『相棒!直ちに!大至急!来て!』
「え、えぇ、何?」
『助けてくれ!相棒!』
電話越しに聞こえる千冬の大声に武道は目を丸くした。しかしその声音が冗談でも何でもなく、本気で切羽詰まっているようで彼はザッと立ち上がる。
「い、今行ってやるから待ってろ!」
『来てくれ!相棒!俺ん家!』
千冬の絶叫を耳に、武道は通話を切る。そして床に放り投げられたアウターを手に取り、足早に自室を出たのだった。
息を弾ませながらやって来たのは千冬のアパート。チャイムを鳴らせば、遠くから『鍵開いてる!』と彼の大きな声が聞こえる。ノブを捻れば確かにドアは開いた。少し不用心ではないかと心配になりつつも、『お邪魔します』と呟いて遠慮なく中へ入る。そして迷う事なく千冬の部屋の前に着き、一言声を掛ける。
「千冬平気かー?入るぞ?」
「…おー」
どこか警戒した様な彼の声に首を傾げ、武道は部屋のドアを開ける。ギィと音を立てて開いたドアの向こうにあるのは見慣れた友人の部屋と、それから。
”それ”を見て武道は目を丸くした。息を止めた。その身を凍らせ、彼が黙って凝視しているものは紛れもなく松野千冬のはずだった。しかし。
「……まあ、気持ちは分かるよ」
バツが悪そうに目を逸らした千冬の耳には尖った耳が、尻にはふわふわの尻尾が生えている。夢か幻かと瞬きをするもそれらは消えずに絶えず動いていた。その様子に武道は乾燥してカラカラな喉から声を絞り出す。
「な、な、何事…?」
「俺にも分かんねぇよ!助けて相棒!」
「何を?」
武道にはどうしようもない、訳の分からない現実。その真ん中で助けてと手を伸ばす千冬に、思わずマジレスしてしまう事をどうか許してほしい。
「まあ、座れよ。な?」
「…おう」
ピクピクと動く耳を怪訝そうに見つめながら武道は床に腰を下ろす。見れば見るほど訳の分からないそれに彼は更に眉を顰めた。
「何これ?どう言う仕込み?」
「何が?」
「何かそう言う最新鋭のコスプレグッズ、ドンキか何かで買ったんか?」
「買ってねぇよ。朝起きたら生えてたんだわ」
「人間って朝起きたら動物の耳生えてくる生き物だっけ」
「調べてみたけどそうじゃないらしい」
「調べる間も無く当たり前でしょうが。もしかして人間素人?」
千冬はうるせぇと武道の耳を抓る。不機嫌そうに目を細め、溜息を吐いた。
「どうすれば良いと思う?相棒」
「何で俺に聞くの?知らんけど?」
「だってお前、タイムリープ出来るしこう言う事も分かるかなって」
「ねぇだろうがよ、んなもん。獣耳とタイムリープの因果関係って何だよ」
随分と無茶苦茶な千冬の物言いに流石の武道も呆れ顔である。千冬は困った様子で眉を下げ、彼をじっと見つめた。
「相棒しかいないんだよ〜、頼れんの。こんなの親には言えねぇだろ?じゃあ相棒しかいないじゃん」
「どうしてそうなる?」
「ほら、ペケも怖がってこっち来てくれねぇし!」
千冬の指差した方向へ顔を向ければ、そこに黒猫はいた。千冬の飼い猫は突然獣臭を携え始めた飼い主にビビり散らし、部屋の隅っこで小さく収まっていた。その様子はあまりにも可哀想で武道も眉を下げる。
「か、可哀想…」
「ペケ〜、怖くねぇよ〜」
千冬の声にピクンと反応を示すも、その場から動こうとはしない。駆け寄る代わりに小さくか細い声で『にゃん…』と鳴き、じっとりと値踏みする様に彼を眺めている。その光景はあまりにも可哀想で心が痛んだ。
「せめて解決方法一緒に考えてくれよ」
「無茶言うなよ…」
頭を抱えた武道だったが、ふと顔を上げて千冬に近付く。そして何を思ったか、尻に付いたふさふさとした尻尾を思い切り引っ張った。
「いっ、いてててててて!何?何してんだお前!」
「いや、取れるかなと思って」
「簡単に取れねぇから相棒を呼んだんだろうが!」
「手触り良いな。ふわふわ」
「楽しむな」
にぎにぎと千冬の尻尾の感触を楽しむ。肌触りの良い毛が手の平に擦れて擽ったい。突然獣の耳や尻尾が生えてきただとか、そんな超常現象の不可解さや不気味さなど忘れて武道は無邪気に楽しんでいる。そんな彼から照れ臭そうに顔を逸らした千冬だが、クンと鼻を動かした時、違和感に固まった。
何だか良い匂いがする。とても美味しそうな、欲情の匂い。それは武道から香った。彼の全身から滲み出る芳醇で甘ったるい匂い。それは千冬の鼻に入り、全身へと行き渡る。フツフツと体中の血が沸る様な心地がした。
ダメだと思った時にはもう遅い。千冬は尻尾で遊ぶ武道の手を掴み、床へ倒す。両手首をぎゅっと握って固定し、腹の上へのし掛かってやれば武道の動きは簡単に封じる事が出来た。千冬の突然の行動に、彼は顔を顰める。
「千冬?なあ、お前何してんの?」
「……わかんねぇ、だめだ、やばい」
「は?何が?つか顔赤いよ?大丈夫?」
「だめだ、だめだ。おかしくなる」
「千冬?本当どうした?何があった?具合悪……悪………えっ、ちょ、待っ、おま、った、勃っ…」
腹に感じる男特有の質量と熱に冷や汗をかいた。只事じゃないと察した武道は動揺で上手く回らない頭を精一杯使って呼び掛ける言葉を考える。どうしてだか昂っている千冬を冷静にする言葉は、この熱を冷ます言葉は何だろうか。武道は思案した。
「相棒、やばいんだよ、…俺、なんか相棒の事嗅いでると興奮して、おっ勃てちまって、意中のメスに興奮するただの獣になっちまう」
「ちょ、擦り付けんなっ、俺は、メスじゃねぇって!」
「相棒、武道、な、な?良いよな、おれ、もう我慢できない」
「は?千冬?相棒?おい、ちょっと!」
「ヤりたい、シたい、交尾、セックス、性交渉、全部、余す事なく、な?相棒」
「お、おまっ」
「可愛い俺の相棒、俺のメス、お前といるとおかしくなる。武道、ほら、大丈夫だから」
「なあ、千冬っ」
「優しくは出来ないけど、沢山愛する事は出来るから、それで許してくれ」
千冬は大きな口を開け、キスをしようと顔を近付ける。静止の言葉を述べ、暴れる武道の口に齧り付くものの数秒前だった。勢いよく頭を上げた武道は千冬の額に自分の額をぶつけ、派手な音を立てて頭突きをした。突然の脆い痛みに千冬は拘束していた手を緩める。その隙に千冬の手を振り解いた武道は間髪入れずに彼の頬へ鋭いジャブを浴びせた。
「ぶっ」
「ふざけんなこのエロ猿!クソ発情野郎が!何がメスだばーか!そんなにヤりてぇなら一人でよろしくやってろ!」
「ぐっ、あいぼ…」
「じゃあな!寝たら治るんじゃねぇの?盛ってねぇで大人しくしてろや!ちんこ爆ぜろ!」
ドスドスと足音を立て、怒り心頭のまま武道は部屋を出る。その場で一人残された千冬は武道の剣幕と与えられた痛みに目を白黒させながら、下部を押さえた。
「〜っ、生殺しだろ相棒〜!ちんこ痛ぇ〜!」
その場に残るのは千冬の下世話な叫び声と、遂には飼い主に威嚇を始めた飼い猫のみであった。集中する行き場の無い熱に千冬は思わず涙目になる。そして武道の言う通り、昼寝をしたら謎の現象は消えた。