朝起きると時刻はもう既に八時を超えていた。さっさと起きて着替えなければ学校に遅刻する。幾ら高校が歩いて二十分程度の場所にあったとしてもだ。あたしは掛けてあった制服に手を伸ばし、急いで袖を通す。下で新聞を読む爺ちゃんに『遅いぞ』と怒鳴られながら、台所に置いたままの菓子パンを手に取った。その封を開けながら爺ちゃんに『いってきます!』と挨拶をすれば、はしたないとまた怒鳴られてしまった。
「ガチヤバいガチヤバい!マジで遅刻する!」
自慢の足で坂を駆け、直線を走る。その間にも菓子パンを貪る事は忘れず、口いっぱいに甘い蒸しパンを頬張っては咀嚼した。
そろそろ高校が見えてきたと言う所の曲がり角。あたしは息を整えながら走る。全力疾走していたら意外にも余裕が出来たため、先程よりも減速して学校を目指す。優雅に蒸しパンに齧り付き、学校でミルクティーでも買ってしまおうと計画を立てていた。そうして曲がり角を曲がった時、その角のすぐそこで立ち止まっていた人に激突してしまった。幸いだったのが人、と言ってもその人の背負うリュックに鼻を強打してしまった事だろう。ダメージが入ったのはあたしだけで向こうは無傷だ。
「ぅっ、鼻っ…」
「えっ」
「あ、えっと、す、すみませんっ…!ぶつかっちゃった…!怪我とかしてないですか!」
「いや、…俺こそこんな所で立ち止まっててすまない…」
鼻がじんじんと痛み、もう蒸しパンどころではないがぶつかった手前、謝罪をしなければならない。鼻に走る痛みを我慢しながらあたしは目の前の男に話し掛けた。本当に男の人が怪我をしていないのか確認しようと顔を上げた所、あたしは思わず息を呑んでしまった。その男は、あたしと同じ学校の制服を着たその男の人は驚く程イケメンだったのだ。
白い肌に黒く美しく艶やかな髪、そして涼しげな目の中には綺麗な群青色の瞳が輝いている。ドラマでも映画でも見た事のない様なとんでもないイケメンがそこにはいた。あたしは思わず呆然と身惚れてしまう。
あたしは蒸しパンを手に持ったまま、地面に座り込み、顔を凝視してしまった。すると突然、イケメンは地面に膝をつけ、あたしと目線を合わせた。そして信じられないものでも見るように目を見開き、口を開く。
「あ、あの」
イケメンは何か言っている。しかしあたしは頭の中が真っ白だった。いや、だってあんなイケメンにあんな信じられないみたいな顔で凝視されてみてほしい。普通にメンタル来ちゃう。まあ、これに関しては地面に座ったままイケメンの顔ガン見したあたしが悪いんだけどね。そりゃ不審がられるよねって。だとしても勝手に傷付いちゃった。
何だか恥ずかしくてあたしは勢い良く立ち上がった。イケメンの言葉を知らず知らずの内に遮り、蒸しパンを片手に学校まで全力疾走してしまった。
*
「って言うのが今朝あった出来事な訳だよ」
「マジかよ」
「…なにそれ……」
学校に着き、冷静じゃない頭で飲み物を買い、教室に駆け込んだ。騒がしく席に着き、深呼吸をした悠仁の手に握られていたのは蒸しパンと先程買ったであろうカルピスの小さなペットボトル。少し冷静になって『カルピスで蒸しパン食べるのかぁ』と残念さを感じてしまった。
朝から恥ずかしさと残念さを感じながら授業を受け、昼休み。友達の美々子と菜々子と今日の朝にあった出来事を話したのだった。
「同じ学校のイケメンって…いる?そんなさ、恋愛に無頓着な悠仁がカッコいい〜って惚ける様なレベル。美々子分かる?」
「…………うちの高校人多いじゃん…分かんないよ…そもそもそれって本当にこの学校?そんな状況だし見間違えたんじゃないの…?」
「…その可能性は否めないんだよなぁ」
「しっかりしろよ〜!つか寝坊すんな!」
「それはそう。すみません…」
「…遅刻しなくて良かったね」
「美々子優しい。好き」
ポッキーを摘む美々子に擦り寄れば、手元のポッキーを口に突っ込まれた。口でチョコレートを感じ、悠仁は美味しいと呟く。
「それで?イケメンの事好きになっちゃった?」
「好きになったと言うか、何かあまりにもイケメンすぎてビビったと言うか。お近づきになりたいとかじゃなくて単純にあの顔がもう一度見たい。会う会わないに関してはイケメンの前で恥かいて来たので会いたくないです」
「はは、恥を晒したか。マジでウケるんですけど」
「どんまい、悠仁」
「イケメンの前で恥かけるなんて一生に一度出来るか出来ないかの経験じゃん?良かったね」
「良いわけないだろ。やだわマジで。完全に不審者扱いだよ」
「シチュエーション自体は、完全に少女漫画…」
「………まあ、あたしが不審者扱いされた事に気付いて全力で逃げ出した事以外はね」
「本当に?本当に恋とか始まってない?意外と向こうも満更でもないかもよ?ね、どうなの?イケメンと恋始めないの?」
「おお、圧すっごいな…」
「美々子、最近少女漫画にどハマりしてめっちゃ集めて読んでんだよね…」
「どう言うブーム?」
美々子は目をキラキラさせ、期待している様な瞳で悠仁を見る。その視線を適当にスルーし、悠仁は頭を抱えた。
「鼻は痛ぇしイケメンに不審者扱いされるし、カルピスで蒸しパン食ったしもう本当最悪!」
「最後は別に良いだろ」
「良くないわ!今日ミルクティーの気分だったんだって!カフェイン入れないと!」
「知らんわ。はー、私もイケメンと曲がり角でぶつかって恋始めたいわー。いっけな〜い、遅刻遅刻〜!っつってパン咥えよ」
「菜々子完全に馬鹿にしとるだろ」
「漫画的ラブロマンス…きゅん……」
「美々子〜、戻っといで〜」
『ウケる〜』と馬鹿にしたように笑う菜々子と脳内に少女漫画を溢れさせる美々子。収集の付かないこの状況に悠仁は溜息を吐いてしまった。その時、教室の後方のドアが開いた。普通に開いたならば特筆する事もないが、それはスパーンと大きな音を立てて開いた。あまりにも派手な音が過ぎて教室中の人間が全員そちらを見た。そして思い切りドアを開けた一人の男に悠仁は声を上げた。
「ひ、ひぇ…」
「…何その声」
「…こっち来る…何?喧嘩…?」
「お、やるか?」
「今朝ぶりだな」
可愛い容姿とは裏腹にどこまでも好戦的な双子を完全に無視し、男は悠仁の元へ歩み寄った。気まずそうに目を逸らし、密かに冷や汗を掻く悠仁の事を男はジッと見つめる。
「虎杖悠仁だろ」
「びゃ…」
「俺は伏黒恵」
「アッ…そうすか…」
「今朝の話、聞いてなかっただろ」
「えっ、話…?」
「だから朝した話を端的に伝えに来た」
鋭い目でジッと見つめられ、どんな人に対しても滅多に萎縮しない悠仁が身を縮こませた。値踏みされている様な強い視線に息を呑む。周りの人間も緊張感を持ってこの状況を眺めている中、男──伏黒恵は口を開いた。
「俺とオマエは前世からの運命だ。結婚を前提に交際してくれ」
教室中がシンと静まり返った。何なら廊下ですら静まり返った。その中で叱責か罵倒か、何かされるのかと身構えていた悠仁だけが『は…?』と情けない声を上げた。
「一目惚れじゃない。俺はずっとオマエを探してた。好きだ。幸せにする。付き合ってくれ」
「…え、何?」
「虎杖、可愛い。結婚したい」
「…は、はぇ…?なっ、…んぇぇ…?」
告白された照れよりも、唐突が過ぎて困惑が勝る。何も言わない悠仁に痺れを切らしたのか何なのか、恵は彼女の手を勝手に取り、そして割れ物にでも触る様に優しく触れた。
「好きだ。俺を彼氏にして」
彼氏にしてくれ。そう言い終わる前に恵は突き飛ばされた。その理由は悠仁の隣であげた足を下ろす菜々子が答えであった。
「ア?誰だテメェ、ヤリモクか?悠仁が誘えば来る様な尻軽にでも見えたかよ。ぶっ殺すぞゴミカスコラ」
「は?そんな訳無いだろ。何故そんな事言うんだ。俺は虎杖の事を世界で一番大切に思ってる。虎杖とは前世からの運命なんだよ。今すぐにでも娶りたい」
「その運命とか前世とかって言葉が安っぽくしてるとは思わんのか」
「ヤリモクナンパ男…悠仁に手を出すなら…私…私、絶対に許さないから…吊るす…苦しんで死ね……」
「は?何でそんな話になるんだ」
「オメェが全ての元凶だよバカタレコレェ!」
その声と共に教室へ駆け込んで来たのは一人の女だ。そして次の瞬間、恵の後頭部に綺麗なキックをかました。
「いっ…テメ、釘崎っ!何…」
「何じゃねーわ!全部テメェのせいだよ!見ろこの教室の空気!地獄かここは!」
「は?関係ねぇだろ」
「先走んなって言ってんだよ!オマエ、マジで虎杖の事になるととんでもなくバカになるな!そんな事言われてコロっと落ちる女なんかいねぇよ!オマエのその無駄に整った顔使っても無理だわタコ!本気ならもっと状況考えて誠実にいけや!」
「そうやってモダモダしてる間に虎杖が他の男に取られたらどうすんだ」
「知らねーよバーカ!」
後ろの少女、釘崎野薔薇もどうやら虎杖の事を知っている様だった。しかし誰が誰を知っているかなどどうでも良い。美々子と菜々子はただひたすらに大切な友人の事を守るべく、立ちはだかる。当の悠仁はずっと俯いていた。ジッと黙り込み、胸元でぎゅっと手を握る。
「悠仁?」
「…あっ、………悪い、早急過ぎたか…。こわ、かったよな。ごめん。嫌いにならないで…」
「今気付くか…」
「だめ…」
「ダメ?何がダメ?悠仁、言え。この男の何がダメ?全部?任せろ。私達が殺す」
「だめ…だめ、やだ…今日あたし、寝坊してメイクしてないもん…恥ずかしい…そう言うのはちゃんと、可愛いあたしに言ってほしい、です…」
「えっ…」
「あっ、でも…伏黒くんの事、よく分かんないから…まずはお友達から、で、…お願い、します…………」
「〜ッ!ああ!」
そう呟く悠仁の顔はリンゴよりもトマトよりも赤い。彼女の呟きに双子は思わず脱力した。髪の隙間から見える彼女の表情はあまりにも満更でも無さそうであった。
「……はー、解散」
「…良かったわね伏黒。しょうもねー」
菜々子はやってられないとでも言いたげな顔で手元のコーラをグイと煽る。恵を怒鳴っていた野薔薇も面倒臭そうな表情で教室を出て行った。周りの困惑と歓喜と興奮と、全てがごちゃ混ぜになった最高潮の喧騒をバックに二人は見つめ合う。そんな二人のシーンを最前席で見つめていた美々子は目を輝かせ、ワクワクと言った表情を浮かべた。
「少女漫画…!ロマンス…!わくわく…!…ふふ!」
コメントを残す