少し千冬を揶揄っていたらその内、軽い喧嘩に発展した。犬も食えない本当に他愛の無い、何なら千冬も少しふざけているところはあったけれど。武道はちょっと不機嫌な様子で千冬に舌を出せば、彼は彼女の手首を掴んで身動きを封じた。
「はっ!?何!?」
「…あんまり俺の事馬鹿にすんなよ」
「あっ…あっ、いや、ご、ごめ」
「何回言っても分かんねぇ奴にはお仕置きが必要だな」
押さえ付けた武道を床に倒す。ギッチリと拘束したまま、彼女に深くキスをしようとした。その瞬間、武道はキッと目を吊り上げ、『ちょっと』と声を掛けた。
「揶揄ったの、嫌だったなら謝る。ごめん」
「…ああ、…ウン」
「でも怒ってるからお仕置きね〜とかしょうもねぇ事言ってそういうコトしようとすんのはムカつく」
「えっ」
不機嫌そうに眉を吊り上げた武道は唇を尖らせて千冬を睨んでいる。その表情に彼は喉を鳴らしてたじろいだ。
「前からそう言う事してたけどさ、私何も言わなかったけどさ!断ったらちょっと機嫌悪くなんの面倒臭くて黙って流されてやってたけど、お仕置きだの何だのって言ってセックスすんのすげぇ嫌いなんだよね私!別にそういうコトが嫌いって訳じゃなくて、そのタイミングでヤりたくないんだよね!」
「えっ、あ…」
「なんかそうやって力と体格差で黙らせようとしてるのマジでくだらない男すぎるし、気持ち良さそうにしてたらお仕置きにならないなとか言って笑ってるけど、刺激されて濡れるのは生理現象だから!別に気持ち良いとかじゃないしね!」
「待っ、…ごめ」
「解決したいなら押さえ付けるんじゃなくて話し合えば良いんじゃないかな?お仕置きだよ♡とか言って喜ぶ奴マジでAVだろ。知ってた?あれ、めちゃくちゃフィクションなんだぜ?誇張してんのとんでもなく」
「す、すみませ」
「言われたら少しはあった申し訳なさも吹っ飛ぶくらいムカつくし、幻想見たいだけならずっとAV見てろよ!思考する脳味噌全部下半身に付いてんのか」
そこそこ本気で捲し立てられ、千冬は顔を青くする。謝罪をしようと開口するも、彼女の主張に口を挟む余裕は全くなかった。マシンガンの様な言葉の羅列に僅かに恐怖を感じる。何なら『下半身に付いてんのか』という言葉の後で完璧なコンプライアンス違反ワードが飛び出してきたので、それもあいまって千冬は泣きそうだった。
「つか」
「は、はいっ!」
「さっさと退けやっ!」
そう叫んだ彼女は自分を組み敷いた千冬の足の間で自分の足を折り、勢いよく振り上げた。その足は真っ直ぐ彼の股間を蹴り、声にならない声を上げて千冬は真横に転がって縮こまった。
「じゃあおやすみ!」
武道は『ふん』と鼻を鳴らして一人、寝室へ向かってしまう。リビングに取り残された千冬は悶える声を噛み殺しながら股間を押さえて身体を丸めた。
*
「それでまあ、タケミっち朝イチで家飛び出していなくなっちゃったんすよね」
汚れたケージを小箒で掃きながら千冬は悲しそうにそう呟く。そんな男の様子に一虎は呆れた様な顔を見せて小さな子猫の背中を撫でた。
「…だから今日休みだったのに出勤してきたんだ」
「今日は一日中家でのんびりしようって思ってたんすけどね!そりゃ彼女がいなきゃ家にいる意味もないし!自営業だからかなり融通効くし!」
「いやいや、キレてるけどそれはお前のせいじゃん」
千冬は今日休みだった。一日、武道とゆっくり過ごそうと思っていた。けれどその彼女が朝すぐに家を出てどこかへ行ってしまったため、家にいる意味も無くなり、千冬はこうして出勤している。手際良くケージの掃除と餌の準備を進めているが、不機嫌な子供の様にむすくれた表情をしていた。
「そもそもテメェの経験の無さが招いたおもしろ…情けねぇ結果だろ?」
「面白くねぇよ!」
「AVをマジだと思ってるとか激キモ男じゃん。お前スターウォーズをノンフィクションだと思ってるタイプ?」
「思ってないですけど別に!」
一虎はケラケラと笑いながら猫をケージに戻した。一虎の笑い声が癪に障るのか、更に不機嫌になって彼の尻を軽く蹴り飛ばした。
「お前早く謝った方が良いんじゃねぇの?」
そう言いながらバックヤードに顔を出したのは場地だった。呆れた様な表情でじっとりと千冬を見つめている。
「何でもかんでもセックスして喜ぶのは男ぐらいだろ」
「お前っ…同じく女性経験のない場地でさえマトモな事言ってんのに…」
「人間なんだからよ、話し合わねぇと分かんねーと思うぜ?犬とか猫とかとは全然違うぞ、俺ら」
「わ、分かってますけど…連絡が、付かなくて…」
千冬の弱々しい言葉に場地は思わず溜息を吐く。相手にしていられないとでも言いたげに、場地は首を傾げて店内に戻って行ってしまった。
「……タケミっちが揶揄ってきたから俺もちょっとふざけただけで」
「まあ、武道は前々からそれが嫌で今になって爆発したんだもんな。人が嫌がる事はやめようって幼稚園で教わる事だけどな」
「…やっぱもう一報メッセージ入れとこうかな…」
「もー、勝手にしとけよ」
突然機嫌が悪くなったと思えば、急にしおらしくなる。若干情緒が不安定な男に一虎も立ち去ってしまった。
捨てられるのか、別れてしまうのか。何だか後ろ向きな事ばかり考えてしまって仕方がない。段々と下がっていく気分に抗う事もなく、後ろ向きな感情全てを溜息を乗せているとバックヤードに誰かが来た。
「…はー、もうさ、休みって言ったのに勝手に仕事行かないでよね」
「…!タケミっち…!」
そこには今朝何も言わずに家を出て行った武道が立っていた。しゅんと萎れた様子の千冬に彼女は腕を組んで冷たい顔をしている。
「スマホ見たらすげぇ着信あったよ。どんだけ電話したの」
「…だ、だって……」
「そのくせ自分は家で待つでもなく仕事行っちゃうんだから本当に自分勝手だよな〜」
武道にそう言われ、千冬は目を見開く。そして弁明しようと焦って口を開くが、すぐに俯いて『ごめん』と呟いた。
「…千冬さぁ」
「……うん…」
「もう私の嫌がる事しない?」
「しません…」
「そういうコトはちゃんとお互いの同意の上でやろうね。事前の準備とか必要だからさ、一応」
武道の優しい言葉に千冬は唇を噛む。彼女は俯く千冬の頬をギュッと抓って顔を覗き込んだ。
「あんま調子乗っちゃダメだよ。お前も私もすぐ調子乗って失敗すんじゃん、いつもさ」
「も、も、もう、もう、しないぃ…ご、ごめぇん…」
「ったく…そんな事であんまメソメソすんなよなー」
顔をぐずぐずにして、千冬は泣いた。スンスンと鼻を啜る音がする。ぎゅうぎゅうと抱き締めてくる千冬を苦笑しながら武道はあやす。
「…もう今日は仕事でしょ。私、家で待ってるから」
「っ、ちょ、か、一虎くん!俺今から半休!休みます!」
「はあ?急に何言ってんだお前!」
「…自分で仕事行ったんだから責任持って働きなさいよ…」
「まー、いーんじゃねぇの?元々俺と一虎のシフトだったしよ」
二人はバックヤードの扉から顔を出し、こちらを覗き見ている。『そういう裁量は店長であるお前にあるだろ』と場地が言葉を続ければ、千冬は名札付きのエプロンを急いで脱ぎ捨てた。
「か、帰ろ!タケミっち!」
「………良いんすかね…」
「良いよ良いよ。いても面倒だから」
「…ほんっとすいません…」
「武道、ソイツのおもりよろしくな〜」
ロッカーから鞄を取った千冬は武道の手を引いて裏口の扉から店を出て行く。先程とは見違えて嬉しそうで、浮かれている男の背中に短く溜息を吐いて口を開く。
「今日ご飯にケンタ食べたーい」
「あっ、ケンタ?」
「買ってくれなきゃ許してあげないから」
そう言うと千冬は焦った様な顔をした。そしてキョロキョロと辺りを見渡し、目当ての店を探す姿を見て武道はおかしそうに笑った。