アイワナキスユー

目の前には魔女がいた。紫色のドレスに真っ黒なローブを羽織って三角のとんがり帽子を付けた怪しい女が立っていた。見た目も怪しさも、彼女は魔女という他なかった。
「お前に呪いを掛けよう」
「……んっ?」
「端的に言えばお前は一週間後に死ぬ」
「んんん?」
「ので、死なない様に足掻いて欲しい」
「お前誰だよマジで」
見知らぬ女からの理不尽な物言いに、恐怖を通り越して呆れしか生まれない。可哀想なものを見る目を向ける鶴蝶だが、魔女は気にする事なく言葉を続けた。
「解呪の方法はただ一つ。恋しい者とキスをする事」
「頭大丈夫か?」
「精々楽しませてくれ」
そう言ってニタリと笑った女は地面から数センチ、ふわりと浮いた。それを見てしまった鶴蝶はギョッとして一歩距離を取る。しかし女は鶴蝶に覆い被さる様にして、そして気付けば消えていた。消えた瞬間は鶴蝶も目を瞑っていたため、何が何だか分からなかった。
「…は?」
後ろで呆然と言葉を溢したのはイザナだった。コンビニでコーヒーを買っていたイザナだが、彼も遠目で先程の女を見ていたらしく忽然といなくなってしまった事に目を見開いていた。
「鶴蝶、さっきの女…」
「いやいや、何だったんだマジで…幽霊?」
「…お前、それ」
イザナは珍しく困惑を浮かべなら鶴蝶の掌を指差した。彼の右の掌には真っ黒な薔薇の刻印がなされていたのだ。鶴蝶にそんな刺青が入っていた覚えはイザナも鶴蝶本人も無い。この刺青はどう考えてもあるはずのないものだった。
「…なんっだこれ…キッショ……」
普段は言葉を選び、乱暴ではあるものの案外きっちりと話す鶴蝶だが今回ばかりは乱れてしまう事を許して欲しい。イザナも謎の刺青に釘付けで何も言えなかった。それ程までに彼らにとって、今目の前で起こった出来事は想定外だったのである。
集会も喧嘩も無いにも関わらず、呼び出された天竺の男達は少し苛立っていた。俺達も暇じゃねぇし。そう、誰からともなく呟いた。その上、呼び出した本人達が遅いのだ。短気な彼らをイラつかせるには十分であった。
全員が集まって十分程してイザナと鶴蝶が来る。望月辺りが『遅ぇぞ!』と怒鳴るべく立ち上がったが、彼ら二人のどこか神妙な、困惑している様な表情に口を噤んだ。
「…何その顔。何かあったの?」
蘭が耐え切れず聞く。それにイザナは答えた。深刻そうな声をしていた。
「鶴蝶が呪われた」
「………大将もしかして何かスピリチュアル系に騙されてる?」
「ちげぇよぶっ殺すぞ」
イザナに凄まれ、蘭は肩を竦める。訳が分からない一同にイザナと鶴蝶は事のあらましを説明した。しかしそれで分かるはずもなく、一同は首を傾げた。通りすがりの魔女に気まぐれで呪われ、死を回避するために真実の愛のキスで呪いを解くなんて事が現実であってはたまらない。バカな事を言うなと糾弾したいところではあったが、二人がエイプリルフールでも無い日にこんなしょうもない嘘を付く理由が分からなかった。
「…そんな事…えっと…正気か?」
「これを見ろ」
イザナは鶴蝶の右手をガシリと掴み、掌を見せる。そこには真っ黒な薔薇の刺青があった。
「…なんっだこれ…鶴蝶そんな趣味してた?」
「今さっき付けられたばかりだよ」
「……なあ、これさ、花びらが七枚だな」
刺青を見ていた武藤は言った。鶴蝶の右手にある刺青の薔薇は七枚の花びらを持っていた。そして鶴蝶に残された猶予は一週間。何だか冗談だとは笑えない気がして一同に何とも言えない緊張感が走った。
「それで…まあ、嘘でも本当でも好きな奴とキスすれば刺青は取れると見ていいのか?…そんな事ある?」
「鶴蝶の好きな奴って誰?」
「……おい待て!これ俺皆の前で好きな奴バラさなきゃなんねぇの?」
「背に腹は変えられんな」
「それモッチーが言う言葉じゃ無い…」
死ぬか、バラして協力してもらうか。中学二年生、十四歳の思春期少年鶴蝶にとってはあまりにも酷な選択であった。まさに究極のデッドオアアライブである。
「…えっ……ア…俺、……俺の…」
「とりあえず好きってどう言う好きか分かんねぇから大将とキスしてみれば?」
最悪のアドバイスをしたのは蘭だ。彼の顔はニヤついており、この状況を楽しんでいる。愉快犯にとっては完全に他人事だった。そんな事を言われた鶴蝶は流石に困惑の表情を浮かべたし、イザナは物凄く顔を顰めた。
「一理あるな」
「ムーチョお前、それは素で言ってんのか冷やかしかどっちだ?」
「さあ」
「とりあえずやってみろよ〜。これで呪いが解けたら最高だし、何も無くても男とキスしたって事実だけが残るから」
「とんでもなく最悪でウケる」
周りは既に期待してしまっている様で灰谷を中心に『キース!』と囃し立ててくる。非常に最悪な状況だった。完全アウェーの中心に立たされたイザナは鶴蝶の胸を思い切りど突く。
「早く言え馬鹿が」
「はっ…?い、いや……いや…」
「早く!俺はテメェとキスなんざしたくねーんだよ!」
「…………っだから!俺の!好きな女はっ!花垣武道だって!」
「それはそうといっぺんキスしてみて」
そう言って鶴蝶はイザナの方向へ強く突き飛ばされ、唇同士が触れた瞬間、イザナによって張り飛ばされる。勢いよく後ろに倒れた鶴蝶。見えたのは大きな声で笑い転げる主犯格の蘭とその他大勢の姿であった。
イザナにボコられ、顔を腫らす蘭を竜胆は可哀想な物を見るように見つめていた。彼もとい彼らのせいでイザナの機嫌は地を這っている。鶴蝶も青い顔をして唇を触り続けているし、最早地獄であった。呪いも結局解ける事はなかったため、あの時間の何もかもが無駄だった。
「それで鶴蝶の好きな女はあの花垣武道なんだな」
「………だから何だよ」
「東卍の女の事が好きなんだね〜」
「…何だよ!タケミチの事が大好きで悪ぃかよ!」
「何も言ってねぇだろ。ムキになんなって」
真っ赤な顔をして黙る少年の頭を望月がポンと叩けば、手を払われてしまった。ほぼ全員直接的な接点は無いが彼の想い人である花垣武道の顔は思い浮かんでいた。その中でほんの少しだけ接点のある武藤は気まずそうな顔をしていたし、三途はうんざりした様な表情を見せていた。
「鶴蝶は花垣とキスすべきなのか」
「もう直球で誘っちゃえば?キスしてくださいって」
「はぁ?バッ…馬鹿じゃねぇの!そ、それで嫌われたら俺どうすんだよ!」
「じゃあ鶴蝶は何が知りたいの?」
「…………………嫌われずに、キスを誘う方法」
「ねーよンなモンはよ!」
「無くてもなんか出してくれねぇと俺死ぬって!おっ、女の子の誘い方なんか俺…童貞、だから分かんねぇし!」
「まー、鶴蝶が既に女と関係があるって言われたら俺ひっくり返っちゃう」
「お前はもう二年くらい童貞でいていいよ」
「馬鹿にされてる?」
鶴蝶は不服そうに眉を顰めるも灰谷兄弟は大して相手にせず、彼の坊主頭を撫で回した。何もしなければ一週間後に死ぬ運命にある鶴蝶がいると言うのに緊張感も何も無い。
「イザナとしたみたいに事故装えば?」
「事故じゃねぇよあんなん陰謀だろ!テメェふざけんな!誰が好き好んで野朗とキスなんか!」
「俺達が背中押してやろうか?」
「勘弁して…」
「一回デート誘ってその流れに持ち込めば良いだろ?」
「お前っ!獅音テメェ!童貞の鶴蝶がそんな事出来ると思ってんのか!」
「馬鹿にされてる…」
「じゃあもう強引に行け。雑にキスしとけ」
「もっと無理じゃん」
それくらい出来ると啖呵を切りたいところだが、実際出来ない事に変わりない。目を逸らし、苦虫を噛んだ様な顔をした。
「…なぁ…」
「ムーチョどうした」
「普通に理由を話せば花垣はキスしてくれるんじゃないか?」
「信じる保証は?」
「今の薔薇の写真を撮っておいて、もし花びらが一枚減っていたらそれが証拠になるだろ」
「確かに」
誰もが失念していた。普通に話せば彼女なら取り合ってくれそうだ。信じないにしても頼み込めば一つ、してくれそうな簡単さもある。一同が『確かに…』と黙る中、鶴蝶は更に顔を真っ赤にした。
「まあ、何にせよ結局の所、お前が言えるかどうかだよ鶴蝶。人にキスしてやってくれって言われるのは違うだろ」
「…そう、だな…」
「今回に関してはお前の命も掛かってるし役得だなくらいであまり重く捉えるな」
武藤の励ましに鶴蝶は重々しく頷く。右手に咲く薔薇の花びらの一枚が少しだけ薄くなっていた。

掌の薔薇はやはり変化していた。花びらは一枚消えており、残り六枚となっていた。きっとこれは鶴蝶に残された時間なのだろう。何だか右手がズシリと重たくなった気がした。
あの後、主に灰谷兄弟にせっつかれ、早急に花垣へ連絡した鶴蝶だが、彼女から貰った返答は了承であった。あまり学校に出席していない鶴蝶は兎も角、彼女の学校はどうやら休みらしい。『顔を見て話したい事があるから来てくれ』なんて曖昧なメールにも随分と早い返答だったので信頼されている事を誇るべきか、男として警戒されていない事を悔やむべきか鶴蝶には分からなかった。
鶴蝶は待ち合わせ場所の駅前でソワソワしている。足は自然と揺れ、貧乏揺すりを繰り返した。まだ姿も見えていないのに心臓はバクバクと大きな音を立てる。今回彼女を呼び立てたのだって単純に遊びに誘った訳ではない。デートでもない。何なら告白ですらない。全てをすっ飛ばしてキスをするために誘ったのだ。緊張しない訳がない。
彼はグッと手を握った。両手とも手汗でびちょびちょになっている。鶴蝶は落ち着くために深呼吸をした。
「カクちゃーん!」
大きくはっきりとした声がして顔を上げた。武道は片手を上げ、走って来る。彼女に応える様に口角を上げて笑ってみせた鶴蝶だが、あまり上手く笑えていないようにも思う。ぎこちない笑顔で武道に応える男に彼女は笑い掛けた。
「どうしたの?私に用事なんて珍しいね」
「あっ…えっと…少し、話したい事があって…人気のない所へ行きたい」
「人気のない所…?うーん…」
じゃああそこへ行こうか。そう言って武道は鶴蝶に微笑みかける。挙動不審で立ち止まったままの男に『おいでよ』と声を掛け、その大きな手に触れた。心臓はドクドクと大きな音を立てた。
二人が来たのは武蔵野神社の境内だった。道すがら、普段はここで東卍の集会をしていると聞いて鶴蝶は身構えた。しかし昼間は皆、各々好きに過ごしており、神社に来る事は殆ど無いと知り、肩の力を抜いたのだった。そして特に平日は参拝客がいないらしい。武道は『木がいっぱいで日陰があって涼しいんだよ』なんて呑気な事を言った。けれど鶴蝶はそんな他愛の無い言葉ですら、一際大きな心音と煩悩と不安と興奮の入り混じる混乱した頭のせいで聞こえずにいた。
「それで?話って何?」
「…あ…えっと……」
鶴蝶は喉を鳴らした。いざ言おうと心を決めるも緊張で上手く声が出ない。呼び出しておいて何も言わない鶴蝶にイラつきを覚えてもおかしくはないが、武道は優しい顔をして彼の言葉をじっと待った。
「その…」
「そんなに話し辛い事?」
「……わ、悪い…」
「良いよ良いよ。ゆっくりで良いから。カクちゃんが話してくれるの私は待ってる」
心臓は煩く鳴っていた。はち切れてしまいそうな程、伸縮していて頭に血が昇っていく。何だかぼうっとしてしまって鶴蝶はゆっくりと深呼吸をした。
「…あのな」
「うん」
「まず写真を、見てほしくて」
昨日撮っておいた写真と自身の掌を彼女に見せる。そしてボソボソと先日の事を説明し始めた。
「三角のとんがり帽子を被った女が俺に呪いを掛けたんだ」
「の、呪い…?」
「一週間以内にある事をしないと死んでしまう呪い」
「死…え…」
「多分この刺青は俺の命に残された時間なんだと思う」
「カクちゃんに…残された時間…」
「俺だって信じたくねぇけど、一日経って花弁が一枚減ってんだ。…冗談じゃすまねぇ様な気がするんだ。…すまないタケミチ。いきなりこんな事言われても分かんねーよな」
案の定武道は目を丸くして驚いていたし、まるで絵空事の様な話を信じられない様で戸惑いを浮かべ、目を泳がせていた。話し終えて武道を見ると小さく唸り声を上げて口を開いた。
「…ご、ごめん…ちょっと分かんなくて…」
「そりゃ…そう、だよな……でも、嘘じゃなくて…」
「…カクちゃんは昔から嘘が下手くそだから、……余計に訳分かんなくて…ごめんね」
眉を下げて笑う彼女から目を逸らす。言わなければならない言葉を頭で反芻し、その度に緊張して薄く呼吸をする。拳を握って体全体に力を入れ、『だから』と言葉を続ける。
「だから……俺と、俺が死なないために…キスをしてほしい」
武道は再び目を丸くした。彼女は掠れた声で『え…?』と声を上げ、鶴蝶を凝視した。
「の、呪いを解く方法が、き、キス…?」
恥ずかしさで言葉が出ず、鶴蝶はコクリと頷くのみだった。武道は忙しなく目を動かし、思案する。そして言葉を選び、探る様に声を出した。
「…それは、私じゃなくても良いんじゃ……」
「…えっと…」
「だって、カクちゃんの周りにはいっぱい人がいるでしょ。別にどんな人とどこにしろって指定は貰ってないならその…黒川イザナでも良いんじゃ…」
もう一度してしまったとは言いたくない。そんな事実は隠したまま、鶴蝶は首を振った。
「ダメなんだ…」
「…じゃあ質問を変える。どうして私なの?…カクちゃんにとって、私は簡単にキスしてくれる様なチョロい女に見えてるの?」
正直、天竺の面々は彼女の事をそんな女だと捉えていたけれど。わざわざ言葉にする事でもないのでスルーした。鶴蝶は目を伏せ、謝る。
「…ごめん。隠し事をした」
「隠し事?」
「……キスをするのは、俺の好きな人じゃないといけないらしい。イザナはダメなんだ。敬愛とか、そう言うのじゃなくて、…だから、愛とか恋とかの話で…」
尻すぼんでいく彼の言葉に武道は瞬きをした。鶴蝶が言わんとしている言葉を察して頬を染める。
「…っ要するに、俺が恋をしているのはタケミチだから、俺の呪いを解けるのは、…っお前しかいないんだ」
「…それって」
「…………タケミチの事が、好き、なんだよ…」
こんな形で知られたくなかった。伝えるかどうかすら迷っていた言葉を伝えられたと言えば聞こえはいいが、そんな綺麗な話ではない。ただ自身の保身のために、鶴蝶の感情と彼女を利用しただけにすぎない。言った側から鶴蝶は後悔した。言わなきゃ良かった。伝えなきゃ良かった。勝手に死ねば良かったんだ。心の内に轟々と押し寄せる後悔の大波に溺れそうになる鶴蝶を引き上げたのは武道だった。彼女は力無く垂れ下がる彼の手に触れる。
「分かったよ」
「タケミチ…」
「良いよ。カクちゃんが死ぬのは困るもん」
こんな話、確かに駅前じゃ話せないね。困った様に武道ははにかんだ。彼女の了承の言葉を噛み砕き、自覚していくにつれて変な汗が湧き出てくる。またも心臓が大きく音を立て始めた。その心音には戸惑いと共に興奮が入り混じっていた。
「私、初めてだからお手柔らかにね」
「えっ…あ、ごっ、ごめん…ファーストキス」
「カクちゃんに奪われるなら後悔なんて無いよ」
ゆっくりと瞬きをする。彼女は視線を上げた。周りはやけに静かだった。武道の声がひどく響く。
「私は、ファーストキスがカクちゃんで嬉しいんだよ。それにこのキスを君との最初で最後のキスにするつもりはないから。…意味、分かるかな」
分からない訳がなかった。喜と楽の感情が最大限まで引き上がり、昂っている。そのせいで頭が真っ白になってしまった鶴蝶は焦った様に『よろしくお願いします!』と声を上げた。突然の言葉に武道は吹き出してしまって少しだけ場が和む。そうしてお互いに一歩ずつ距離を詰めた二人はそよぐ風の中で静かに顔を近付けた。

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