5.ファミリー・シークレット
シャッとカーテンが開いた。窓から光が差し込んで、掛け布団に包まる小さな少年は更に丸くなってしまった。
「おはよ。起きて。もう八時だよ」
「んー…」
「起きて。ね」
モゾモゾと蠢き、小さく唸り声を上げて布団が盛り上がった。そしてその中から全く開いていない目をゴシゴシと擦る美少年が現れた。
「おはよ、イザナ。父さんもう起きてるよ」
「……………ぉはよ…」
「うん。リビング行こうね」
母、武道は息子であるイザナの手を取り、引っ張った。そのままリビングに行けば足を組んで椅子に座り、新聞を読みながら珈琲を楽しむ男がいた。父、鶴蝶は優雅な朝を満喫する中、起きてきた息子に顔を向ける。
「おはようイザナ」
「……はょ…」
「はは、まだ眠いな」
「イザナ、お顔洗ってくる?」
「…ゃだ…」
「お顔洗って目覚まそうよ」
「父さんと洗面所行こうか」
「や…かあさんがいい…」
鶴蝶と武道は仕方なさそうに笑った。いつもは聞き分けが良く、まるで大人の様なイザナだが寝ぼけ眼でぼんやりとした彼も年相応で可愛い。イザナの小さな手を引く武道を見送りながら、鶴蝶は立ち上がる。朝ご飯用のパンを焼こうと読んでいた新聞を机に伏せた。
すぐにイザナを連れた武道が戻って来る。顔を洗っても未だに眠そうな彼を椅子に座らせ、キッチンに立つ。
「ありがとうカクちゃん。後は私がやるからイザナの相手してあげて」
「分かった。頼む」
「ちがうし…おれがとうさんのめんどう見んだよ…」
「はいはい」
テレビを見ながら鶴蝶とイザナは会話をし、時たま戯れついている。その様子を眺めつつもテキパキと朝食の準備を進めた。トースターでパンを焼く間、コーヒーのためのお湯を沸かし、フライパンに油を引く。そこにスライスされたベーコンを乗せた。
「カクちゃん、イザナ、卵どうしたい?目玉焼きかスクランブルエッグ…トーストだけど卵焼きが食べたいならそれでも良いよ」
「イザナはどうしたい?」
「…ふわふわ…」
「ふわふわね。分かった」
鶴蝶に改めて聞く事はなかった。こう言った選択肢はイザナに選ばせて彼の意向を尊重し、そして武道が作り易いようにイザナと同じ物で良いと毎回言ってくれるのだ。そんな彼の優しさを汲み取って最近はめっきり聞き返す事はなくなった。
イザナに言われた通りふわふわこと、スクランブルエッグを作ろうと卵を割る。数個割った卵を箸でかき混ぜた。
「あ、カクちゃん、お湯沸いたからコーヒー淹れてもらえない?ついでにイザナにホットミルク作ってほしいかな。イザナ、ホットミルクが良いもんね」
「うん」
「はいよ。タケミチも飲むだろ」
「うん、飲む〜」
鶴蝶は立ち上がり、インスタントコーヒーの粉を二つのマグカップに入れる。ポットになみなみと入ったお湯をカップに入れ、小さなスプーンで掻き混ぜた。もう一つマグカップを出し、ミルクを注いでレンジで熱する。
「ねー、見て、ベーコン良い感じじゃない?」
「お、美味そう」
「イザナ、ベーコン一枚全部食べる?食べれなかったら半分でも良いよ」
「一枚」
「うん。もうすぐ出来るからミルク飲んで待っててね」
鶴蝶はレンジから温かいマグカップを取り出す。三つのマグカップを器用に持ち、テーブルに置いた。触れようとするイザナに熱いから気を付けなさいと注意をして鶴蝶も席に着く。
「父さんが冷まそうか?」
「いい」
ふーふーとミルクを冷まし、恐る恐る口につける。その様子が可愛くて鶴蝶は顔を綻ばせながら眺めていた。
「はい、お待たせしました。朝ご飯出来たよ」
席に座る二人の前に運ばれて来たのはサラダとスクランブルエッグとベーコンの乗ったワンプレートとトーストだ。『美味しそうだな』と呼び掛ける鶴蝶の言葉にイザナは小さく頷いた。
「うん、じゃあ食べよっか」
準備を終えた武道が席に着く。食事は極力全員揃って行うと言うのが彼らの中での暗黙の了解だ。そうして誰からともなくパチンと手を合わせる。
「じゃあ、いただきます!」
「いただきます」
「……いただき、ます」
いつもと同じ様に何でもない日常を過ごしていく。彼らはどこにでもいる様な普通の家族として日本とは遠く離れた異国の地で暮らしているつもりだった。
*
この家族は秘密だらけである。外じゃあ普通の皮を精一杯被っているが、決して普通なんかではない。
まず、今は父親である鶴蝶は会社員なんかではない。表向きでは日本で勤めていた会社から、この国にある本社に栄転する事になったと言っているが全くと言って良いほど嘘であった。鶴蝶はそんな真人間ではない。本当は表社会では生きる事の出来ない反社会勢力だった。
鶴蝶の仕事はジャパニーズ・マフィアのナンバー3。ジャパニーズ・マフィアはヤクザなのかと言われれば、それは違うと答える。鶴蝶が所属する組織はヤクザよりも闇を行く、凶悪犯罪組織と言っても過言ではない様なものだった。薬も殺しも、何もかもを厭わない。汚い金を動かし続け、巨万の富を得続ける。きっと鶴蝶も人を殺しているのだろう。何せナンバー3なのだから。
梵天。警察でさえも名前を聞くだけで震え上がってしまう様な、今、日本を震撼させている大きな凶悪犯罪組織だ。それが鶴蝶の属する場所の名だった。そんな彼が武道とどう知り合い、如何にして結婚したのかは知る由も無いが、そんな彼女も普通では無い。
母親である武道は小さな企業で事務職として働いていると嘘を吐いている。彼女がしている仕事は机に座って資料を整理する様なものじゃない。もっと活動的で危険な仕事だった。
彼女は怪盗である。簡単に言えば泥棒だ。しかし一概に悪いとは言えない。何故なら彼女はむやみやたらに高価な物を奪っていくのではなく、あくまでも依頼された物を取り返すのだ。
彼女の所属する小さな怪盗団は海外政府や金持ちから秘密裏に依頼を受け、日本に流れた自身の所有物を取り返すと言う仕事だ。その所有物というのは大抵高価な調度品である。海外の富豪や政府を相手にしている事もあり、梵天とは相反して小さい組織でありながら収入はかなり上々だった。
やっている事は日本にある物を元の場所へ戻すと言う慈善行為の様な事である。しかし日本からしてみれば博物館で保管されていたり、政府が大切にしている貴重な物を盗まれてしまったと言う事になる。海外からすれば彼女らは良い人間なのだが、日本国内からすればただの盗人で悪党なのである。
日本にとっての悪党だという点は鶴蝶も同じだった。しかし武道とは全く違う。武道は海外では頼られて日本では憎まれてしまう様な、まだ正しいと擁護の余地がある仕事をしている。だが鶴蝶はこの世にある犯罪という犯罪の全てに手を染め、誰が見ても真っ黒の有罪であると指摘する様な事をしていた。鶴蝶には庇う間すらも無い。単純にとても悪い奴だった。そうしてそれぞれ自分達なりに日本国内を騒がせている二人が注目されないはずがなかった。
彼らは指名手配にあった。鶴蝶はとある梵天の下っ端が流した情報によって本部の場所がバレてしまった。それにより梵天首領と幹部数名の僅かな情報が流れてしまった。武道は監視カメラにほんの少し写ってしまった事による、ただの凡ミスで国内のあらゆる人から狙われた。武道の救いと言えば、彼女の姿を捉えたカメラがあまりにも旧式過ぎたため、画質が驚く程悪かった。尚且つ、万が一のために金髪のウィッグを被っていたため、手配書は金髪の女と書かれた。
お互いに詳しく顔が割れている訳でもないし、手掛かりも大してない状態で特定されるなんて事は有り得ないと思っている。しかし念には念をという事でそれぞれ国外へ逃亡した。家庭内的には偶々鶴蝶が海外赴任する事に決まり、武道は仕事を在宅ワークに移行出来るから大丈夫と了承した。だから形式的には海外へ密かに移住したのである。お互いにお互いの正体が何なのかは全くもって知らない。自分の愛する人が片や反社幹部で片や正義の怪盗だと言う事も知らなければ、それぞれ指名手配されている事も知らなかった。
先程から武道と鶴蝶の話ばかりしているが実の所、イザナも普通ではない。彼は二人の実子ではなく養子として迎えられた子供だ。
年齢は推定五歳程度とされるが五歳にしてはあまりにも聡すぎる上に妙に達観しているせいで親から気味悪がられた。その親というのも金銭的にも本人の性格的にも元々子育てが出来る様な女ではなく、新宿の真ん中にイザナを捨ててどこかへ消えてしまったのだった。
イザナにとって本当の親など、どうだって良かった。引き取られた先、今が十分幸せならばそれで良かったのだ。そんなもうすぐ六歳になる少年、イザナの秘密はこれだった。
彼は五歳などではない。無論、身体は五歳児だが本当は十八の青年なのである。とある世界で銃に撃たれて死んでしまった青年、黒川イザナは目を覚ますと小さくて汚いアパートの一室に横たわっていた。身体を起こそうと捻ってみるも全く動かない。疑問を抱きながら徐ろに上げた手にイザナは目を丸くした。自分の物であるはずの手は非常に小さく、赤子の様な手となっていたのだ。声を出そうにも『あう、あう』と声にならない声ばかり。そう、イザナはどこかの世界から転生し、赤ちゃんとして第二の生を歩み始めた。
五歳の体に詰め込まれた彼の中身は十八歳の青年である。それならば大人の想定以上にこの五歳児が賢い事に納得出来るし、十八で死んでしまった命なら人生に対し妙に達観している理由にもなる。その上、その前世のイザナとやらは酒も女も煙草も暴力も知っているし、絵に描いた様なクソガキで腕っ節もやたらと強い。正直な所、以前の母親もそんなイザナに手が付けられなくなって育児を放棄したという事実もある。
それがどうしてこの二人の子供として大人しくしているのかと言えば、イザナの前世に繋がる話である。彼の前世に鶴蝶はいた。自分の部下として、本物の家族の様に、弟の様な存在として彼はいたのだ。銃に撃たれて死んだのだって本当は銃に撃たれた鶴蝶を庇ったからである。イザナにとって鶴蝶は大切だったのだ。廃れた人生の中、イザナはいつだって彼が人並みに幸せになれる事を願ってしまう。
武道の事はあまり知らない。けれどあの佐野万次郎のお気に入りで壱番隊の隊長を担う男であったという事は知っている。やけに皆から慕われていて、鶴蝶も『ヒーローだった男』と言葉を溢す程に。
そんな二人が生まれ変わった先、恐らく本来いた場所とはどこか別の次元の話なのかもしれないが、そこに鶴蝶と武道はいたのだ。こうして夫婦として寄り添っていた。鶴蝶は鶴蝶なのにどうして武道が女性になっているのかなんてイザナに分かるはずもない。しかし武道の隣で幸せそうに笑う鶴蝶を見る事が出来た。それだけでイザナは良かった。彼のそんな顔をもっと間近で見たくて、イザナは新宿の道端で武道の服を掴んだのだった。
そこから引き取るに至ったが、イザナは用心した。イザナは二人の事を知っているけれど、二人はイザナの事など見ず知らずの五歳の子供としか認識していない。決して中身は十八歳の、外と中がチグハグな怪しい奴と思われる訳にはいかなかった。生みの親が捨てるのなら勝手にしてほしいくらいだが、二人には捨てられたくなかった。だからイザナは十八歳の自分を懸命に隠し、恥に打ちひしがれながら日々五歳児のフリをしている。あどけなさとあざとさを意識して毎日幼い子供として振る舞っているのだ。
父、鶴蝶は反社会勢力組織のナンバー3。母、武道は海外をクライアントとして活動する怪盗集団。息子、イザナは身体は五歳でありながら、本当は十八歳の不良青年。それがこの三人家族の正体だった。イザナは母と父の話を盗み聞いたり、ニュースを見た時の反応を見て二人の正体を何となく察してしまったのだが、二人はそれぞれの本当の姿を知らない。ただひたすらに、家族の中にある優しい愛情が嘘をひた隠しにしていた。