ドアをノックする優しい音が聞こえて虎杖はベッドから腰を下ろした。重い身体に鞭を打ってドアまで歩く。木製の床は大きく軋んだ。
「虎杖」
ドアの向こうには伏黒が立っていてこちらを見ている。目の色は暗く、底が見えない。虎杖は一歩後ずさって口元を歪めた。
「おはよ」
「おはよう虎杖。」
制服は着ていないはずなのにそれでも伏黒の全身は真っ黒だ。そして虎杖は未だに皺の寄った寝巻きのTシャツとズボンを履いている。だらしの無い格好にも伏黒は何も言わなかった。
「虎杖、どこか行こう。」
そう、虎杖の目を真っ直ぐと見つめて伏黒は言った。その視線を受け止め切れずに静かに目を逸らした虎杖は引き攣った笑顔で頬を掻く。
「…ごめん、俺、眠くて」
「虎杖」
「身体重くて」
「…ずっと部屋なんかにいたら息が詰まる。どこか行こう。」
虎杖はやんわりと断ろうとした。それでも伏黒は彼の手首を掴んで『行こう』と誘い続ける。
「どこでもいい。海なんてどうだ?冬は静かでいいと思う。今なんか電車で簡単に江ノ島まで行けるんだ。」
「いや、俺はいい。」
「駄目だ虎杖。ここは空気の通りが悪い。少し外に出てちゃんと息を吸おう。」
「…出来るよ、息。」
「虎杖、…俺達は沢山の人間を救えなかったけれど、それでもしっかりと羽を伸ばして息を吸う権利くらいはあると思うんだ。だから、行こう。」
どうしたって伏黒は引き下がってはくれない。おそらくテコでも動かなさそうな目の前の真っ黒い男に虎杖は目を伏せる。仕方なさそうな顔をして、ゆっくりと頷いた。
「…いいよ。」
「おう。待ってるから、着替えて…財布とスマホとICカードだけ入れて来い。」
「うん。」
虎杖がゆっくりと慎重に頷いてから初めて伏黒は満足そうな顔をしてその場を去った。虎杖は閉まったドアの前で呆然と立ち尽くしていたが、すぐさまおずおずとクローゼットの方へ歩いていく。鼻からは大きな溜息が抜けていった。
「あるわけないだろ、安らぐ権利なんて」
目の下の目玉はギョロリと虎杖を観察し、頬から浮かぶ口は精一杯のニヤケ顔で下劣な笑い声を上げている。頭が痛かった。脳内を埋め尽くす笑い声で目眩がした。眠りたかった。その時だけは何もかも忘れられる気がして、虎杖は目を瞑りたがる。それでもどうしてだか眠れずに気付けば夜が更けて朝日が昇っていた。
「ケヒ…オマエはどうして生きているんだ小僧!どうして死なん!疫病神が!人殺しの偽善者が!ケヒヒ」
「そうだな。」
「伏黒恵も粋な事よ!餓鬼の身勝手なエゴが、押し付けの思いやりが小僧の首を柔らかく絞める!真綿で首を絞められる感覚はどうだ小僧!最高であろう!!」
伏黒はただ生きて欲しかった。虎杖悠仁が大量虐殺をしたと言う事実を聞いて尚、彼を信じ、そう願った。目が覚めて最初に見た曇りきった虎杖の顔が忘れられない。それは伏黒にとって虎杖は悪くないのだと確信させる物ではあった。
ハロウィンで騒いでニュースになって、世間を騒がせる様な馬鹿な大人よりも虎杖の方がよっぽど命の価値がある。そう思っていた。そしてやたらと甲斐甲斐しく虎杖の世話をするのは虎杖の咎を共に背負い、共犯者になれなかった事を悔やんでの虎杖への贖罪だった。
虎杖はただ死にたかった。彼はひたすらに前の大量虐殺は自分のせいだと全ての咎を一身に背負う。それでも虎杖が死ななかったのは十本を越える指を飲み込んだ今、全てを取り込ませて殺した方が良いとの判断が下されたからである。五条がいないにも関わらず、虎杖の死刑は無慈悲にも先延ばしにされた。
死のうとはしなかった。指を食べて宿儺と死ぬ事が自分の果たすべき事であると自覚していたからだ。自傷はしない。しかし彼の思考の鱗片には死ねたなら良いのにと言う願望が見え隠れしていた。ある日突然心臓が動かなくなってそのまま死ねれば良いのに。部屋の中が水で溢れて死ねれば良いのに。五条悟がひょっこりと戻って来て、殺してくれれば良いのに。吐き出したい程に重たい咎を一人で背負った虎杖は、その重さに耐え切れずに思考を放棄する。目は虚ろだった。
善意と贖罪で虎杖を守る伏黒と死にたい虎杖。呪術師のエゴは善人の首を確かに真綿で巻いて絞め続けていた。上の取り決めに安堵する友人と先輩。自分の周りは自分の生を願う者ばかり。それは一向に死ねない生き地獄。
宿儺は満足そうに高笑いをした。