しわしわで小さくて、崩れ落ちてしまいそうに柔らかな生命を腕に抱く。赤子を抱いたのはこれが初めてで、恵にはこの抱き方が正しいのかは分からなかった。
赤子は目を瞑り、すやすやと寝息を立てている。出産という最初の大仕事で随分と疲労したのだろう。起きる気配は無い。腕の中で眠る我が子をどうすればいいのか、ベッドに横たわる悠仁に目で訴えるも彼女は笑うのみだ。
「あの、どうすれば」
「そろそろ寝かしたげて。優しく降ろしてね」
悠仁の言う通り、新生児用のベッドに子供を横たえる。自分よりも格段に小さな手がもぞりと動いた。
「よく寝てるね」
「起きる気配ねぇな」
「この子も命懸けで生まれてくるから疲れちゃったんだね」
恵は子供の傍らから悠仁のベッドの側に置かれた椅子に腰掛ける。珍しく疲れた顔の悠仁は頬に触れた恵の手を弱々しく握った。
「呪術師としてそれなりに死線は潜ってきたつもりだけど出産が一番死ぬかと思ったなぁ」
「…オマエは一回死んでんだろ」
「その節はごめん。でももう恵もこの子もいるからそんな事しないよ」
「そうしてくれ」
悠仁の腹はぺたりと凹んでいた。膨らんだ悠仁の腹ばかりが思い出され、こうして横たわるほっそりとした妻の姿を恵は何故だか不思議に思ってしまう。
「悪い。出産直後で疲れたよな。ゆっくり寝てくれ」
「んー…そうする」
「おやすみ。…これから一緒に頑張ろうな」
「うん。おやすみ恵」
こうしてとある春の日、一つの命が生まれた。当たり前だが小さな子供と接する機会の無かった恵はまだ赤子を抱く手すら覚束なく、生まれ落ちたばかりの命とどう向き合うべきか手探りであった。
そんな瞬間に巡り会ったのももうおおよそ三年前だ。その時生まれた娘は当時と比べるとかなり成長し、愛らしい服と可愛らしい髪をしてお喋りをしている。今日も悠仁にツインテールに結んでもらい、ご満悦の様子であった。
そんな悠仁は最近続く体調不良から病院に行く事となった。大事とも取れぬ絶妙な微熱が連日の様に続いていたからだ。玄関で靴を履く悠仁の後ろで恵に抱かれた娘が声を掛ける。
「ママどこいくの?」
「ちょっと用事〜」
「わたし、いっしょにいけない?」
「そうだね〜。だからパパと留守番しててね」
「パパは嫌いか?」
「ううん!パパだいすき!」
娘は恵の首に手を回し、ぎゅうと抱き付く。頬擦りをすれば恵は笑って優しく抱き締め返した。
「それじゃあ行ってくる」
「ああ…何かあったら連絡してくれ」
「うん。行ってきまーす!」
「ほら、ママにバイバイってしような」
「ばいばい!」
開いたドアはパタリと閉まった。恵は娘を下ろし、リビングに行く。
「今日何したい?」
「パパとあそぶ〜!」
「何して遊ぶんだ?」
「こうえんでボール!」
「そうか。じゃあ公園行こうな。……お外で何か食べるか?」
「ぽてと!」
「じゃあもうちょっとしたらポテト食べて公園行こう」
「やくそく!パパ!やくそく!」
ふくふくとした小さな小指に指を絡める。娘は『ゆびきりげんまん』と陽気に歌を歌った。
「あのね、ほいくえんのせんせーとね、したの!ゆびきりげんまんって!」
「何の約束したんだ?」
「せんせーと、わたしのひみつ〜!」
にっこりと大きく開けた口の前に小さな人差し指を一本立てる。お茶目なポーズに心底では悶えながら恵はお出掛けの準備のために立ち上がった。
「パパもおしゃれしてね!おそとにいくからね!」
「そうだな。おしゃれしなきゃな」
「かっこよくないとだめなんだからね!」
可愛らしい念押しに思わず笑う。最近、彼女はシンデレラを観ていたため、王子様に憧れているのだ。
彼女は今も着ている、まるでシンデレラのドレスの様な青いワンピースを頻繁に着たがる。そして特に父親である恵にカッコよくオシャレをしろと頬を膨らませて命令するのだ。どうやら恵を王子様に見立てているらしい。何と可愛い事だろうか、恵の頬は緩くなる一方だ。
部屋着から着替えて娘にオッケーを貰った後、お出掛け用のバッグを持って外へ出た。公園へ行くのもそこまでの遠出では無い。歩いて二十分程の所に大きな公園があった。
公園へ行く前にハンバーガーショップへ入る。そこで昼食を済ませる魂胆だった。娘の望み通りポテトと小さなパンケーキを注文する。恵自身はハンバーガーのセットを、そして娘の可愛いおねだりに負けて単品でナゲットも頼んだ。
キッズセットを頼み、ついてきたおもちゃの封を早速開けて娘はご満悦だ。ビリビリに袋を破いて出したおもちゃで既に遊んでいる。
「先にご飯食べなさい」
少し声のトーンを下げてそう言えば娘は『はぁい』と返事をしてパンケーキに手を伸ばす。ふくふくとした頬を動かし懸命に咀嚼した。
「ジュース、パパが開けるか?」
「やだ!わたしやる!」
恵の手からパックのリンゴジュースとストローを受け取り、器用に刺した。ちゅうちゅうと吸い込み、顔を綻ばせる。『美味しいか』と聞く恵に娘は『おいしいよぉ』と笑った。
「ナゲットもあるからな」
「おにく〜?」
「お肉だぞ」
「たべたい!」
恵はナゲットを一つ摘み、娘に差し出した。彼女は雛鳥の様に大きく口を開けてナゲットを待つ。口の前まで運べば、半分をパクリと口に入れて噛み切った。
「おいしいね!」
「良かった」
「パパはなにたべてるの?」
「ハンバーガー」
「えっとぉ、トマトと、レタスと、あとなにはいってるの?」
「ハンバーグとベーコンと、チーズ」
「おにくばっかだよ!ママにおこられない?」
ナゲットを食べながら娘は小首を傾げた。この間ファミリーレストランに行った際、唐揚げとハンバーグを頼もうとした娘は悠仁に『肉ばかりはダメ』と怒られたのだ。
「パパは怒られない」
「なんでぇ?」
「大人だからな」
「ずるい!」
「大人になるまでの我慢だな」
「えー!」
「でも良いのか?大人になったらそのパンケーキ食べられなくなるぞ」
「これたべられないの?」
「子供用だからな」
『えー!』と声を上げ、驚いた顔を見せる。それならまだ子供でいいやと大人しく席に着き、パンケーキを頬張った。
「でもねぇ!わたしもね!おとななんだよ!」
「大人なのか?」
「ママにだっこしてもらうのすくなくしてるの!わたし、おねえちゃんになるから!」
「偉いな」
微笑みながら頷き、娘の頭を撫でる。そこで恵は眉を顰めた。まだ自分達の間には彼女しかおらず、彼女に妹も弟もいない。なのにどうして娘は自分の事をお姉ちゃんと言うのか分からなかった。けれど子供がその時言う事に大した意味はないのだろうと言葉を流す。
頼んだ全てを食べ終え、店を出た。美味しかったねぇと笑い、娘は自ら恵の手を握る。
その後、二人は公園に向かった。滑り台や砂場、大きなジャングルジムを見て娘は向日葵の様な笑顔を見せる。彼女の手を離せば『おっきーい!』とはしゃいだ様子で遊具の元へ走っていく。バッグに入れたボールは今日、その役目を果たしてくれるのだろうかと恵は苦笑した。
「パパ〜!」
娘はジャングルジムの上に登って恵に手を振っている。三歳にして高いジャングルジムの一番上で片手を離しているのだから、その運動神経は悠仁譲りだろう。恵は娘に手を振り返し、スマホで写真を撮る。
「みて〜!」
「凄いな。でも調子乗って落ちんなよ。気を付けろ」
「うん!パパ!だっこ!」
少し低い場所まで降りて来て恵に向かって手を伸ばす。スマホをしまい、彼女の脇に手を伸ばして抱き上げた。初めて彼女を抱いたあの頃と比べて娘ははるかに大きくなっている。何だか感慨深くて少し強く娘を抱き締めた。
「わたしすべりだいいきたい!」
「分かった。行ってこい」
娘を下ろすや否や、彼女は滑り台へと走っていく。駆けて行く小さな後ろ姿を見守り、元気さに笑った。有り余る体力も感心する程の運動神経も、眩しい笑顔や人怖じしない性格と言った彼女の全てが恵の最も愛する妻に良く似ている。その分どこかへ嫁いでしまうのが寂しく思えてしまうし、そう零せば悠仁には『気が早すぎる』と笑われてしまうのだ。
「パパ〜!おちゃちょうだい!」
両手を伸ばす娘を少し待たせ、バッグから水筒を取り出す。蓋を開けてそこにお茶を注ぎ、娘に手渡せば元気良く飲み干した。
「ボールで遊ばなくていいのか?」
「あ!あそぶ!パパ、ボールだして!」
娘は恵の手をグイグイと引っ張り、広い場所でボールを受け取った。『いくよー!』と叫んで力一杯ボールを投げる。ボールは恵の少し手前で地面に落ち、ワンバウンドして恵の手に収まる。
「投げるぞ」
「はーい!」
優しくボールを放る。パラボラを描いて宙を進んだボールはしっかりと娘の手に渡った。ボールをキャッチした弾みで彼女はよろけ、尻餅を付く。しかし彼女は泣く事もなく、ヘラヘラと笑っていた。
「大丈夫か?」
「うん!パパ!なげるね!」
彼女の懸命に投げたボールを受け、また優しく放る。そして娘はそれをキャッチして体全体を使って大きく投げた。それを繰り返していると気付けば娘は息も絶え絶え、汗だくになっていた。
「パパ〜!あつーい!」
「暑いな。ほら、汗拭け」
フカフカのタオルで顔を包んで汗を拭く。息の荒い娘にお茶を手渡せば一瞬で飲み干し、おかわりと手を突き出した。
疲れたと言う娘にもう帰ろうと手を出せば、娘は静かに握り返した。彼女の小さな手を揺らしながら道を歩く。娘は十分疲れているはずなのに抱っこをせがむ事はなく、頑張って歩いていた。そんな彼女を少し労いたくて恵は立ち止まった。
「アイス食べるか?」
「いいのぉ!?」
「自分でちゃんと歩いて偉いからご褒美だ」
「ほんと!?やったー!」
店に入ろうと言う所で立ち止まる。そして真剣な顔で恵を見た。
「ママにおみやげかわないでいいの?」
「ママに?」
「うん!わたしはポテトたべておにくたべて、アイスもたべて、ママだけかわいそうだよ!」
「優しいなオマエは」
そう呟いて娘に笑いかける。彼女も『えへへ』と笑い返し、恵の手を握り直した。
「じゃあアイス何個か買ってお家で食べるか」
「うん!あのね、ママね、さいきんミカンいっぱいたべてるよ!だからね、ミカンのアイスがいいとおもう!これ!」
娘は看板を指した。橙色の丸いオレンジシャーベットを示している。しかし恵はそこに疑念を抱いた。
「……アイツ、そんなにミカン好きだったか?」
「ママ、ミカンばっかりたべてるよ?」
「そうか」
自分よりも悠仁と一緒にいる娘が言うのだからそのなのだろうと恵は思った。レジカウンターで六個入りのお持ち帰りセットを頼む。四つ程好きなアイスを娘に選ばせ、後は自分の好きなコーヒーフレーバーと悠仁用のオレンジシャーベットを注文した。
アイスを片手に娘の手を取り、家に帰る。家に着き、娘の靴を脱がせれば彼女は廊下を元気良く駆け出した。あれだけ息も荒く疲れた表情だった娘がもう走っているのだ。元気だと半ば呆れつつも恵は声を上げる。
「手洗いうがいしなさい」
「はーい!」
リビングに入ろうとしていた彼女は洗面所に向かった。娘が聞き分けの良い子で良かったと頷いて恵はリビングにアイスとバッグを置き、彼も洗面所へ向かった。
手洗いうがいをしっかりと済ませ、アイスを食べようと皿とスプーンを取り出す。どれが食べたいかと娘に問い掛ければチョコレートのアイスを指さした。それを取り出してスプーンを手渡せば律儀に手を合わせて『いただきます』と言った後、すぐにアイスにスプーンを立てた。
「どうだ?」
「おいしい!」
「良かったな」
「パパもたべる?あーん!」
娘が差し出したスプーンをパクリと口に含む。甘いチョコレートの味が口内に広がった。『美味しいよ、ありがとう』と礼を言えば、娘はにへらと悠仁の様な愛らしい笑顔を見せる。
「パパのは?なにたべるの?」
「コーヒーのやつ」
「おいしい?」
「パパにとってはな。これは大人の味だからオマエは食べちゃダメ」
「えー、またぁ?」
「これすごく苦いんだ。大人の味だからな。ほら、ピーマンくらい苦いぞ?」
本当は実際のコーヒーより格段に甘く作られている。けれど三歳の子供にコーヒーのアイスを食べさせるのは怖いため、そう嘘を吐いた。子供らしくピーマンが苦手な娘はまんまとその嘘に引っ掛かり、『じゃあいい』と首を横に振る。
「ピーマン食べれないと大人にはなれないな」
「ピーマンたべたらおとなになれる?」
「オマエ次第だ」
「でもわたし、おねえちゃんだし、がんばってたべる!」
「偉いな」
娘の頭を撫でた時、インターホンが鳴った。そしてすぐに『ただいま〜』と聞き慣れた声が聞こえる。娘は大きな声で『ママだ!』と立ち上がり、玄関に走った。
一足先に玄関に向かった彼女は鍵を開ける。ドアを開けてもう一度『ただいま』と笑った悠仁は娘の頬を撫でて彼女の名前を呼ぶ。
「良い子にしてた?」
「うん!」
「パパの言う事ちゃんと聞いた?」
「うん!わたし、いいこにしてたよ!」
「そっかぁ!偉いね!」
「おかえり、悠仁」
「あ、ただいま恵。留守番ありがとね」
「いや、コイツ連れて公園行ってた」
「そうなんだ」
「アイス買ったからオマエも食べろ」
「わー!ありがとー!」
悠仁はしゃがんで娘を抱き締めた。娘は『ママだけかわいそうだからね!』と得意げな様子である。
「そうだ、恵…って言うか恵だけじゃなくてこの子にも話したい事あるんだけど」
その言葉に恵は顔を曇らせた。今日行った病院で何か言われたのではないかと心配になる。そんな彼を察してか、悠仁は笑った。あまり深刻な物ではないと一言言う。
「むしろおめでたい事かなぁ」
「何だよ。もう一人出来たとでも言うつもりか?」
「わ!すごーい!よく分かったね!」
パチンと手を合わせ、悠仁は嬉しそうに笑う。恵は目を白黒させて頭にハテナを浮かべた。
「…え?」
「そうそう!最近熱っぽいし、何かやたらと酸っぱい物食べたくなったり何かおかしくて、ちょっとこの症状心当たりあるなって思ってたら本当に妊娠してたらしくて!凄いよ!二人目だよ!」
「…マジでか?」
「うん!」
恵はふと、思い出す。娘と昼食を取っている時の、また先程交わした会話の中の彼女の言葉が頭を過ぎる。可愛い娘の得意げな『わたし、おねえちゃんになる』と言う言葉だ。恵は『えっ』と声を漏らし、思わず娘を凝視した。悠仁の腕の中で、恵をジッと見た娘はニコリと笑う。
「ね、パパ、いったでしょ?わたし、おねえちゃんになるんだよ!だからおとななの!」
少しゾッとして玄関の前で恵は身体を固めた。事情の知らない悠仁は嬉しそうに娘を抱き締め、『そうだよぉ』と頬擦りをする。そんな彼女も後に恵の話を聞いて幼子の勘に圧倒される事となるのだった。