ばつげーむ

惰性でインスタを眺めていると背中に重さを感じる。ふわふわと手触りの良い部屋着を着た氷織が、ソファーで寛ぐ彼女の背中から腕を回して優しく抱き締めていた。
「出た〜、怪人ジェラピケ」
「なんやの、それ」
「私より女子力のある恰好しやがって」
「だからお揃いで買おうかって僕言うたやんか」
「それは浮かれすぎだから嫌〜ばかっぽい」
「何を言うてんの」
氷織の硬い手がふにふにと潔の頬を弄る。やめてほしくて潔は氷織の手に自分の手を重ねた。薄らと骨格の浮き出た角ばった手に触れていると、端正というか可愛らしい顔立ちの彼も確かに男性なのだと改めて気付かされてしまい、少しだけ気恥ずかしさを覚えた。
頬を揉みしだく手を止めて一度ぎゅうと彼女を抱き締める。ビクンと身体を揺らした潔を見てクスクスと笑いつつ、ソファーの背もたれを跨いで隣に座った。
「隣失礼するわ〜」
「失礼されまーす」
「世一ちゃん、僕の事構ってええよ」
「ゲームはもう良いの?」
「満足したからもうええねん。ほら、はよ甘やかして」
構って良いよなんて上から目線で言ってくるくせに、潔が『うん』だの『すん』だのと返事をする前に抱き着いてくる。そんな男の頬を軽く抓れば、きっと大して痛くもないのに『痛ぁ』とわざとらしく声を上げた。
「いけずやわぁ。きみのボーイフレンドがこんなに可愛く言ってんのに抓るなんて。とんだ悪い子やな」
「私の事、いつも構ってほしい時にゲームしてて構ってくんないくせに自分ばっか!あんま都合の良い事ばっかしないで!悪い子は氷織!」
「あ、世一ちゃんアウト」
肩口に顔を埋めていた氷織は顔を上げてニヤリと笑った。ギュッと彼女の肩を抱き、耳元に唇を寄せる。
「僕の下の名前言うてみ?」
「……羊、サン」
「さんは要らんなぁ、よっちゃん」
「よっちゃんやめろ」
「同棲するにあたって二人で決めたやんか、良い加減下の名前で呼び合おて」
「いや、なんか露骨なカップル感は恥ずかしいって言うか…慣れないって。男の人の事あんま下の名前で呼ばないもん…」
「なんや。自分、玲王だの凛だの馴れ馴れしく呼んでるくせして。どないな基準で名前呼びしとんねん」
「それは、……うーん」
どう言う基準でと問われれば、どうにも答えられない。いちいち呼び方を考えて人の事を呼んだりはしないので、潔は答えに困ってしまった。氷織は腕の中で首を捻る彼女の頬をツンツンと突き、ムッと頬を膨らませていじらしく拗ねた。
「僕の事は氷織なのに他の男の事は名前呼びて、浮気されてるみたいでめっちゃショックやわぁ」
「…やな事言う…めんどくさ…」
「とりあえずまずは罰ゲームしよか」
「出た…めんどくさ…」
「めんどくさ男でごめんなぁ。堪忍やで〜」
全く反省した様子のない軽い謝罪。それに少しだけイラッとしつつも、二人で決めたルールを破ったのは潔である。面倒だと口にしつつも、彼女も半ば受け入れる体制ではあった。
「世一ちゃんからキスしてな〜。無論、ここにやで?」
トントンと指で示すのは自身の唇である。一瞬、露骨に顔を顰めた潔は小さく息を吐いた。
「やな罰ゲーム。なんか明日の料理担当は私とかそう言うのにしないの?」
「おもんないやろ流石に。これがいやならインスタに惚気ポエム投稿してもらうで」
「何だよそのエンタメに振り切った罰ゲーム。芸人か」
「関西の血が疼いて堪らんわ。あかんな」
「エンタメ全振りは大阪人だけじゃね?」
こっ恥ずかしいお惚気全開ポエムを投稿するや否や、きっと気でも触れたかと友人達から連絡が届くだろう。それを想像するだけで何だか恥ずかしくなって、背筋がゾワゾワとしてしまうのだ。
潔は基本的な性質は奥ゆかしい大和撫子なので、それなりにシャイである。恋愛に対しては割と受動的で自分からキスなんて慣れる程した事が無いため、正直な所、あまり簡単なクエストではない事は確かだ。
「何回もやっとるやろ。良い加減慣れてや」
「…つか氷織の顔綺麗すぎてビビるし。まつ毛長…吉沢亮かよ」
「おおきにな〜。でも今のでキスは二回分やからよろしゅう」
「あっ」
見事に墓穴を掘った潔を、氷織は笑った。少し抜けているところも彼女の愛嬌で、ある意味では長所なのだと氷織も思っていた。『あほでかわええわ』なんて心の中で鼻の下を伸ばしながら、彼はグイと潔に顔を近付ける。
「僕はいつでも準備オッケーやで」
「目瞑ってて」
「えー、じゃあ動画回しててええ?世一ちゃんがキスしてくれるとこ見たいわ、僕」
「やったら許さない。破局も辞さない」
「じゃあ黙って目ぇ瞑っとくわ」
氷織はキュッと目を閉じる。つけまつげもしていないのに十分すぎるくらいの長いまつ毛、まさに氷の様に透明感のある白い肌。まじまじと見つめれば見つめるほど彼の顔は美しくて、潔の口からは『うわぁ』と思わず声が漏れた。この彫刻の様な完成度の男と今からキスをすると言う状況は、やはりどれだけ数をこなしたとて慣れる事はない。
静かに息を吸い、静かに息を吐いた潔はやっと意を決する。『いくね』とわざわざ宣言をしてそろそろと顔を近付けた。
固く目を閉じ、氷織の唇に唇を押し当てただけの子供騙しの様なキス。それが一回目である。どこか物足りなさに駆られて氷織は思わず『なんやねん』と言葉を溢す。彼の文句に『うるさい、黙ってろ』と強気な返答をした潔はもう一度、彼に唇を合わせた。
それでもキスは変わらず、子供の様な幼いもので。『ほんまにかわええ子やわ』と僅かに微笑み、氷織は潔の唇を舌でペロリと舐めてやった。それに非常に驚いた潔は勢いよく氷織から離れた。
「なにっ!?」
「小鳥さんみたいなキスするやん。中学生の方が多分大人やで。僕の女の子はほんまかわいらしなぁ」
「…バカにしてる…この野郎……」
「そんで、僕の名前は?なんて呼ぶん?」
少しだけ間を空ける。それから潔は小さく口を開けてポソリと呟いた。
「羊、…くん」
「僕も呼び捨てにされたいわぁ」
「…よっちゃん」
「確かに僕もよっちゃんやね」
「羊、くんも私の事ちゃん付けで呼んでるから呼ばない。だめ」
「よいち」
チョコの様にどろりと溶けた甘い声に全身を震わせる。顔を上げてパッと氷織を見れば、彼はいつもと変わらぬ優しい顔でニコニコと笑っていた。
「世一ちゃんの事世一ちゃんって呼ぶのが何だか可愛くて言うてただけやから僕はいつでも呼び捨て出来るで?」
「うぅ…」
「どないしよか、よいち?」
顔を真っ赤にした世一は氷織の顔をグイと押し退ける。ムッと頬を膨らませ、明らかに羞恥を滲ませた顔で言った。
「もう構ってあげない」
「………やば、ちょっと揶揄いすぎたかも」
「ゲームしてろよ、もう」
「え、ごめん。もう意地悪せんから許して?」
「私は優しい人と付き合いたいので、意地悪な人とは話したくないです」
「今からうんと優しくなるからさぁ、な?」
氷織が何を言っても彼女はそっぽを向いたまま。まるで猫みたいに鼻先をつんとさせて、不機嫌そうに眉を顰めている。
氷織が若干調子に乗った事で潔の機嫌を損ねたので、最早自業自得と言っても過言ではない。本当は死ぬほど構ってもらうつもりで思う存分甘えようと思っていた氷織だがその予定も全て崩れ去り、その日はずっと彼女の気を引いて機嫌を取る羽目になったのだった。

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