ちょいちょいと手招きをされ、氷織に呼び止められる。潔は彼の呼び声に踵を返すと、氷織の手が首元に伸びてきた。
「襟、変な事になってるよ」
くるりと内側に折れ込む襟を優しく直す。ご丁寧に制服のリボンの曲がりまで正して、氷織は手を引いた。
「うん、これでええよ」
「あ、ありがとう氷織」
「ふふ、ええよ」
氷織はにこやかに笑って大丈夫だと手を振った。やっぱり氷織は優しいなぁなんて潔は思ったのだけれど。変わらず優しげな顔で彼は言葉を続けた。
「潔さん、ほんまかわええわぁ」
素直で穏やかな言葉は正しく耳に届き。潔は動きを止める。本来は普通に照れるべきなのに、その感情を削ぎ落とすのは何を隠そう、そのはんなりさだった。
「……?あ、りがと、う?…?」
「…?」
疑問系のお礼と、不可解そうな潔の反応に。氷織も思わず首を傾げる。彼女にとって氷織の言葉遣いは、真意を読み解くには難解だった。
「…氷織が何言ってんのかわかんない」
「は?お前日本語出来ないん?」
「じゃあ今喋ってる言葉なんだよ」
「お前の母語やん」
「そりゃそうだろ」
漫才の様なやり取りに、聞き耳を立てる周囲は少し笑う。隣で堂々と聞いている乙夜に限っては、直接『え、漫才してんの?』と野次を飛ばしていた。
「だから、氷織の言ってる事が私には難しくて…!」
「IQが離れすぎてると会話が難しいとか言うから、あんま気にせんほうがええぞ、凡。埋まらんものはある」
「お前ナメてんだろ…そうじゃなくて、だから、京言葉って意味が分かりづらいよなって」
「氷織の?あー、なんやねん、そやったら先言えや」
「言った!」
大声を上げると烏は大きな口をパカリと開いてケタケタと楽しそうに笑う。何だか少し疲れた様な気分になりつつも、話を進める。
「本心なのか、皮肉なのか、嫌味なのか、分かんないなーって事がよくあるから、同じ関西弁の烏に聞いてみようかなって」
「俺が使う大阪弁と京言葉はちゃうぞ。専門外や」
「可愛いって言うのは京都で言うとなに?」
「聞けや話を。…場合って言うか、状況によるやろ」
「私の服直して可愛いって言うのは?鈍臭くて可愛いねって意味?」
「可能性はあるんやないの」
「え、ええ〜!私氷織に鈍臭いって思われてるの!?」
「知らん」
突き付けられた考察にショックを受ける。それからさらに『じゃあじゃあ』と言葉を続けた。
「サッカーの事話して楽しそうやね、何よりやわって言われるのは?」
「うざいんとちゃう?」
「氷織に荷物運び手伝ってもらった時にこんなもの持ってるなんて頑張り屋さんやなぁって言うのは、なに?」
「荷物の重量によってもちゃうやろ。軽ければこんなん自分で運べって意味かもしれへんし、非力で何も出来へんなぁって意味かもしれんし」
「なんか渡した時に言われるおおきには?」
「それは普通にありがとうやろ」
何もかもが疑心暗鬼になって、おそらくそんな意味はなさそうな言葉まで聞く。聞けば聞くほど混乱する彼女に、烏は呆れた様な溜息を吐いた。
「分からんかったらもう本人に聞けばええんとちゃう?どう言う意味やねんって」
「聞いたら余計分からなくなりそう」
「あ、ひおりん」
傍らでやり取りを聞いていた乙夜が指をさす。指の先はふらりとここに立ち寄った氷織をさしていて。そんな注目に気付いた氷織は潔達の元へ駆け寄った。
「なに?僕に何か用?」
「…まあ、いたからいたって言うただけやけど」
潔に少し気を遣って、烏は先ほどまで話していた話題は伏せる。そんな彼を氷織はじっとりと見つめて、眉を顰めた。
「なんや、人を珍獣みたいに。ほんまに烏くんはおもろい事言わはるねぇ」
「…これや、凡」
優しい言葉遣いで、でもどこか棘のある。京都らしさを目の当たりにし、潔は小さく歓声を上げた。烏は少し傷付けられた。
「潔さん、烏と喋んの珍しなぁ」
「え、そうでもない、と思うよ?一応私、絵心さんの現場補助として動いてるスタッフではあるし、割とみんなと話してると思う」
「えー」
「そりゃ潔かてお前ばっかと話してるわけやないやろ」
「んー、…なんか、寂しいわぁ。それはそうやなとは思うけどねぇ」
氷織の言葉に潔は瞬きをして、烏を見る。烏は面倒臭そうに息を吐く。
「今のは?」
「普通に捉えろ。何の皮肉もなかったやろ。…とはいえ」
「ん?」
「烏とばかりえらい楽しそうで、妬けるわ。僕の事忘れんで、お話ししよ?」
「い、今のは?」
「……いや」
潔が気付いているのか、それは分からないけれど。烏は確かに気付いた。何となく彼の真意を察した。おそらく氷織はあまり皮肉も嫌味も言っていない。
そりゃあ多少は含まれているかもしれないけれど。潔を見る時の嬉しそうな視線が、とても悪意や敵意があるとは思えなかったのだ。
(好きなんやろなぁ〜)
常に優しい目をした男が、潔にだけ更に優しくなって雰囲気が甘くなるのは多分。隣に座る乙夜も何となく察したみたいで、『あー』と声を上げていた。
だが潔はあまり察していない様で。下心を持った男の隣で言葉に右往左往しながら、困り果てる様はとても無防備で。アイツって鈍いし馬鹿なのかなと頭の中で暴言を吐いてしまうほどである。
「相手は明け透けやのに」
「ね〜、思う〜」
「…えらい熱心に僕を見て、なんや、恥ずかしいわぁ。余裕があってええねぇ」
「ま、アイツもこの状況を楽しんでるうちは、放っておいてええやろ。潔がお間抜けの凡でよかったな」
「は?何で今ディスられたの?」
氷織に翻弄されて眉を下げる潔は烏を睨みつけ、頬を膨らませる。そんな彼女らをニヤニヤと楽しそうに笑う烏と乙夜。プリプリと怒る潔の後ろで、氷織は立ったまま。二人からの指摘が恥ずかしくて、分かりやすく顔を赤くしていたけれど。それに潔が気付く事はないので、事態は進展しないままである。