午後5時

コンコンと机を叩く音が鳴る。少年は机の上にノートと教科書を広げてシャープペンシルを握っているのだが、その手は先程から全く動いていない。偶にコンコンとペン先で机を叩き、芯を折っては上部をカチカチとノックするを繰り返していた。目の前の少女は溜息を吐いて遂には机に頬を押し付け、突っ伏し始めた少年、八戒に文句を言う。
やんなよ、課題」
「えー、やだぁもう無理なんだけどぉ
「谷口の授業で宿題忘れてくる方が悪いんじゃん」
「ホントそれ。タケミっちでもやってたのにね〜
谷口と言うのか二人が通う高校の国語教師である。声を荒げはしないものの、ネチネチと長くしつこくイヤミな説教をする事から生徒間での評判はあまり芳しくない。特に忘れ物と授業毎に出される課題の提出にはめっぽう厳しく、見つかったが最後、面倒な課題を与えられて終わるまで帰ってはいけないと強く言い付けられてしまうのだ。
今回、八戒は出された課題をまんまとやり忘れ、こうして居残りをさせられている。授業中に粘り気の強い納豆の様にネチネチとした説教をかまされ、その上昼休みに職員室に呼び出しを食らい、そこでも注意とイヤミの連続。そして最後、手に置かれたのは大学入試の過去問だ。これを今日中に解いて提出しに来いとの事だった。
谷口は現代文を専攻している教師である。そのため、出された問題は現代文の大問一つのみ。真面目にやれば三十分でも終われる量ではあるのだが、相手は柴八戒。そんな簡単に行くはずもない。集中力もなく、しっかりと馬鹿な八戒は問題の長文を数行読んだだけでやる気を失くした。そこから三十分が経過し、進捗としては大問一の漢字の問題が埋まったのみである。
「ねぇ、やんないなら帰っていい?」
「ダメ!絶対ダメ!」
「じゃあやれよ早く
八戒の前の席に座って彼の様子を眺めている武道は、八戒に泣きつかれて渋々残っているだけである。一人じゃ寂しいから一緒にいてほしいと彼は駄々を捏ねた。生憎、千冬はバイトだったし、溝中メンバーは声を掛ける前に早々に逃げて行ったので矢面に立たされたのは武道だった。彼女も何度かしっかりと断ったはずだが、八戒のあまりのしつこさに武道が折れてしまった。
足をぶらぶらと揺らし、八戒の脛を蹴る。彼は気が散るからやめてよぉなんて抗議するけれど、そもそもの体制が机にだらんと身体を預けた、いかにもやる気の無さそうな状態なので説得力は皆無である。
ねぇ、早くやれよお前終わるまで私の事帰さないつもりでしょ
「そうだけど?」
「そうだけどじゃねー別にさ、全問正解して持って来いって言ってるわけじゃないじゃん?ちゃんと解いて出来る限り埋めて来いって言ってんだから谷口もかなり優しいでしょ」
なんか俺、谷口にナメられてね?」
「実際ナメてんだよ!八戒馬鹿だから!でもそれすら未だに解けてないのは八戒でしょうが!」
「だってめんどくさいもーん!」
「駄々を捏ねるな!やれ!」
上履きの踵で八戒の脛を攻撃する。少し力が強かった様で彼は割と本気の声で『痛い』と訴えた。
「もー、これくらい一人でやれよー。何で私がここまで付き合ってやんなきゃなんねーわけ?」
「だって一人寂しいじゃん!」
「うるさい末っ子!」
「一人っ子に俺の気持ち分かんねーでしょ!」
やってらんないとでも言いたげに、武道は携帯を弄る。八戒はそれを見て携帯触んなと頬を膨らませた。
「やだなぁ。八戒と二人きりってさ〜。そうじゃなくても早く帰りたいのに」
「何で!?俺の事嫌い!?」
「いや、そうじゃなくて八戒普通に女の子人気高くてなんか二人っきりだと気まずいんだよねぇ。この前だって吉岡さんにめっちゃ見られたし」
「男子の事はさ、別に仲良くなくても呼び捨てなのに女子同士だとさん付けなの?」
「お前とは仲良くないよっていう線引き」
「はぇ〜めんどくさ」
「私もそう思う」
流石は柴家。三兄弟全員、顔が良いので女子には大モテである。勿論八戒も先輩や可愛い同級生に好意を持たれてはいるけれど、八戒は女子が苦手なため、その好意に応える事はない。何なら会話をする事すらない。
けれども女子ではありながら武道とは普通に会話が出来ている。それには柴家の家庭問題に首を突っ込んだりと海よりも深い訳があるのだが、そんな事は知る由もない少女達からすればあまりにも妬ましい事である。自分から武道に直接働きかける事はなくても、ジッと静かに圧力を掛けるくらいはした。その圧を察して武道も少し気まずい思いをしていた。
八戒は武道の話を聞いて眉を顰める。心底面倒臭そうに溜息を吐いて頬杖を突く。そんな彼の手をパシンと叩いて武道は睨み付けた。
「手を動かせ。テキストを読め」
「あー!もうやりたくなーい!」
「やりたくないっていうほどやってないだろ!つか問題だって少ないじゃん!問一の漢字埋めたし後四問でしょ?ほら、問三とか選択じゃん。四角に入る適切な接続詞を選べって。適当に丸付けたら?」
「そんなんしたらバレるじゃん!ぜってー!」
「じゃあちゃんと読めば?」
「文章読むの嫌なんですけどー!」
「忘れた八戒が悪い」
「タケミっち手伝ってよー!」
「現代文で何をどうやって手伝うんだよ。それに私も馬鹿だから無理でーす」
大声で騒ぎ、泣き真似をする男を軽くあしらい、武道は大欠伸である。大した反応をしてくれない彼女に八戒も不満げに唇を尖らせた。
「タケミっちってホント冷たいよね。俺に意地悪ばっか」
「どの口が吐かしてんだ」
「俺もタケミっちにやり返す。意地悪する!」
「本人前にして宣言しちゃうもんな。それで具体的に何すんの?」
武道の切り返しに八戒は狼狽えた。言ったは良いものの、特に深く考えてはいなかったらしい。『ええと』と言葉を溢し、目を泳がせた。
「タケミっちが嫌な事する
「だからそれは何って」
「え、えータケミっちにギュってする。付き合ってない男にやられたら嫌じゃね?」
八戒いつもしてんじゃん」
そう返され、八戒は『あっ』と声を上げた。武道にとって八戒は付き合ってない男だが、二人の関係性など全く関係なく、八戒は武道にくっ付いている。気付けば彼女にバッグハグをかましているし、武道もそれが日常化して突っ込む気すら起きなかった。それでも内心、男女の距離感ではねぇなと冷静な見解を持っていたらしい。『前からおかしいとは思ってた』と前置きをして苦情を言う。
「そう言うのは同性同士の距離感じゃん?高校生でさ、異性でやるのは違うと思うのよ。そんなんだから私、女子に八戒くんと付き合ってんの!?って言われんの。何回も何回も同じ事聞かれる私の気持ち分かる?」
「ご、ごめん
「これからは控える?」
それはやだ
「あー、融通効かないよな〜八戒は」
「それは嫌だからな!」
「何回も言わなくても聞こえてるって」
適当に返事をして武道はメールを確認する。全く相手にしてくれない彼女を見てムッと頬を膨らませた。
「じゃあちゅーする!」
「はぁ?」
「ちゅーはしてない!まだ!」
八戒の叫びを武道は鼻で笑う。ニヤニヤとした笑みで八戒を眺めた。
「出来ねーって。八戒には無理だよ〜」
「はぁ?なんでそんな事言うの!?」
「キス出来るんだったらもう女子と喋れてるはずだって。ハグとはまた違うんだから」
「出来るよ」
「無理だって。つーかキスこそ友達じゃやんな」
半笑いで言葉を続ける武道が全てを言い切る事はなかった。彼女の台詞は言葉半ばで途切れた。それもこれも八戒のせいであった。
言葉の途中で八戒は武道の手首を掴み、グイと手を引く。それに驚いて顔を上げた時には、八戒の顔が目の前にあった。『えっ』と短く驚きの声を上げて、小さく口を開く。彼女が見せた一瞬の隙を見逃す事なく、八戒は畳み掛けるようにキスを落とした。僅かに首を傾げ、優しく唇を這わせる。唐突な出来事に武道は目を丸くしたまま固まっていた。
八戒が唇を離すと武道の口から溢れ落ちるのは『へ?』と言う情けない声だった。見開いた目に大きく映るのは真剣な顔をした八戒で、動揺する。ひどく真面目な顔をした彼はほんのりと頬を赤らめ、先程の騒がしい様子から一転して静かに彼女を見ていた。
「ぁ、
あのさ、タケミっち。これを機に言いたい事があるんだけどさ」
「い、言いたい、事?」
「俺ね、タケミっちの事大好きだよ」
それは、午後五時の事である。

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