洗面所へ行くとそこには武道がいた。鏡を覗き込みながらブラシを使って髪を梳かし、一つに纏めている。ゆらゆらと鈍い緑色のワンピースは彼女によく似合っていた。
「見た事のないワンピースだな。新しく買ったのか?」
「あ、うん!折角だし外着ていきたいなと思って着てみたんだけど…どう?」
「よく似合ってるよ」
鶴蝶は武道に歩み寄り、腰に手を回す。そして彼女にキスをしようと顔を近付けた。
「もー、カクちゃんたら、朝から元気だね〜」
「その言い方やめろ」
「ふふ、ちょっとイザナが来るかもしれな…」
そう言って徐ろに洗面所の入り口へ目を向けた武道は固まった。そこには何と、きっちりとお出掛け用の服を着込んだイザナが涼しい顔をして立っていたからだ。
「あっ、待って待ってカクちゃん!イザナいるいる!」
「えっ、おっ、お前っ…!いるなら声掛けろ…!」
「…たのしそう、だったから…」
「そうだなー!これは俺が悪いな!ごめんな、父さんはしゃいじゃって!」
「…なかよし」
「もういいから忘れなさい…」
小学生にも満たない幼い子にあの様な光景を見られ、恥ずかしくなった鶴蝶は顔を真っ赤にして眉間を押さえた。武道も恥ずかしさに顔を赤く染めるが、イザナの前にしゃがみ込む。
「い、イザナ、一人でお洋服ちゃんと着れたの?」
「…うん」
「そっかそっか。偉いね〜。やったね〜」
身体は幼児と言えど、中身は大人と遜色無い青年である。自分の事は勿論自分で出来るのだ。だから普通に生活するだけで褒められてしまう事は一種の煽りの様にも聞こえかねないが、案外嫌いではない様で彼はこの状況を最大限楽しんでいた。何をしても褒められてしまうこの環境が、イザナにとっては案外居心地が良かった様だ。彼は大きな頭でコクリと頷いた。
「すごい?」
「凄い凄い!ね、カクちゃん」
「ああ、凄いなぁ。もう一人で出来るのか。偉いな」
鶴蝶は自身の大きな手をイザナの頭に乗せ、撫でた。照れ臭そうに目を逸らすも、その手は叩かずにいた。
「行こっか」
「そうだな」
急いで鞄を取りに行く武道を見送り、鶴蝶はイザナの小さな手を握り締める。靴履いて待っていようかと微笑む父にイザナはコクリと頷いた。
手を引かれ、イザナらが来た所は博物館だ。同じ敷地内に植物園もあるようでとても広々としている。綺麗に並ぶ動物の剥製を眺めながら三人はゆっくりと館内を歩いていた。
「すごいねイザナ。ゾウさんおっきいね」
「…うん」
「あれ何円くらいするのかな」
「えっ」
「え?」
武道の突然の発言に鶴蝶もイザナも彼女を見た。集まる二人の視線に一瞬、ポカンとした表情を見せて首を傾げたがすぐにその意味に気が付いて焦った顔で弁解を始めた。
「あっ、いや、…そう!ほら、本物の動物使った剥製って高いじゃん!だから、ちょっと気になっちゃって!ただの興味だよ興味!」
「そ、そうか…」
鶴蝶はどうにも納得し難い様子だが、焦る武道を見て引き下がった。彼女と出を繋いでいるイザナは武道を見下ろしながらじっとりと疑うような視線を向ける。何せイザナは知っているのだ。彼女の生業が怪盗であり、そのせいで多くの物を値段でしか見れなくなっていると言う事を。
(やっぱ花垣武道って馬鹿なんだなぁ…)
五歳の息子(中身は十八歳)に軽く馬鹿にされる武道。本人はそんな事などつゆ知らず、手汗の酷い手で彼の小さな手を握り締めた。
「は、剥製ばっかり見てるのも飽きてきたよね!次行く?」
「…イザナはどうしたい?」
「おれは、…べつにいい」
「な、ならいいが…」
(鶴蝶もこれで誤魔化されるからな〜。似た物夫婦って奴だな)
これ以上その場に留まっていると何だか今以上のボロが出るような気がして怖かった。いち早く立ち去りたくてイザナの手を少し強引に引いてしまった事は許して欲しい。
海の生物の模型が美しく展示されているブースを見て回る。足を長々と伸ばす大きなイカの模型に武道はポカンと口を開けて眺めていた。そんな中、イザナは彼女の手をクイクイと引いて呟く。
「トイレいきたい」
「あ、そっか」
「俺行ってくるよ」
「うん、待ってるね」
イザナはその小さな手を鶴蝶へ伸ばした。鶴蝶はその手を優しく握り、トイレへと連れて行く。その道中、イザナの小さな身体は何か大きなものにぶつかってよろけた。
「っ!」
「イザナ!」
「ッチ!気を付けろ!」
イザナにぶつかったのは大柄な男だった。ぶつかって来た男は大きく舌打ちをしてイザナを一瞥し、彼を半身で躱しながら去って行く。その不躾な姿を見て鶴蝶は居ても立っても居られずに声を掛けた。
「お前が先にぶつかったんだろう。こんな小さな子に。謝れ」
「…ハッ、コイツが小せぇのが悪いんだろ」
理不尽な悪態を吐いて男は去って行く。鶴蝶は男の後ろ姿を鋭く睨み付けた。そしてギュッと拳を握り、小さく口を開いて呟く。
「…殺すか」
(…こいつも自分の身の上隠す気あんのか)
本当に小さな声だったがイザナにははっきりと聞こえていた。と言うよりも言葉以上に体全体から殺意が溢れ出ており、殺意やら悪意やらに慣れ切っていたイザナには察せてしまったのである。今にも追い駆け、どこか人影の無い場所へ連れ込もうとする鶴蝶の手をギュッと握った。小さな手の温かさに彼はハッとして下を見る。
「イザナ」
「トイレ」
「…そ、そうだな…。行こうか、トイレ」
体から溢れる殺意はスッと収まり、鶴蝶はイザナの紫色の瞳を見つめる。やがて強張らせていた顔を緩め、眉を下げて笑った。キラキラとした幼い子供の目を見て自分が馬鹿らしく思えた様だった。
いつもの優しい笑顔を浮かべてイザナとトイレへ向かう。彼に手を引かれながら、イザナは密かに呆れたような顔を浮かべた。
(まあ、下僕は素直だからな…)
前世の縁もあってイザナは比較的鶴蝶に甘かった。武道よりも優しい目を向けてその手を引かれていた。
帰って来た鶴蝶からその話を聞き、武道はイザナの目の前にしゃがんで目線を合わせる。『大丈夫?』と心配そうに顔を覗き込んだ。不安げな武道に小さく頷き、イザナは鶴蝶の手を離して彼女の手を握った。
「かあさん、おなかすいた」
「そうだね。もういい時間だからどこかでご飯食べる?」
「うん」
「だって。カクちゃんはいい?」
「ああ。大丈夫だ。イザナ、何か食べたいものあるか?」
イザナは微笑みながら顔を見つめる二人をジッと見つめ返した。二人とも、結局は赤の他人でしかないイザナを最大限優先してくれる。その優しさはイザナにもしっかりと伝わっており、優しくされるたびに体中に何とも言えないこそばゆさが走った。
「…なんでもいい」
「何でもいいかぁ。どうしようね。カクちゃん何か食べたい物ある?」
「うーん…サンドイッチとか?」
「カクちゃんも二十代後半になって重い物食べれなくなってきた?」
「うるせーぞタケミチ」
鶴蝶は武道の頬を摘み、ギュッと引っ張って伸ばす。痛い痛いと訴え掛けるも、その声はどこか楽しそうに聞こえた。
(鬱陶しいくらいオシドリだな)
イザナは仲睦まじい二人のやり取りを下で聞きながらぶらぶらと足を揺らす。中身は十八歳だが身体は五歳である。先程からずっと歩きっぱなしで、五歳の小さくて体力のない体ではかなりの運動量であり、負荷だった。涼しい顔をしているが実の所、体力は割とギリギリだったのだ。だが武道は表情の変わらない彼の僅かな変化に目敏く気付いてイザナに話し掛ける。
「イザナいっぱい歩いたもんね。疲れちゃった?」
「………うん」
「抱っこする?」
「…うん」
「父さんと母さんどっちがいい?」
「かあさん」
「即答…」
イザナに即刻振られ、鶴蝶は少しだけ傷付く。イザナ的にはやはり鶴蝶に特に思い入れがあり、彼に対しては特に甘くなってしまう事は自覚していた。しかしそれはそれとして、抱き締められたりお世話されたりする事に関しては若干雑な鶴蝶より優しくて柔らかな武道の方が良かった。硬い胸板に顔を埋めるより、柔らかな乳房に埋もれる方が良かったのだ。
武道はイザナの脇に手を入れ、抱き上げる。子供らしいひどく温かな体温を感じ、小さな存在の愛らしさに思わず目を細めてしまう。
「疲れたのにぐずらないでイザナは偉いね」
「…うん」
「…お前はまだ五歳なんだからもっと我儘言ってもいいんだぞ」
(……我儘言って、幻滅されて捨てられるのも嫌だしな)
イザナは自分が思っている以上に二人に執着しているし、居心地が良いとも思っていた。せめて自分で稼げるようになるまではこの場所を手放したくなかったのだ。だから下手に幻滅される様な言動は取らない様に気を付けていた。その無欲さと大人しさが原因で二人からは結構心配されている事は知らなかったりする。
「タケミチ鞄持つぞ」
「あー、良いよ。大丈夫。鞄もイザナも重くないし」
「良いから。ほら、貸せ」
そう言って武道の肩に掛かるトートバッグを奪い、自分の肩に掛けた。武道は眉を下げ、だが嬉しそうな顔をして『ありがとう』と例を述べた。
「どこかレストランかカフェか着く前にイザナ寝ちゃうかな」
「ねない」
「寝ないかぁ。おねむだったら寝てもいいんだよ」
(……あったかい)
柔らかくて温かな彼女の首に手を回し、体重を預けているだけで眠くなって来ているのは事実だ。それを分かっているのか、武道はイザナの背中をポンポンと優しく叩いている。完全に寝かし付けに来ていた。
武道の腕の中で心地良く揺れながらレストランまでの道中を行く。二人の優しい声がまるで子守唄の様に響いてイザナはうつらうつらと微睡んだ。
「カクちゃん、後でお買い物したいんだけど良いかな」
「ああ。食材のストックも無くなってきてたしな」
「いっぱい買ったらその分、保存のために色々しないといけないから大変だよね」
「はは、手伝うよ」
「うん、ありがとカクちゃん」
この言葉の後、ふと、鶴蝶は立ち止まった。突然止まる男に武道は目を丸くする。しかしそんな彼女を気にする余裕も無さそうに、鶴蝶は大きく目を見開いていた。
「カクちゃ…」
「…………鶴蝶」
低く、抑揚の無い声がした。武道は顔を上げる。そこには黒いスウェットに身を包んだ銀髪の怪しい男が立っていた。彼は血色の悪い顔に、隈の濃い目をして鶴蝶を見据えている。後ろにはピンクの髪をした美しい男がいてじっとりとこちらを凝視していた。
「ここにいたんだな」
「っ、ま、マイキー」
「その後はどう?まだ見つかってねぇの?」
「…い、まは…まだ」
様子のおかしい鶴蝶に武道は心配の視線を向ける。どこかバツが悪そうに、緊張した面持ちの鶴蝶にもう一度声を掛けようと口を開いた。
「あの、カクちゃ」
「ねえ、お前誰?その餓鬼は?鶴蝶の何?」
銀髪の男はこちらへ近付き、深い黒色の瞳で武道を見つめる。彼から感じる深い闇に動揺し、武道は腕の中のイザナをギュッと抱き締めた。目の前の“マイキー”の気迫に充てられ、イザナも完全に目が覚めてしまった様だった。ジッと見つめる男の視線を遮ったのは鶴蝶だ。額に少し冷や汗を掻きながら、ゴクリと喉を鳴らして男から武道とイザナを庇っている。そんな鶴蝶の様子にピンク髪の男は声を荒げた。
「おいおいおい!マイキーに楯突くつもりかァ?鶴蝶のくせによぉ!」
「うるせぇよ三途。で、何?お前誰なの?」
「あの、マイキー、彼女は…」
「…っ、私は、鶴蝶の妻の武道です。この子は息子のイザナです」
「ふーん。嫁」
男は武道の左薬指をジッと見た。そこには美しいデザインのシルバーリングがきらりと光っており、確かに結婚しているのだと証明している。値踏みする様な男たちの視線に武道は身を捩った。その腕の中でイザナは男をジッと見つめている。
(これがマイキー…?)
そう。イザナはマイキーを知っていた。それは前世の話であった。殊にマイキーとは非常な複雑な関係にあり、酷く執着していた記憶がある。今は鶴蝶と武道が一番大切だし、マイキーの事など頭の片隅にもなかったのだけれど。それでも自分の記憶の片隅に残るマイキーとは印象が全く以って違い、流石のイザナも動揺していた。
(なんかすげぇ辛気臭ェ奴になってんな…真一郎泣くぞ。今何してっか知らねぇけど)
「あなたは、どなたですか?」
「…お前の旦那の上司」
「あっ、上司の方!」
「ウン」
「あの、そちらの方は?」
「そこのピンクはいないものだと思ってくれていい」
「えっ」
「…どうしてここにいるんだマイキー」
「どうしてって、ここにお前がいるって聞いたから遊びに来ただけ」
「遊びにって…」
「そんで何?おいそこのガキ。何見てんの?」
男はイザナを見た。突然話し掛けられたイザナは困った様に眉を下げ、武道に抱き付く。少しだけ怖がった様子を見せれば、武道は守る様に抱き直してくれた。本当は全然怖くないし、なんならマイキー相手に啖呵を切ったって良い。
「イザナ、あんまり人様の事ジッと見ちゃダメ。分かった?」
「…ごめんなさい」
「…うちの息子が申し訳ありません。まだ五歳で…」
「息子…五歳なんだ。…でもさ、似てなくない?お前とその女に全然似てない。血、繋がってる?」
「…イザナは、…捨て子、で、俺達が養子として引き取ったんだ」
「へー、捨て子ね」
男は笑った。イザナを見て口角を上げた。その嫌な顔にイザナは普通に顔を顰める。何が言いたいのだろうか。その飄々とした表情からは何一つ、読み取れなかった。
「…だから、何ですか?」
「いや…ねぇ、ガキ、虚しくないの?お前、捨て子って本当の両親に捨てられて赤の他人に育てられてさ、血なんか繋がってないし全然似てない奴と一緒に過ごして比べられて、惨めに思わねぇの?」
普通の五歳児ならばその言葉の意味など到底分からない。しかし普通の五歳児だとしてもこの言葉達が悪意を持って発せられた言葉だとは察する事が出来るだろう。中身が十八歳のイザナには、勿論その言葉の意味の全てが理解出来た。そしてその上で少し傷付いた。
二人と一緒に過ごすにつれて薄くなっていったとは思っていたが、胸の中には未だに根強くコンプレックスが残っている。当たり前だ。家族だとか家族じゃないとか、血の繋がりがどうだとか、前世からずっと胸に突っかかっていた大きな物なのだから。二人の手前、激情に身を任せてキレる事も出来ずに、年相応に怒りの凝縮された涙を目に溜めて武道にしがみ付く。上司と部下の関係だが、これには鶴蝶も黙っていられなかった様で少し注意しようと口を開いた。しかしそれを止めたのは武道だった。
彼女は抱き着くイザナを鶴蝶に渡し、彼の頭を優しく一撫でした後、男に向き直った。そして片手を上げ、男の頬を思い切り平手打ちした。突然の事に鶴蝶は目を見開き、息を止めて固まってしまった。マイキーは殴られた衝撃で呆然としている。その後ろでピンク髪の男もポカンと口を開けていた。ハッとしてピンク髪の男が武道に掴み掛かろうとした時、間髪入れずに武道は声を上げる。
「五歳の子供になんて事言うんですか!」
「…五歳のガキなんか、今の言葉の半分も分かんねぇだろ」
「確かに、意味は分かんないかもしれない。でも、現に息子は傷付いた顔をしてる。アンタが悪意を持ってこの子に余計な事を言ったって、息子はちゃんと分かってんだよ」
「だったら何?」
「謝ってください。私達の息子を泣かせた貴方の罪です。今の発言を早急に取り消して、息子に謝罪しなさい」
「…アンタらもそうだよ。虚しくなんない訳?血の繋がってない見ず知らずのガキと家族ごっことか、馬鹿馬鹿しいとは思わねぇの?」
「思う訳ねぇだろ!」
マイキーに楯突く武道を止めたいけれど、腕の中のイザナを守らなければならない。緊迫した顔で『タケミチ…』と名前を呟く鶴蝶を一瞥し、武道は声を荒げた。
「色んなところ出掛けて、遊んで、皆でテレビ見てご飯食べて、私達はそうやって毎日過ごして来たんだ。家族として、夫と、息子とそうやって過ごして来たんだよ!虚しい訳ないだろ!これ以上無いくらい幸せだよ!」
「このクソアマッ…!」
「馬鹿馬鹿しくなんかねぇ!家族ごっこなんかじゃねぇんだよ!家族にとって血の繋がりなんて全く重要じゃねぇ!私と鶴蝶みたいに、見ず知らずの男女が結婚して家族になれんなら誰だって簡単になれるよ!家族にとって大切なのは過ごした時間と、相手の事を思う気持ちでしょう!私達はお互いを大切に思っているし、大切に思える程一緒に過ごしてる!お前が何を言ったって、私達が家族って事は揺るがないんだよ!」
(…!)
イザナは鶴蝶の腕の中で目を見開いた。彼女の叫びが、長年籠っていた蟠りをスッと解消してくれた様な気がした。何だか心が軽くなった様で、イザナは遂にポロポロと涙を零す。泣きたくなくても自然と出てくる涙で鶴蝶の服が濡れていく。しかし鶴蝶は気にする事なく、優しくイザナを抱き締めていた。
「家族だから、イザナの母親として、私はお前が許せない。大切なうちの一人息子を傷付けておいてこのまま何もしないなんて出来る訳ない。鶴蝶の上司だからって何言ってもいいとかそんなの大間違いです。謝って。息子と、夫に謝ってください」
「言わせておけばっ!このドブカス女ッ…!」
「三途、黙れよ」
絶叫した後ろの男、三途を黙らせてマイキーも黙った。黙り込むマイキーに鶴蝶は変な汗を掻き続ける。冷静に考えてみて、これって結構ヤバいのでは?首領に楯突くとかそれって裏切りと同義なのでは?そんな裏切り者の末路は、そう──。
鶴蝶は一人思考を巡らせ、顔を青くした。せめて最悪があっても妻と息子だけは守らねば。鶴蝶はイザナを抱えたまま、焦って前へ出た。だがマイキーが突然、顔を上げ、また不気味な瞳でジッと見つめてくるのだから鶴蝶も更に狼狽えてしまった。
「…鶴蝶」
「…ッ、はい」
「悪かったな」
「申し訳ありません!妻と息子だけはッ………………ん?」
「マイキー?」
「だから、悪かった」
「わる、え?」
「お前。イザナ?って言うの?」
イザナは頷いた。その僅かな頷きにもしっかりと気付き、マイキーは口を開く。
「さっきは変な事言ってごめんな」
「………………うん」
「そんで、アンタ。もう一度名前聞いても良い?」
「…武道、です」
「そ。じゃあタケミっちだ。…さっきは変な事言ってごめんね。俺が悪かった」
「あ、…え?」
突然、男の態度は軟化して武道に微笑み掛けた。彼女は少し困惑した様子で鶴蝶を見る。鶴蝶も困っている様で、武道と目を合わせて首を傾げた。
「鶴蝶の嫁なんだ。突然海外行くなんて、びっくりしたでしょ。不自由ない?」
「えっ、い、いえ、えっと…特に困った事は…あっ、夫のおかげで不自由なく暮らせています」
「ふーん。何か不満があったらいつでも連絡ちょうだい。これ、俺の連絡先ね」
三途からメモ帳を貰ったマイキーはスラスラと地震のメールアドレスを書き込み、武道に手渡す。断る事も出来ずにそれを受け取った武道とマイキーの間に鶴蝶は身体を滑り込ませ、割り込んだ。
「…何?」
「タケミチは、俺の妻なので」
「ああ、だから?」
「…ッ!」
「誰の嫁だとか、俺達には関係無くない?だって俺達、反…」
「やめてください!」
マイキーの言葉に被せ、鶴蝶は叫ぶ。バツが悪そうにマイキーから目を逸らす鶴蝶に掴み掛かろうと一歩踏み出す三途を鋭い声で止め、マイキーは目を細めて意味深な笑顔を見せた。
「へえ、そう言う事」
「……」
「分かった。今は黙っていてあげる。でもいつまでも隠し通せると思うなよ」
この言葉に関してはイザナも甚だ同意であった。こんな大層な事実を死ぬまで隠し通せるはずもない。鶴蝶の腕の中から彼を見上げれば、苦虫を潰した様な表情をして顔を逸らしていた。
「じゃあね」
「えっ、もう良いんですか?」
「うん。…また様子見に来るね」
「あ、お待ちしてます…」
そう笑ったマイキーは三途を連れ、颯爽と去っていく。嵐の様な男に掻き回され、その場に残された二人は困り顔を見合わせた。
「…様子見に来てくれる良い上司さん、なのかな?」
「…ウン」
「とうさん、かあさん」
イザナの声に二人は顔を向ける。少しだけむくれ顔のイザナは鶴蝶の服をギュッと握り締め、小さく呟いた。
「おなかすいた」
「あっ、そうだ!お昼ご飯!」
「そうだよな。ごめんなイザナ。レストラン行こうな」
武道の方へ手を伸ばせば、彼女はイザナを抱き締める。少し疲れを感じながらも二人はイザナを連れて近くのレストランへと入っていったのだった。
その後、マイキーをはじめとする鶴蝶の職場の人間達が頻繁に訪ねて来る事となる。そして彼らが頻繁に不倫の話を持ち掛けてくるとは思いもよらない。それだけに留まらず、武道にまでも身バレの危険が迫っている事を知るはずもなく、小さなイザナだけが二人の秘密を握っていた。いつ全ての嘘が剥がれ落ちてしまうのか、イザナはただ夫婦の行く末を眺めていた。