少し用事があって横浜を訪れた武道はそのまま夕飯を食べてしまおうかと店を探す。しかし金曜日の夜の飲食店は酷く混んでいて、どこも入店してすぐに入れそうになかった。大混雑の繁華街で立ち尽くし、溜息を吐いているとポンと肩を叩かれる。
「あっ、ごめんなさ」
道の真ん中で立ち尽くしているのが邪魔だと注意されるのかと思い、反射的に謝罪する。しかし飛んで来た声は彼女の名前を呼ぶものだった。
「タケミチ?」
「…っあ!カクちゃん!」
そこには十四で再開してから長らく友人関係を保っている幼馴染みの鶴蝶がいて、驚いた様に目を見開いていた。彼女の肩に置いた手を離し、どこか嬉しそうに口を開く。
「どうしてここに?」
「あ、ちょっと用事で。ついでにご飯食べてこ〜かなって思ったんだけど…やっぱ凄いねー。華金だからみんな飲んだり食べたりしてるわ。そういうカクちゃんこそ何でここにいんの?」
「いや、仕事の帰りでそのまま飯食おっかなって思ってさ。いや、でも本当凄いな。どの店もそこそこ並びそうだ」
「ねー、どうしよ…」
悩ましげに頬を押さえる。眉を下げて困り顔の武道はまた溜息を吐いた。
「はぁ…ちょっと疲れてんのにこれ並ぶのやだなぁ…」
「分かるなぁ…」
「ここはもう諦めてどっかで弁当買ってさっさと帰ってビール飲もっかな…」
店の前に続く行列に思わず辟易とする。食欲を面倒臭さと疲労が追い越して、とうとう外食する気分も消え失せてしまったらしい。スマホで時間を確認して、何度目かの溜息を吐きながら肩を落とした。
そんな彼女の正面で、鶴蝶は何かを思い付いたのか『あ!』と大きな声を上げる。急に何だろうと顔を上げれば、彼はニコニコと笑っていた。
「それなら俺ン家来ないか?」
「…へ?」
「俺が作れば良いじゃねぇかって思って!良かったら食べて行かね?」
「え…」
突然の申し出に武道は固まる。そしてまた困った顔をして首を傾げた。
「…並ぶより作る方が面倒じゃない?」
「いや俺料理好きだからさ」
「…あー……なんか前にソースから自分でグラタン作ったとか、二郎系ラーメン自作すんのにハマってるとか言ってたね」
「普通に食えねぇ味じゃないと思うんだけどなぁ。なぁ、来ねぇか?タケミチ」
「…………うぅん」
快諾してくれると思った彼女だったが、その口から出るのは悩ましげな唸り声。思い通りではない反応に鶴蝶は目を伏せた。
「ダメか?」
「いや、ダメっていうか」
「タケミチ?」
幼馴染みが寂しそうに名前を呼ぶ。その声に苦虫を潰した様な顔をして眉間に皺を寄せた。それから彼女は少し考えた後、『わかった』と頷く。明るい彼女の返答に一変して表情を変えた鶴蝶は『行こうぜ!』と彼女の腕を無遠慮に掴むのだった。
電車に揺られ、駅を降りた二人はすぐ側のマンションに入っていく。ここが彼の自宅らしい。エレベーターに乗り込み、階層を上がって鶴蝶の案内の元、部屋へ入った。
「お、お邪魔します…」
「おー、洗面台ここな。手洗ったらソファーに座ってて良いよ」
「あっ、うん…」
パッとコートを脱いで掛けられていたハンガーに袖を通す。せこせことリビングへ向かってしまう彼の後ろ姿を見ながら、武道はノロノロとコートを脱ぎ、手を洗った。
コートと荷物を手に抱えながら、どこか緊張した面持ちでリビングに向かう。そして慎重にソファーに腰を下ろした。それはひどくふかふかとしていて座り心地がいい。何だか高級なものの様に感じで更に緊張した。
「タケミチ何か食いたいもんある?」
「…ひえっ!?あ、え、何!?」
「いやだからリクエストあるかって」
「あ、え………お、おいしい、もの」
武道のリクエストに鶴蝶は吹き出した。ケタケタと笑ってからうんと頷く。
「分かった。頑張るな」
「あ、うん…がんばれ…」
冷蔵庫を覗き、どんどんと食べ物を取り出していく鶴蝶。その様子を見る事もなく、武道はただ真っ直ぐにソファーに座り、ぎこちなく辺りを見渡していた。
ウッド調のオシャレな壁掛け時計、薄型の大画面テレビ、天井から吊り下がるレトロデザインのランプ、彼の部屋を構成する全てがどこかオシャレで、違う世界の人の様に思えた。いや、きっと本当に違う世界の人なのだろう。そう思うと途端に寂しくなって、武道は少し俯いてしまった。
テレビをつけて良いと言われてもあまりつける気にはなれなくて、何をするでもなくただぼんやりとしていた。その内にキッチンの方から良い匂いがして武道は思わずその方向に目を向ける。
「なに?タケミチ」
「え!な、なんでもないっ!」
「えー。…もう出来るからさ、あと数分待っててくれ」
「う、うん」
ニッと武道の方を向いて笑い、フライパンを振るう。感心してしまうほど、非常に慣れた手付きだった。彼の言う通り、ものの数分で出来上がった料理が運ばれて来た。
「まずたまごとブロッコリーとマカロニのマヨサラダ」
「美味しそう…」
「次が和風明太クリームパスタ」
「美味しそう…!」
「そんでわかめのかき玉スープ」
「おお…」
「一応バゲットも用意したから」
「す、すごいね…こんな短時間で…」
感心したような声を上げれば、鶴蝶は照れ臭そうに頬を掻いた。彼は眉を下げて恥ずかしそうに口角を上げる。
「少し張り切って作っちまった」
「そうなんだ」
「食べようぜ。酒何飲む?ビール?ワイン?レモンサワーとか酎ハイもあるぞ」
「ビールください…」
「分かった」
彼からビールを受け取る。鶴蝶が席に着いたところを見て普段やらないくせに手を合わせれば、真似をして鶴蝶も手を合わせてくれた。『いただきます』と呟けば、彼もそう言ってまずビーフに手を伸ばす。プルタブを押し込んで封を開ければシュワシュワと泡の音がする。一口飲もうと口を開けば、鶴蝶は開けた缶を突き出して来た。
「乾杯」
「あ…か、乾杯」
自分の持つ缶をそれに軽くぶつけ、カンと音が鳴った。泡立つビールを一口飲み、長く息を吐く。それでもどこかソワソワして、キュッと口を閉じた。
「…や、やっぱだめかも…」
「何が…?」
「カクちゃんの家、緊張する…!」
武道のカミングアウトに首を傾げる。自分達の間柄で今更何を緊張するのか。そう言いたげな表情に気付いて、両手でビールの缶を握った。
「だって初めてだから…」
「…何が……?」
「男の人の部屋に行くにしても複数人いたり、女の子がいたりして、だから、その、…男の人と一対一でその人の部屋に入るのとか初めてだから緊張、するっ…」
ポッと頬を赤らめて目を瞑る彼女。ウブなその様子に鶴蝶は面食らった。あんなに男友達がいて、常に誰かと一緒にいるこの子が。イザナ曰くマイキーの家によく上がり込んでいる(と言うかマイキーに連行されている)と言われているこの子が。無垢な事を言うなんて。
恥ずかしそうな彼女に当てられて、鶴蝶も顔を赤らめた。持ち上げたカラトリーをカタンと置いて固まる。
「だって、それに!カクちゃんの家だし…無理だよ…心臓バクバクで正直ご飯どころじゃない…いや、心配しなくても出されたものはちゃんと食べるけど…」
「………な、んで、…俺の家だと無理、なんだ」
アルコールで湿らせた口が急速に乾いていく。挙動不審な男は挙動不審なまま彼女に問い掛けた。
「緊張するから、です。どうやっても身構えちゃうからっ!」
「今更、何で身構えるんだ…」
「…今更って、…カクちゃんと二人きりは初めてだよ…」
「えっ!?……た、確かに、言われてみれば…」
いつもはイザナや天竺の面々、それから武道ツテで知り合った同い年の奴らと集まって食事や飲み会をしていたため、武道と二人で過ごした事はない。言われて初めて気付いて、鶴蝶も改めて緊張した。
「………あっ」
「なっ!…何?」
「……いや…いやぁ………」
「…何その動き。何でそんなフラワーロックみたいな動きするの…?」
グリグリと首を傾げ、クネクネと悩ましげに踊る鶴蝶。彼の唸り声と不審な動きに少しだけ冷静になった武道は突っ込んだ。
「いや、…これ勘違いだったら俺、普通にイタいっつーか、さぁ?マジでただのキメェ男だし」
「い、言わなきゃ分かんない…!」
真っ直ぐとした青い瞳に射抜かれる。その視線からは逃げられない。グッと喉を鳴らして苦しげに顔を歪めた後、赤い顔のままで口を開いた。
「だからっ…ちょっとは、勘違いしても良いのかな、って…!」
「……」
「…あー、もうだから言いたくなかったんだって…!俺普通にキモいだけじゃねぇか…!」
恥ずかしそうに目を瞑り、額を押さえる。笑い飛ばしてくれれば冗談で誤魔化せたけれど、相手方から何の反応もなければどうする事も出来ない。言葉の撤回もできずに頭を抱えていると、彼女の小さな口から小さな小さな声が聞こえた。
「していい…」
「え?タケミチ?」
「していいって言ってる」
「……は…?」
「君が勘違い出来るのであれば、してもいいんだって、だから…!」
「あ、あ、え、あっ…」
「……あの、さ?こんだけ赤い顔してんのに、君の勘違いは『ちょっと』でいいの?」
「タケ…」
彼女の名前を呼ぼうとした。けれど黙った。目の前で赤い顔をして目を伏せる彼女を見ていると、これ以上の言葉はナンセンスだと感じたのだ。多分おそらく、不必要。
「ちょっとじゃなくて全部、君のものにしてくれて構わないのに」
鶴蝶はゆっくりと彼女に手を伸ばした。