに謝りたいなと彼は思った。
彼女のいなくなった部屋に用はない。けれど身体の疲労感には抗えず、数分後には小さく寝息を立てて寝始めるのだった。
花垣と九井は長い付き合いになる。かれこれ七年はもう性行為をしたり、どこかへ食事に行ったりしていた。始まりは十代だったけれど、自分達はもう二十代で社会人歴もある。そろそろ良い頃合いなのではないかと、九井は自身の鞄に小さな箱を忍ばせていた。
給料三ヶ月分だと高価すぎて最早マリーアントワネット辺りが着けていそうな絢爛なものになってしまうので、費用は少し抑えめ。聞いても辟易しない様な値段の、スタイリッシュでお洒落なモデルを選んだ。記念のものにしてはあまりにもありきたりなデザインだけど、こう言うのは案外普遍が一番カッコいい。高級感のある小さなケースにはそれが二つ、入っていた。
次、会うのは確か明々後日。その時にウン年分の想いを伝えよう、そう思っていた。
そして彼は確かに伝えた。都内の高級ホテルのスイートルームで、大きな窓から見える美しい夜景をバックに跪く。そうしてリングケースを差し出し、プロポーズは完璧。これで彼女も良い返事をしてくれるだろうと信じて疑わなかった。だがしかし、彼女の口から出た言葉は全く以て良い返事などではなかった。
すっ、すみません
顔を上げて彼女を見れば、何故だか少し怯えた様な顔をしている。何か怖がらせてしまったのかと眉を下げた。
「いや、あのていうか、えっと、困り、ますそんな事されても……どう言うつもりですか?」
「は?どう言うつもりって何だよ」
「だって、彼氏でも何でも無い人からプロポーズされても、困るだけ、っつーか
………………は?」
彼女が何を言っているのか、全く理解が出来なかった。彼氏でも何でも無い?プロポーズが困る?何もかもが分からなくて九井は首を傾げた。
「どう言う事だ?」
「どう言う事!?えっ、だからさっき言った通りで」
「いやいや、何だよお前、俺とテメェは正真正銘、付き合ってるだろうが!」
…………………へ?」
溜めて絞り出した言葉は一言であった。大きく目を見開き、九井を凝視して固まっている。そして一気に顔色が悪くなり、怯えた様な顔を見せた。胸の前で握った手はふるふると震えている。
「こ、ココくんと付き合った事なんて一度もありません
「いっ、いやいや付き合ってる
「そもそもどこをどうしてそんな勘違いしたんすか」
「いや、だって、セックスなんか、恋人としかしないだろ
「この世にはセフレって言葉があるんすよ!何で変に純情なんすか!」
「俺はどうでもいい他人に対してそう簡単に金を使わねぇ
「そんな事言われても知らないし
九井が伸ばした手を、花垣は避けた。空を切った手を茫然と見つめて口角を引き攣らせたまま瞬きをする。
「きみは、私の事が好きなんですか?」
「そりゃ、そう、だろーが………
「そんな言葉、きみから聞いた事なんかない
「かっ、海外では、別に、告白って文化は無い
「ここは日本っす!告白って言う文化が伝統の国っす!郷に入っては郷に従う!つかアンタも純日本人でしょ!」
キャンキャンと喚く花垣とは対照的に、九井は言葉を重ねるにつれて歯切れも悪く声も小さくなっていく。呆れた様に溜息を吐いた彼女はギュッと眉間を押さえた。
「そもそも、始まりから考えたら付き合ってるって答えにはならないでしょ」
花垣の言葉に何も言葉を返せなかった。それについては確かにと九井も納得してしまったからだ。
二人の始まりは橘日向の結婚式である。花垣は親友である彼女に叶わぬ恋をしていた。
日向の晴れ姿を見て祝福をしたその日の帰り道、夜道で嬉しそうに、そして悲しそうに泣いていたところに現れたのが九井である。偶々コンビニへ出掛けた帰りに、結婚式から帰る花垣とばったり出会った。それは本当に偶然である。
泣いている女を一人に出来ず、九井もその時までは他意なく自宅マンションへ連れ込んだ。コンビニの袋から出して、彼女へ無理矢理押し付けた缶ビールを片手に長年の恋が今日、終わったと言う話を聞いた。その話は九井にも酷く身に覚えがあった。
九井もかつて、大切な人の結婚式で淡い恋を終わらせたのだ。九井はずっと親友である乾青宗の姉、赤音の事が好きだった。だが彼女は同じ職場で働くと言う見知らぬ男と結婚した。世界で一番美しい、晴れ姿の彼女の隣には並べずにその背中を眺める事しか出来なかった。幸せそうに笑う彼女に引き攣る顔を隠して、おめでとうと口角を上げる事しか出来なかった。彼にもそんな経験があるからこそ、花垣の心の痛みは身に沁みて分かった。
涙する彼女の肩を抱き、九井は囁く。『俺もいつかの恋を引き摺っていて苦しいから、傷の舐め合いでもして誤魔化すしかないよな』と同意を求める。花垣も抵抗する事なく、涙声で『そうですね』と賛同して二人は徐ろに唇を合わせた。そうして花垣側から見れば、未だに続く行きずりの関係はここから始まったのだ。
しかし傷の舐め合いをするだけの二人の関係の認識に、どこかのタイミングで齟齬が出始めた。花垣は変わらぬまま、九井だけがどうしてだか恋人だと誤認しているのである。
つか始まりから考えれば恋人以外とセックスなんかしないって言葉もおかしいっすよね。アンタあの後、私の股にちゃんとちん」
「いい!言語化すんじゃねぇ!」
……まあ、皆まで言うなって感じだろうけど、私、全然赤音さんじゃないっすからね。そもそも系統違うじゃん。乾家儚げ美人家系じゃん。その恋とか愛とかも絶対気のせいでしょ!重ねるのは勝手っすけど、そろそろ新しい女の子探したら?普通にマトモに新しい恋したらどうなんすか。因みに私はとてもじゃないけど、ココくんにヒナを重ねるのはキツいっす。なんかイケメンが私の事抱いてくれて役得だなくらいしか思ってなかったわ。未練がましいのは勝手っすけど、私はもう割と吹っ切れてますよ。やっぱ失恋して割り切るのって女の方が早いんだ」
…………
「セックスするだけの相手なんか探そうと思えば幾らでも見つかるだろうしなぁ。別にココくんに固執する必要もないんすけどまあ、とにかく終わりはアンタに任せますよ。全然。アンタがやめたいって言うんだったら全然終わって、い、い?」
呆れ果てた声音のまま、好き勝手喋っていた花垣だったが不意に口を止めた。力なくベッドに腰掛け、俯いていた九井の肩が震えていた。
顔を覗き込めば、細く切れた目の端から大粒の涙をポロポロと流していた。肩を震わせ、無言で泣き続け、スンスンと鼻を啜る男を見て花垣は絶句する。
へ、泣いてる?」
泣き顔なんか見た事がなかった。この男は絶対に泣かないんだろうなと何となく思っていた。だが目の前の男は静かに、ハラハラと涙を溢している。冗談みたいな姿に花垣はひたすら困惑した。
「こ、ココ、くん?」
……っ、
「えっ、えっ、なっ、何で泣いてんの?あ、も、もしかして私言いすぎた?ごめんねココくん、この程度じゃ泣かないと思ってた
「うっうぅ……
「えっ、えぇわ、私が泣かせたの本当に?」
「す、きだぁ、すき、はながきぃ
「あ、う、うんありがと
「ファミレスで、デザート付けてあげるだけで、嬉し、そうにするとことか、金ローの、アニメ映画で、簡単に泣けるとこ、とか、頼めば、何だって買ってやれるのに、セールの日に、アウトレット、行って、値引き品しか、頑なに買わないところ、とか」
うぅん
「本当に、何気ない、事で、幸せそうに笑って、くれる、花垣がっ、大好きなんだ
グズッと鼻が鳴る。目尻から溢れる大粒の涙を乱雑に拭って、震える声で呟いた。
「お前みたいな、寸胴のちんちくりん、全然赤音さんじゃ、ない」
「ア?誰が寸胴だ。いつの話してんだ。こちとら二十代後半だぞ。さっきちょっとキュンとしたのに返せよこの気持ち」
「でも、おれは、赤音さんじゃなくて、嬉しいのも、悲しいのも、ムカつくのも、全部、顔に出す、し、正義感ばっかで、無茶しかしなくて、元ヤンだから、喧嘩っ早い、花垣が、いい」
「すみません。褒められてる気がしないです。もっと良い事言って」
「真夜中に、コンビニでチキン、買ってっ、二人で食ったり、仕事ない、日に、集まって、映画観たり、花垣と、過ごす、そう言う日常が、俺とっては、大切、で、こんな、なんでもない、くだらない日を、ずっと、覚えてられるのは、隣に、花垣がいるから、なんだ」
は、はい
「赤音さんには、相手がいたけれど、花垣に、相手がいないのなら、俺は、手放したく、ない」
言葉は途切れ途切れに紡がれる。遂にはエグエグとえずき始めた九井の肩に花垣は手を置いた。
きみが、存外私の事好きなんだなって事は伝わった。ありがとう」
「存外、じゃなくて、好きだ………
「ああ、うん、分かった。でもそれがどうして付き合ってるって勘違いする事になったの?」
花垣が」
「私のせい?」
「拒絶しないから、このままずっと一緒にいても、良いのかなって
…………それで付き合ったって事にはならなくない?」
ならねぇ……?」
「なんないねぇ。可愛く言ってもダメだよ〜、ココくん」
花垣はあざとく小首を傾げる男にニコニコと笑いながら言葉を返す。九井は久方ぶりに溢れた涙が止まらず、ポロポロと流したまま彼女の手を取った。そして花垣のつるりとした滑らかな肌をなぞり、優しくギュッと手を握る。
「とにかく、ココくんが私の事大好きなのは分かった。でも私はきみの事都合の良いセフレくらいにしか思ってなかったし、付き合うとか以前の問題だった。なので、正直プロポーズされても困る」
……うっ
はっきりと言われ、九井はまた泣き出した。泣いたのは赤音の結婚式以来だったか。ウン年振りの涙で無事涙腺はぶっ壊れ、そして同時に押さえ付けてた感情の全ても溢れ出し、彼はメソメソと泣き続けた。
「このまま誰の事も好きになれなそうで、もし私達二人ちゃんと売れ残ってたら、今の関係でも四十歳くらいで結婚しても良いかなとは思う」
「そんなの遅すぎるだろぉがぁ!家族になりたい子供欲しいぃ
「まだ付き合ってすらねぇんだって。気が早いんだよなだからまあ、四十になる前に私がココくんの事好きになれば、全然それ以前に結婚はアリなんだよね」
花垣は、どうしたら俺の事、好きになってくれる……?」
うーんそれは分かんない。ごめん。でも、ココくんが頑張らなくてもさ、一応は結婚しても良いかもって思ってる訳だしまあ、その間に好きな人出来たらその人にベクトル向いちゃうと思うけど」
「余計だ、一言
「人の心なんてさ、簡単に動かせないしって言うのは多分ココくんがよく分かってると思うけど、だからこそ慌てずにやってこうよ。あんま思い詰めないでさ?ね?何で私が元気付けてんの?意味分かんなくね?」
「人の心は一つのきっかけとか、物事一つで簡単に動かす事だって出来るんだよ!それが恋っつーもんだろうが、バーカ!」
「罵倒された?なぜ?」
「花垣に、散々言われて俺の心はもうボロボロだよ!クソ!慰めろよ!なあ、バカ!アンポンタン!バカちん!」
「逆ギレじゃん。何?いつもの知性とか比べ物にならないくらい幼稚な罵詈雑言しか言わないし」
メソメソと泣いていた九井は急に逆ギレしはじめた。目から涙を絶え間なく流しながら、元気良く花垣に噛み付いている。言葉にキレがない事以外は調子の戻って来た九井は、急に掴んだ彼女の手をグイと引き、自分の方へ寄せる。そしてギュウと花垣を抱き締めた。

「慰めろよ!抱き締めろよ!頭撫でろよ!背中ポンポンしろよ!好きって言え!」
はぁ無茶苦茶なんだけど
駄々を捏ねる様な九井の態度に息を吐きつつも、花垣は特に反抗もしなかった。九井の横暴さに付き合い、彼の背中に手を回した。言われるがまま背中を撫でていると、掌に伝わる感触が何だか意外に感じた。
意外と、背中が男らしい。九井は他人が思っているよりもずっと甘えん坊で、寂しがりだ。構って欲しい時はじっとこちらを見たり、うざったいちょっかいを掛けにくる様な男である。男らしさとは少し縁遠くて、かと言って女々しい訳でもないけれど。
でも、自分を抱き締めるその身体はしっかりと男性のものだ。九井のごつごつとした背筋に触れるたびにしみじみと思う。
なんか、いい
「あ?何だよ」
「何も?」
思い込みと勘違いは甚だしいし、急に感情の栓が外れて爆発する事もある。正直言って、ひどく面倒な男だった。でも少しだけ、ほんの少しだけ、この男にときめいてしまったのは黙っていよう。九井を抱き締めながら武道はそう思った。

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